22

母様は踵を返して、カツカツと鋭いヒールの音を立てて奥の部屋へと向かいました。
かあさま、と呼んだわたしの声は小さく、震えていて、……わたしは、叫び出したくなってしまいました。

先にこの関係から逃げ出したのはわたしです。わたしが、母様の大事な道具であるコスモッグを連れ出したのです。
母様がわたしを憎んでいるであろうことは解っていました。わたしの行為を裏切りと捉えてしまうことは、別段、おかしなことではありませんでした。
コスモッグを、兄様を、わたしを失った母様が、何か他の「代わり」を求めたとして、それは仕方のないことだったのかもしれないと思い始めていました。

……誰も、どんな存在でも、いいように使われていい筈がありません。道具のように扱われるべき道理などありません。
だからわたしは、命が母様のいいように使われていることにこそ憤るべきでした。そこを「許せない」と思うべきでした。

けれど違ったのです。わたしはもっと利己的な理由で憤ってしまっていたのです。
わたしは、母様にいいように使われる命が「彼女」であることにこそ、大きなショックを受けていたのです。母様がわたしの代わりに「彼女」を選んだことが耐えられなかったのです。
どうして彼女だったのですか、と叫びたくなってしまったのです。

……けれど、仮に叫ぶことが叶ったとして、わたしの言葉に母様が答えてくれる筈がありませんでした。
だって今の母様には、わたしという娘が見えていません。扉の向こうで戦ってくださっている兄様の姿も見えていません。それがどうしようもなく悔しくて、悲しかったのです。

わたしは利己的な人間です。それでいて何の力も持たない、役に立たない人間です。
母様に想いを届かせることさえできない人間です。「助けて」と、訴えることしかできない人間です。
そして此処には、わたしの「助けて」に応えてくれる彼女が、いません。

「待ってください、かあさま!」

扉が閉まる直前、わたしは喉が割れるくらいの大声でそう叫びました。
すると意外なことに、母様は振り向いてくれたのです。振り向いて、小さく首を傾げて、少女のように、至極楽しそうに微笑んだのです。
わたしはその笑顔が恐ろしくて息を飲みました。同じ笑顔なのに、母様のそれと彼女のそれとは温度が全く違うのです。母様の笑顔には、彼女のような温かさがありません。

「なあに?見送ってくれるの?」

「え……?」

「ふふ、いいわ。それじゃあいらっしゃい。貴方にいいものを見せてあげる」

扉がわたしのために開けられて、彼女はわたしの返事を待たずに再び歩き出しました。
立ち止まっている場合ではないと、わたしは自分自身を叱咤して足を動かしました。

人は恐怖や不安を立て続けに浴びると、どうやら感覚が麻痺してしまうようです。
職員さんに突き飛ばされて、コスモッグを奪われたあの瞬間、震えて竦んで一歩も動けなかったわたしの足は、
けれどそれ以上の不安と恐怖に直面しても、震えることも、竦むこともないままに、しっかりとわたしを支えてくれていました。
わたしは、わたしがどれ程の恐怖と不安に苛まれているのかも分からないままに、歩を進めました。
私の靴は、母様のヒールのように鋭い音を立てたりはしませんでした。ただ不安気に、頼りなげに揺れていました。わたしの足の代わりに、わたしの足音が震えていました。

母様の自室は、わたしの記憶にあるままの形を留めていましたが、一つだけ、おかしなものがありました。
母様がカーテンを開いたその向こうに、不思議な光を放つワープパネルが置かれていたのです。
迷うことなくそこへと歩みを進めた母様は、振り向いてわたしに手を伸べました。
その手を取ることが恐ろしくて躊躇う素振りを見せると、母様は目をすっと細めて、小さく息を吐いて、笑いました。

ミヅキは直ぐに来たわ。わたくしの腕の中に飛び込んでくれたのよ」

「!」

「貴方、変わってしまったのね、リーリエ」

かあさま、と呼んで白い床を蹴ろうとしましたが、遅すぎました。母様は悲しそうに笑ったまま、ワープパネルの向こうに消えてしまいました。

母様の言葉にわたしがショックを受けていると、背後で壁に穴が開くような轟音が聞こえました。
弾かれたように振り向けば、兄様のタイプ:ヌルが、開いた扉から勢いよく飛び込んでくるところでした。どうやら彼が、鍵を無理矢理こじ開けてしまったようです。
続けざまに入ってきた兄様とハウさんは、わたしを見つけるとすぐに駆け寄ってきてくれました。
「代表は?」と尋ねる兄様に、わたしは視線をワープパネルへと向けることで答えを示しました。
そのまま、動かすことを忘れていた足をもう一度踏みしめて、不思議な光を放つそのパネルの上へと乗って、ふわりと身体が浮き上がる感覚に少しだけ気持ちが悪くなって、

「わっ……」

そして思わず、両腕で肩を抱きました。まるで冷蔵庫の中に放り込まれたかのように、そこはとても、とても寒かったからです。
あまりにも広く、白く、冷たい場所でした。長く暮らしていたこのお屋敷に、このような空間があることなど、わたしは今まで全く知りませんでした。
それは、後に続いて現れた兄様も同じであったようで、目の前に開けたこの空間に驚き、そして少しばかり狼狽えていました。
ハウさんは「うわー、寒い!」と零しながら、肩を竦めて震えていました。

「ほら、早くこっちへいらっしゃい」

奥でそう告げる母様の声は、まるでエコーのようにこの冷たい空間に響いていました。
兄様は警戒をしているのか、直ぐに歩き出そうとしませんでした。ハウさんもそんな兄様に倣うようにして、動きませんでした。
わたしは……駆け出してしまいました。母様の立っている場所の奥に、とても恐ろしいものが見えてしまったからです。

気のせいだと思いました。けれど近付けば、それは現実のものとしてわたしの目に飛び込んできました。鮮明にわたしの目を穿ったその現実を、もう否定することは不可能でした。
ヤドンが、ナマコブシが、ピカチュウが、氷の中で眠るように凍っていたのです。

「此処はわたくしの愛しい子供達を、永遠に飾るための部屋なの」

ポケモンさんが眠っている、大きな氷のように見えるそれは、白い床と白い明かりを弾くようにキラキラと、宝石のように煌めいていました。
わたしは信じられなくて、こんな惨いことをできる母様のことが恐ろしくて、穏やかな表情で眠りにつくポケモンさんの姿があまりにも痛々しくて、首を振りました。
けれどそうしたわたしの反応を楽しむように、母様はとても嬉しそうに笑ったのです。

「本当は貴方も眠らせたかったけれど、もういいわ。貴方の代わりに、貴方よりもずっと美しい子が眠ってくれたから」

わたしは凍り付きそうになる足を動かして、氷の樹海の中を恐る恐る、歩きました。
見つけたくない、と思ったのです。母様の悪い冗談だ、と思いたかったのです。
けれど此処で「眠る」ことのできなかったわたしの頭は、正常に動いてしまいました。全てのことに対する理由を、見つけ始めていました。

彼女が、大切にしていたポケモンさんを次々に手放した理由も、わたしに指輪を返した理由も、「代わり」の喜びに微笑んでいた理由も、全て、全て、「そこ」にありました。

わたしは、一番大きな氷の前で顔を上げました。
叫ぼうとした声は、けれど背後から聞こえてきた乱暴な靴音と、わたしよりもずっと大きくずっと痛烈な声音で発せられた、彼女の名前によって遮られました。


ミヅキ!」


わたしの肩を押し退けて、大柄な、白い髪の男の人が前へと飛び出しました。
氷の詰め込まれた分厚いガラスを何度も、何度も叩きました。叩く度に彼女の名前を大声で呼びました。その声が徐々に、震え始めていました。
大の大人の、そうした錯乱めいた状態を目の前にした母様は、けれど「あらグズマ、遅かったわね」と、楽しそうに告げるだけでした。
わたしは上げるべき悲鳴と呼ぶべき名前を彼に奪われたまま、茫然と立ち尽くすことしかできませんでした。

「馬ッ鹿野郎が……!」

彼は震える声でそう叫び、冷たい床に膝をついて、深く俯きました。
氷の満たされたガラスにべっとりと、縋るように張り付けられた手は、冷えすぎて僅かに赤くなり始めていました。彼まで、凍り付いてしまいそうでした。

わたしはもう一度、氷の中で眠る彼女を見上げました。
いつだって笑っていた彼女は、眠っているときも変わらず笑っていました。母様に見繕われたワンピースを身に纏い、両手で大事そうに銀色のワイングラスを抱えていました。
そこに氷がなければ、彼女はそのグラスを嬉々として掲げたでしょう。豪快に一気飲みして、その後で、照れたように頭を掻いて笑ったでしょう。
苦しそうでも寒そうでもなく、ただ嬉しそうに眠っていた彼女は、今にも動き出しそうでした。動いて、笑って、「リーリエ!」と、わたしの名前を呼んでくれそうでした。
けれど動かないのです。動けないのです。

宝石のような煌めきを宿した天使は、まさにこの中で宝石にされてしまったのです。

その後のことは、よく覚えていません。

コスモッグの力を使って、ウルトラホールが開いてしまったことも、中から私にそっくりな姿をしたウルトラビーストが現れたことも、
「グズマ、貴方のお仕事はまだ残っているのよ」と、母様が楽しそうに彼の肩を叩いてそう囁いたことも、彼が悔しそうに拳を握り締めたまま、小さく頷いて立ち上がったことも、
兄様とハウさんが、母様を止められなかったことも、プルメリさんがあの男性を止められなかったことも、
母様とあの男性が不思議な生き物を追いかけて、ウルトラホールの中に消えてしまったことも、コスモッグの姿が変わって、動かなくなってしまったことも、
全て、全て、まるで遠くの舞台で繰り広げられるお芝居か何かのように思われたのです。とても、現実のものだとは思えなかったのです。

だからわたしはまるで観客のように、兄様達が為すことを見て、母様の残酷な言葉を聞いて、舞台から漂う冷たすぎる風に震えることしか、できませんでした。
わたしは何もできませんでした。助けを乞うことさえ、忘れていました。


2016.12.30

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