23

ビッケさんの指示で、エーテル財団の職員さんが大勢、この寒い地下へとやって来ました。
つい先程まで、母様の指示でわたし達を追い払おうとしていた彼等ですが、代表という指針を失い、このような地獄めいた場所を見せられた今となっては、
もうわたし達に敵意を向けることさえ忘れて、ただこの空間にショックを受けていました。
凍り付いたように動かない彼等を、ビッケさんは柔らかな声で励ましつつ、彼女自身も戸惑いながら、それを務めて隠して気丈に指示を出していました。

凍らされたポケモンさんの入った大きな氷が、職員さんの手によって次々と台座から降ろされ、運び出されていきました。
ハウさんが「このポケモン達はどうなっちゃうのー?」と、不安そうにビッケさんを見上げて尋ねました。

「眠らせることができたのですから、目覚めさせることだってできます。少し時間はかかりますが、大丈夫ですよ」

「じゃあ、ミヅキも目を覚ますよね?何もおかしくなったりしないよね?」

「……ええ、理論上はそうである筈です。私もコールドスリープという技術に触れるのは初めてなので、断言して差し上げることはできないのですが」

全てのポケモンさんを運び出し、最後に彼女の眠る最も大きな氷に手を掛けようとした職員さんを、しかし一人の男性が止めました。
緩慢な足取りで歩いてきたその男性は、エーテル財団の支部長さんでした。
ザオボーさんという名前ですが、彼は名前よりも肩書きを重んじているため、名前で呼ばれると機嫌を悪くすることがしばしばありました。

「1分でいい、そのままにしておきなさい。少し、しなければならないことがあるのですよ」

彼は得意気にそう言って、コートのポケットからカメラを取り出しました。
そして何を思ったのか、そのレンズを眠る彼女の方に向けて、何の躊躇いもなく写真を撮ったのです。
パシャリ、というフラッシュの音が、この白い地獄においてひどく間の抜けたものに思われてしまい、わたしは暫く、声を失って立ち尽くしていました。

2回、3回と、彼は位置を変えたりカメラを傾けたりして写真を撮っていました。
ようやく我に返ったわたしは、冷たい床を蹴って駆け出しました。わたしが駆け寄っても、すぐ傍に立っても、彼はカメラのレンズから目を離しませんでした。

「や、やめてください!何のためにそんなこと、」

「彼女に見せるためですよ。何か問題でも?」

憤りに上擦ったわたしの頼りない声の後に、ザオボーさんの、凛とした涼し気な声音が重ねられました。
彼女、とは、この氷の中で眠る彼女のことを指している。そう認めたわたしはにわかに恐ろしくなりました。この人が何を言っているのか、全く分からなかったのです。
同じ言語を操っている筈なのに、わたしとこの男性との間には大きすぎる隔たりがあるように思われました。
彼の思考を、わたしは理解することができませんでした。理解したくありませんでした。

「お願い、そんな酷いことしないでください。ミヅキさんを苦しめるようなこと、もう……!」

すると彼はようやくカメラから目を離しました。わたしは安堵する筈でした。けれど、余計に恐怖を覚えて身体を強張らせることになってしまいました。
緑の大きなサングラスの奥で、あまりにも鋭い目がわたしを睨み付けていたからです。

「はあ……。馬鹿ですか貴方は」

母様の目とは、比べ物にならない温度でした。……いえ、比較することさえ間違っていたのでしょう。ザオボーさんの目は冷え切ってなどいなかったのです。
寧ろ、煮え滾っていました。今にも弾けてしまいそうな程に、触れることが躊躇われる程に、熱く濁った憎悪の目をしていました。
そのような感情を向けられたことのなかったわたしは、動揺と困惑にたじろぎ、次の言葉を紡ぐことを躊躇いました。そんなわたしに、彼は容赦なく続きを浴びせたのです。

「黙っていなさい、君のようなお子様に何が解る。
守られているしか能のないお子様に、わたしよりも前からこの子と知り合っていながら、この子の歪んだ個性に微塵も気が付かなかった愚鈍なお子様に、何が!」

この人が何を言っているのか、わたしには全く分かりませんでした。
支部長を務める彼は、とても賢く聡い人間なのでしょう。ですからわたしに至らないところがあったとして、彼には特にそうした点が目についてしまうのでしょう。
それでも、わたしがこのようなことを言われなければならない道理など、何もないように思われたのです。

だってわたしは彼女のことを知っています。強くて勇敢で優しくて、いつも笑顔を絶やさない人でした。彼女の背中には、金色の翼が生えていました。
彼女の個性はそうした、周りを照らす明るいものである筈なのです。それを「歪んだ」などと表現されるいわれなど、ありません。
憤るべきは寧ろわたしの方であったのではないでしょうか。この男性に彼女を侮辱されたことに、わたしは憤るべきだったのではないでしょうか。

「……ミヅキさんは、歪んでなんかいません」

「ええそうでしょうねえ、君の前ではそうだったのでしょう。ですがわたしは、間違ったことは言っておりませんよ」

彼は最後まで、自身の主張を曲げませんでした。「解っていないのは君の方だ」という姿勢を崩しませんでした。
自信にあふれた、皮肉めいた笑みを見ていると、間違っているのはわたしの方なのではないかと、僅かでも思ってしまいそうになりました。
そうしたわたしの弱い部分を振り払うように、わたしは首を横に振って俯きました。
彼の言葉に打ちのめされたからではありません。撮影を再開した彼の姿を、カメラを向けられている彼女の姿を、見ないようにするためでした。

「もういいですよ」と職員さんに許可を出したザオボーさんは、俯いたままのわたしに歩み寄り、「予言をしましょう」と、母様を思わせる楽しそうな笑みを作りました。

「彼女は目を覚まします。ですが二度と笑わない。少なくとも君達のような人間の前では、絶対に。
……そんな彼女にこの写真を見せなさい。きっと、幸せそうに笑ってくれるだろうから」

わたしは憤ることさえできませんでした。この人の言葉は歪み過ぎていて、どうにも理解できそうになかったのです。
こうして俯いたまま、彼が去るのを待つことしか、わたしにはできなかったのです。いつものことでした。わたしはやはり、何もできなかったのです。

すぐにでも氷を溶かせば、彼女の目は覚めるものと思っていました。
けれど凍り付いた生き物を、傷付けずに溶かすのはとても難しいことであるらしく、1日程かけてゆっくりと、生き物の体温を元に戻していく必要があるとのことでした。
「1日程」との時間は、ビッケさんとザオボーさんが相談して導き出したものであるようでした。
二人とも、コールドスリープという技術は聞き知っていただけで、実際に目の当たりにしたこともなく、ましてや取り扱った経験など皆無だということでした。
それでも、ビッケさんやザオボーさんを初めとする、エーテル財団の皆さんは、最善を尽くしてくれているようでした。

眠ってしまったナマコブシやヤドン、ピカチュウ、他のポケモン達、そしてミヅキさんのために、多くの人が知恵と技術を出し合っていました。
わたしは、その場に居合わせることさえできませんでした。知恵も技術も持たないわたしがその場にいたところで、邪魔になるだけでした。

ハウさんは、キャプテンや島キングといった、優秀なトレーナーさんのところを回っていました。
目的は二つありました。一つはウルトラビーストの出現を伝えるため、もう一つは、彼女が手放したポケモンさんを預かってくるためです。
ハラさん、イリマさん、ライチさんといった、優秀なポケモントレーナーさんは全て、彼女から1匹ずつ、ポケモンさんを受け取っていました。

『今日の朝まで開けないでと頼まれていたから、その約束を守って、直ぐには開けなかった。まさかこんなものが入っているなんて思いもしなかった。』
ポケモンさんを託されたトレーナーさんは、皆、口を揃えてこのように言っていた、とのことでした。誰もが彼女のおかしな行動に驚き、困惑していました。

兄様はエーテルパラダイスの研究棟に向かい、ウルトラビーストについて調べていました。
いい思い出など一つもないその場所に、けれど兄様は向かうことを躊躇いませんでした。
母様とグズマさんを連れ戻すため、アローラに散らばったウルトラビーストによる被害を未然に防ぐため、手がかりは一つでも多い方がいい、とのことでした。
わたしも手伝おうとしたのですが、断られてしまいました。

「こんな惨い場所、お前は知らなくていい。というか知ってくれるな」

兄様なりに、わたしに気を遣ってくださったのでしょう。あるいは兄様の大事にしているタイプ:ヌルの過去を、暴かれたくなかったのかもしれません。
何も解りませんでした。兄様の考えていることさえも解らなくなる程に、わたしは不安だったのでしょう。怖くて、不安で、正常な考えができなくなっていたのでしょう。

プルメリさんは一度、スカル団の皆さんをまとめるためにポータウンへと戻らなければならない、ということで、わたしに挨拶をしに来てくれました。
あんたとはまた会うことになりそうだね、と、プルメリさんは嬉しそうにそう告げて、帽子のなくなったわたしの頭を、そっと撫でてくれました。

「もうちょっと長く、あんたの騎士をやってあげたかったが、悪いね。こっちも頭領を失って、連中、パニックになっているもんだからさ」

「いえ、そんな……気にしないでください」

「でも、もうあたいがいなくても大丈夫だろう?ミヅキもコスモッグも戻ってきた。あとは代表とグズマの馬鹿を連れ戻せば解決だ。
力仕事は全部ミヅキに任せて、あんたはあんたのしたいようにするといい。……それだけであんたは十分、綺麗だから」

ありがとうございます、と小さく紡いだ言葉に、プルメリさんは照れたように笑って「どういたしまして!」と大声で返事をくれました。
大きな4枚の翼を持つポケモンに乗り、飛び去って行くプルメリさんを見送った頃には、もう日がすっかり落ちてしまっていました。

わたしは鍵の壊れた屋敷に入り、床に落ちたままのシルバーリングを拾い上げました。煌めくそれを暫く見つめて、少しの躊躇いの後で指に嵌めました。
銀色は鋭く射るように光り、わたしの薬指を冷たく締め上げていました。

『彼女は目を覚まします。ですが二度と笑わない。少なくとも君達のような人間の前では、絶対に。』
目を閉じれば、ザオボーさんの言葉が頭の中に木霊しました。

明日、彼女が目を覚まします。


2016.12.30

© 2024 雨袱紗