21

島は、3か月前と何も変わっていないように思えました。少し、肌寒いように思われましたが、特になにもおかしなところはありませんでした。
プルメリさんにハウさん、そして兄様は、遭遇した職員さんとのポケモンバトルに快勝し、奥へ奥へと進んでいきました。
わたしは皆さんが一戦を終える度に、鞄から傷薬を取り出して、ポケモンさんの体力を回復させていました。
大量に購入していた筈の薬は、けれど10戦もすればすっかりなくなってしまいました。空になった鞄の中で、コスモッグが寂しげに鳴きました。

彼女は、わたしの助けなど全く必要としていませんでした。彼女のポケモンさんが瀕死になったことは一度もありませんでした。
普通は、何度も続けてポケモンバトルをすれば、ポケモンさんは傷付きます。疲れて、倒れて、動けなくなることだってあります。
そうした当然のことを、忘れてしまう程の強さを彼女は持っていました。彼女は、強さを極めすぎていました。
その強さの裏にどれ程の努力があったのか、わたしには想像もつきません。

1階に上がり、中庭へと向かえば、そこにも大勢の職員さんが行く手を阻んでいました。
以前、この島に来たことのあるハウさんは、彼等の態度がまるで変わってしまっていることに、とてもショックを受けているようでした。
職員さんの目をかいくぐって、屋敷に少しずつ近付いている途中で、ハウさんは自らの疑念を解消したかったのでしょう、努めて小さな声音で兄様に話しかけていました。

「本当にルザミーネさんは悪い人なの?だって、オレ達にとっても優しくしてくれたよ?」

「興味のない奴には優しくできるだろうさ」

吐き捨てるような声音で、兄様はそんなことを言いました。
優しいのは興味がないからだ。そうした趣旨の発言は、わたしの心に確かな陰りを落としました。
深く俯けば、床は相変わらず真っ白でした。白い無機質な床は、お日様の光を弾くだけで、アローラの大地のように、その温もりを吸い込んで温かくなることはしませんでした。

彼女はいつだって、わたしに優しくしてくれました。

興味のない人に「大好き」などと言うことができないことくらい、わたしにだって解っています。
彼女の強さ、勇敢さ、優しさは、興味のない人にそう容易く何度も発揮されるような、軽いものではないということも、解っています。
だから、彼女は母様とは違うのだと、わたしは強く目を閉じてしきりに言い聞かせていました。ぐらぐらと足元が揺れそうになりました。
白い床は太陽の光を弾いて、宝石のように煌めいていました。

彼女がずっとわたしの傍にいてくれて、困っているわたしをいつも助けてくださったことには、何か大きな意味があったのだと、そんな風にわたしは思っていたのです。
わたしは彼女の特別なのだと、彼女がわたしに向けてくれる「大好き」は、他の方に向けられるその言葉とは少し異なる温度を持っているのだと、思っていたのです。
そうした傲慢な考えを、すんなりと抱いてしまう程には、わたしは長く彼女と一緒にいました。彼女はいつだって笑っていて、とても楽しそうで、幸せそうでした。……けれど。

そんなことを考えていたわたしは、背後から男性の職員さんが忍び足で近付いてきていることに気が付きませんでした。
わたしの傍に大きな影が降りていて、慌てて振り返ろうとした時にはもう、遅すぎたのです。

「あっ……!」

男性がコスモッグの入ったバッグを強引に取り上げました。わたしは振り払われるように突き飛ばされて、白い床に倒れました。
兄様とハウさんがわたしの名前を呼びました。プルメリさんが舌打ちをして、バッグを抱えて逃げる職員さんを追いかけました。

「待ってください!連れていかないで、ほしぐもちゃんを返して!」

そう叫びながらわたしは立ち上がりました。けれど直ぐに走り出すことができませんでした。足が、震えていたからです。
コスモッグを取り上げられてしまったこと、突き飛ばされたこと。たったこれだけのことでわたしの足は竦むのです。
わたしはたったこれだけの恐怖に屈してしまうような、そうした、情けない人間なのです。

「助けて……」

わたしを助けてくれた貴方がいません。わたしが困っているとき、いつも傍にいてくれた貴方がいません。
貴方がいなければ、わたしはわたしの大切な存在を守ることさえできません。

まともに歩けるようになった頃には、わたしの傍には誰もいなくなっていました。プルメリさんも、ハウさんも、兄様も、わたしを置いて走っていきました。
皆さん、強いポケモントレーナーでした。ポケモンさんをとても大事にしていました。
けれど、三人が力を合わせても、コスモッグを取り戻すことはできないのではないかと、そんな失礼なことを思ってしまったのです。
わたしは遠ざかる皆さんの背中に、希望を見ることができなかったのです。
わたしの鞄の中には、もう傷薬が残っていません。此処には、傷薬を必要としない彼女がいません。

貴方がいません。

「リーリエごめん!追いつけなかった!」

屋敷の前に駆けつけると、プルメリさんと兄様が、大勢の職員さんを相手にポケモンバトルをしていました。
ハウさんはわたしの方へと駆け寄りそう告げて、わたしの白い服についた汚れを払ってくれました。
「あのね、グラジオが、」と、ハウさんが再び口を開きかけたその瞬間、屋敷の前の道を塞いでいた職員さんをバトルで打ち負かした兄様が、大きな声で私の名前を呼びました。

「リーリエ、走れ!コスモッグもミヅキも、きっとこの中だ!」

その言葉で、職員さんの視線が一斉にわたしへと集まりました。彼等とわたしの距離よりも、わたしと扉の距離の方が僅かに近いように思われました。
ハウさんは近くにいた職員さんに、えい、と飛び掛かりました。プルメリさんは紫色のポケモンさんを繰り出して、炎で職員さんを威嚇してくれました。
わたしは何も考えられませんでした。つい1分前まで震えて、竦んで、使い物にならなかった筈のわたしの足は、けれど確かな力強さで白い床を蹴りました。

一人、二人とその間を潜り抜けました。最後の人にぐいと帽子を掴まれましたが、わたしは振り返りませんでした。
ふわっと首の後ろに風が吹き抜けました。そのまま走って、両手を扉の方に伸ばしました。
勢いよく開けて、すぐに振り向いて、閉じて、内側からガチャリと鍵を掛けました。ドンドン、と扉を乱暴に叩く音が聞こえました。
心臓が、壊れてしまいそうな程に大きく音を立てていました。息は弾んでいて、力強く床を蹴っていた筈の足はまたしても震え始めていました。
気を抜けば、ズルズルとその場に座り込んでしまいそうでした。けれどそんなことをしている暇など、わたしにはありませんでした。

「リーリエ……?」

肩で大きく息をしていたわたしの名前が、ひどく懐かしい声で呼ばれてしまったからです。

振り向けば、数か月前と何も変わっていない母様の姿がありました。
綺麗な長いブロンドは、わたしのそれよりもずっと深い輝きで華奢な肩を覆っていました。高いヒールの煌めきを白い床が反射して、ナイフのように鋭く光っていました。
母様の目と全く同じ色を受け継いで生まれてきた筈なのに、わたしは、全く同じ色をしたその目の中にどんな感情が潜んでいるのか、全く、読み取ることができませんでした。

「ふふ、まさか貴方から来てくれるとは思ってもいなかったわ」

けれど母様は、笑ったのです。

「大丈夫よ、許してあげる。だってコスモッグもリーリエも戻って来たんだもの。グラジオだって、その扉の向こうにいるんでしょう?」

母様は本当に嬉しそうに微笑んでいました。その表情は、わたしが大好きだった母様のままでした。わたしが帰ってきたことを、心から喜んでいることがわたしにも解りました。
けれど、わたしが守りたかったコスモッグは此処にはいません。わたしが一緒にいたかった彼女がいません。

わたしは扉を開けませんでした。代わりに右手の薬指から銀色の指輪を外して、そっと、床に落としました。
コトン、と悲しい音を立てて落ちたシルバーリングが、コロコロと母様の足元に転がって、高いヒールに当たって、止まりました。
それは、1年前に母様がわたしに下さった誕生日プレゼントでした。この指輪は、わたしが嵌めているべきものでした。
わたしはこの島で、母様に選んでもらった服を着て、母様が下さった指輪を嵌めて、母様の言う通りに生きてきました。そのような生き方しか知りませんでした。
……けれど、今は違います。

「戻って来たのではないのです、かあさま。わたしは言いたいことがあるのです。聞いてほしいことがあるのです」

「……」

「コスモッグを犠牲にしないでください。ミヅキさんを苦しめないでください。貴方の愛にこれ以上、わたしと、わたしの大切な人を振り回さないでください。
わたしも、コスモッグも、にいさまも、ミヅキさんも、生きています。貴方のものではないのです!」

張り上げた声が、母様に届かないかもしれないことくらい、解っていました。
けれどわたしはポケモンバトルができません。わたしには力がありません。ですからこんなことしかできなかったのです。
母様に最も近しいところで生きていたわたしにできることは、母様の心に届かせるべき言葉を紡ぐことだったのです。わたしの、わたし達の思いを訴えることだったのです。

母様の笑顔が消えました。愕然とした表情、悔しそうな表情の後で、わたしと同じ色の目をすっと細めて、悲しそうに小さく息を吐きました。
細められた目には、きっともうわたしなど映っていなかったのでしょう。母様の言うことを聞けないわたしなど、きっともう、母様には必要なかったのでしょう。

「……ごめんなさい、ミヅキ

けれど、もっとわたしの心を抉る言葉が、母様の口から飛び出したのです。

「駄目だわ、だってわたくしは裏切られたままなのよ。わたくしはずっと一人だわ。やっぱり駄目、この世界じゃ駄目。……貴方を連れて行けないわたくしを許してね、ミヅキ

母様は、わたしの名前を呼んだその声で、わたしの名前よりもずっと愛おしそうに彼女の名前を紡ぎました。
彼女は本当に「わたし」になっていたのだと、もしかしたらわたし以上の存在になっていたのかもしれないと、気付いた頃にはもう遅すぎました。


2016.12.30

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