18

ウラウラ島での島巡りを始めた頃から、彼女は夕方になるとリザードンを呼び出して、何処かへ飛んでいくようになりました。
何処へ行っているのですかと尋ねても、「内緒だよ」と、とても楽しそうにそう告げるだけでした。
わたしには話せないことだってあるでしょうし、わたしと彼女は四六時中、同じように島を歩いていた訳ではありませんでしたから、特にその時間を不審に思いはしませんでした。

わたしはマリエシティの図書館で調べものをしている間、彼女はこの町の西側にそびえ立つ高い山を上り、試練のための特訓をしているようでした。
彼女は相変わらず、とても強くて、勇敢で、優しい、天使のような人でした。

同じように島巡りをしていたわたし達は、同じポケモンセンターで泊まることがよくありました。
わたしは、家族以外の人と一緒の部屋で寝るということを、これまで一度もしたことがありませんでした。
ですから少しばかりわくわくしていたのですが、彼女は当たり前のように、宿泊施設で二部屋分の予約を入れていました。
一部屋しか空いていない時でも、彼女は決してわたしと同じ部屋には入らず、別のポケモンセンターに飛んでいき、そこで宿を取りました。
少し寂しい気持ちになりましたが、彼女がかつて住んでいたカントー地方では、他人と同じ部屋で眠るなどということは在り得ないことであるのかもしれません。
土地が違えば文化も異なります。わたしはそれをよく解っていましたから、彼女を無理に引き留めることはしませんでした。

だからわたしは、彼女と一緒に食事をしたことがありません。彼女が何を食べて生きているのか、わたしは知りません。そして、それは彼女も同じでした。
けれどポケモンセンターの宿で提供してくださる朝食は、どのポケモンセンターでも同じでしたから、わたしは当然のように彼女もそれを食べているものと思っていました。
そして事実、彼女もそれを食べていたのです。けれど、彼女にとっては違ったようでした。同じものを食べている筈なのに、違うと言い張っていました。
彼女らしからぬ強情に、少しだけ驚いたことを今でも覚えています。

金色の翼を持つ天使には、わたしの前に置かれる食べ物が「何」に見えていたのでしょう。

彼女がどこかおかしいことに、わたしは気付き始めていました。
彼女は皆に「大好き」と告げて回っていますが、それだけなのです。勿論、その思いに嘘がないことは解っていますが、彼女の場合、それを伝えるだけで満足しているのです。
その想いが、同じくらいの質量をもって彼女自身に返ってくることなど、彼女は端から想定していないのです。
カントー地方からやって来た彼女は、アローラの異なる文化に馴染み切れておらず、またそうした自分を悉く卑下していました。
その、度の過ぎる謙虚さに驚いていたのはわたしだけではありませんでした。
島巡りをする中で出会った沢山の人たちも、彼女が満面の笑顔で為す、彼女自身への侮蔑とでも呼べそうなその謙遜に驚き、困惑していました。

そしておかしなことがもう一つあります。彼女は自分を全く大事にしていないのです。
最初は、彼女の勇敢さの為せる技なのだと思っていました。
けれど、恐ろしいスカル団の方をまるで兄のように慕ったり、切り立った崖のギリギリのところに足を掛けて楽しんだりといった行為が目立つようになるにつれて、
彼女の勇敢さは転じて無謀にもなり得るのだと、いつかその無謀な行為が彼女を傷付けてしまうのではないかと、思うようになりました。

そんな彼女はよく、島の大人に叱られていました。危険なことをしすぎるなと、咎められる姿をわたしは何度も見たことがあります。
けれど彼女はその度に、謙虚と卑下を、勇気と無謀を貫きました。そうした残酷な言葉を紡ぎながら、それでも彼女はわたしの焦がれた天使の笑みを湛えていたのです。

『あはは、気にしないでください。私の名前なんか覚えなくていいんですよ!』
『そんなに親切にしてくれなくたっていいんですよ。貴方に大切にしてもらえなくたって、私は貴方のこと、大好きになれるんですから。』
『任せてください!私、悪い大人を怖がらないことには自信があるんです!』
『ガラガラの炎に触れちゃいけないんですね。この緑の炎は貴方と同じくらい綺麗だから、やっぱり私は触れられないんですね。』
『君はこんなに小さな羽で空を飛べるのに、私の不格好な腕にはその力がないんだよ。私は地面に落ちるだけ。やっぱり君のようにはいかないね。』
『私、スカル団のことも大好きですよ。グズマさんと一緒にカフェに行ったことだってあるんですから!』

大人達が困れば困る程に彼女は笑いました。彼等の言葉は、彼女の耳を素通りしているかのようでした。
彼女は嫌味を言うような女の子ではありませんでした。
彼女の言葉はいつだって真っ直ぐで、純粋で、だからこそ、その歪みがとても痛々しいもののように思われたのです。

ミヅキさん、わたし、貴方が貴方を好きになるためのお手伝いをしたいです。』

一度だけ、思い切ってそう告げたことがあります。
彼女はやはり笑顔のままに、嫌味などではなく、彼女の心からの言葉を、それ故にどこまでも悲しい言葉を、私に向けました。

『ありがとう!でもリーリエがそんなことに悩む必要なんか、これっぽっちもないんだよ。』

彼女が「大好き」を告げない存在など、この世界には誰もいないものと思っていました。
けれど彼女は、強くて勇敢で優しくて、笑顔のとても素敵な天使は、彼女に最も近いところにいる存在を好きになれずにいたのです。
彼女は彼女自身に「大好き」を告げることができずにいたのです。彼女が唯一、好きになることの叶わなかった存在が、彼女をずっと苦しめていたのです。
わたしにはそんな風に思えました。「大好き」になれない彼女だけが、何処にも溶け込めないまま、馴染めないまま、ふらふらとアローラを揺蕩っていました。
そこまで解っていながら、けれどわたしにはやはり何の力もありませんでした。わたしは何もできませんでした。

「リーリエ、私、大好きな貴方の代わりができて本当に嬉しかった!」

だから、彼女はわたしを選んでくれなかったのかもしれません。わたしではなく、わたしと同じ髪と目を持った母様を選んだのかもしれません。
彼女がやっとわたしの手に触れてくれるようになったとき、そこに彼女はいませんでした。
彼女の代わりに、シルバーリングが私の指に光っていました。けれどそれだって彼女ではなかったのです。わたしは最後まで、わたしの天使に触れることが叶わなかったのです。

彼女はそれ以上のことは何も言わずに、いつものように眩しい笑顔を湛えて、エーテルハウスを出ていきました。
白地に金の刺繍と金のリボンが施されたワンピースは、おそらく母様がわたしのために用意したものだったのでしょう。それを母様は、彼女に着せてしまったのでしょう。
真にわたしの代わりをした彼女を、それを心から喜んでいる彼女を、わたしは、止めることができませんでした。

あまりにも長く、わたしはその場で沈黙していました。何も考えることができませんでした。
けれどようやく動き始めたわたしの思考は、「このまま此処にいれば捕まってしまう」という、絶望よりも恐怖を優先したその一文を弾き出しました。
コスモッグを守らなければ、そう思いました。そう思うことで、わたしは自分を落ち着かせようとしていたのだと思います。
わたしは震える足のままに、コスモッグの入った鞄を抱きかかえて、駆け出しました。

ハウさんとアセロラさんが引き留めようとしてくださったのですが、どうやって二人を拒んだのか、よく覚えていません。
とても、みっともなく叫んでいたような気がします。金切り声でただ拒絶の言葉を繰り返していたように思います。
西には海が広がっていて、ポケモンに乗れないわたしには進む術がありませんでした。東に広がる荒野も険しくて通れず、わたしは南に進みました。
黒い砂浜は雨を吸って、益々その色を重くしていました。

ミヅキさん、貴方はいつ、母様と出会っていたのですか。
わたしがあの人の娘であることを、コスモッグを連れてあの人のところから逃げ出したことを、いつから貴方は知っていたのですか。
気に入ったものを自分勝手に愛でていた母様に、貴方はいつから捕まっていたのですか。
わたしの代わりとしてあの人に見られていると気付いたとき、貴方はどんな気持ちだったのですか。どんな気持ちでその服に袖を通していたのですか。
どうして今、わたしにこの指輪を返してくださったのですか。
どうして何も言ってくれなかったのですか。

湯水のように溢れ出た沢山の疑問は、嗚咽となってわたしの喉を塞ぎました。
心配そうに鞄の中からコスモッグが鳴いて、ひょいと飛び出してきました。勢いを増す雨は、コスモッグの身体を通り過ぎていくだけでした。
コスモッグは雨に降られていませんでした。わたしは雨に濡れていました。
雨ではない、もっと別のもので前が見えなくなって、悲しくて、足の力を忘れたかのように屈みこんで、そして。

「どうして……」

何も解りません。彼女と母様の間に何があったのか、あの白い無機質な島から逃げ出したわたしには解りません。
わたしに解るのは、わたしのことだけです。ですからこれだけははっきりと言えるのです。


わたしでは駄目だったのです。わたしは天使に見限られていたのです。


あまりにも長い時間そうしていたわたしは、わたしの身体が氷のように冷え切っていることも、日が暮れかけていることにも気が付きませんでした。
ざくざくと、湿った黒い砂を踏む足音が近付いてきていることさえ、今のわたしは気付くことができなかったのです。周りの音も、気温も忘れて、ただ泣いていたのです。
ですから、その人が私の肩を掴んだ時も、涙を拭いながら乱暴にその手を振り払うことしかできませんでした。

「おっと、待ちなよ。今すぐあんたを捕まえようとしている訳じゃないさ」

慌てて立ち上がったわたしを、その人は見上げました。
彼女は膝を黒い砂浜につけていました。屈みこんだわたしの目線に合わせようと折られた膝を伸ばさないまま、彼女は私を真っ直ぐに見ていました。
奇抜な髪の色をした、目つきの鋭い女性でした。腹部には「S」のマークが刻まれていましたが、わたしは逃げることをしませんでした。

「なあ、一緒に来てくれないか。あんたに聞きたいことがいくつかあるんだ」

「……」

「安心しなって、あんたにも、あんたが大事にしているそいつにも、危害を加えたりしないから。……ただちょっと、おかしなことになっちまってね。あたいらも困ってるんだよ」

彼女はわたしに、手を伸ばしてくれました。
わたしは悲しかったから、悲しすぎたから、彼女の手を取ってしまいました。

ミヅキさん、貴方はわたしを笑いますか?


2016.12.28

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