17

わたしを助けてくれた天使には、金色の翼が生えていました。

今でこそ彼女はとても強いポケモントレーナーでしたが、出会ったあの日はポケモンを1匹も連れていない、ただの女の子だったんです。
わたしと同じように、何の力も持っていなかった筈なんです。
けれど彼女はわたしの「助けて」に応えてくれました。ボロボロの橋を渡って、オニスズメにつつかれながら、それでもコスモッグを抱きかかえて、庇ってくれました。
あの橋に足をかける勇気、オニスズメにくちばしを向けられることを恐れない度胸、危険を呈してコスモッグを助けに向かってくれた優しさ。
何もかも、わたしには足りないものでした。わたしは何も持っていないのに、コスモッグを助けられると思い上がっていたのです。守れると、信じていたのです。

彼女だって、何も持っていませんでした。それなのに彼女はわたしを助けてくれました。
守り神に抱きかかえられて空を飛ぶ彼女の姿はとても眩しく、その背中には守り神と同じ色の、金色の翼が大きく広げられているように見えました。
それがとても眩しくて、あまりにもキラキラと輝いていて、宝石のようで、わたしは、彼女と上手に目を合わせることができませんでした。
けれどそんなわたしにも、彼女は満面の笑顔を向けてくれました。

『この子が無事でよかったね。私も、この子と貴方を助けることができて本当に嬉しいよ!』

とても勇敢で謙虚な天使でした。笑顔を絶やさない天使でした。
わたしはいつだって、彼女に助けられていました。助けられてばかりのわたしの傍に、彼女はいつだっていてくれました。
わたしは何もできませんでした。

3か月前、コスモッグのことが心配で、エーテル財団から逃げるように姿を消しました。コスモッグを守るための行動でしたが、結果、守られていたのはわたしの方でした。
コスモッグは力を使って、私をエーテルパラダイスから逃がしてくれました。

動けなくなったコスモッグを抱きかかえて途方に暮れているわたしを、ククイ博士とバーネット博士が助けてくれました。
温かい食事を食べさせてくれました。小さくささやかな、けれど温かい屋根の下にわたしを入れてくれました。ロフトを貸してくれました。
狭い空間、硬いベッド、傷の入った木の床、ぐらつく梯子……全て、全てあの真っ白な島にはないものでした。ささやかな暮らしを、けれど二人は心から楽しんでいました。
そんな二人の力になりたくて、何かしたくて、けれどわたしは、博士の破れた白衣を縫うことも、料理を作ることもできませんでした。
雑巾の絞り方を知らなかったので、わたしが床を掃除すると水浸しになってしまいました。ククイ博士は笑って許してくれました。

何の役にも立たないわたし。研究所のロフトを占領するだけの、能のないわたし。博士の助手を名乗りながら、いつも博士に教えてもらって、助けてもらってばかりだったわたし。
わたしが母様のところを離れて、これまで暮らしてこられたのは、皆さんが優しかったからでした。わたしは恵まれていました。愛されていました。
わたしは報いたくて、少しでもお役に立ちたくて、……けれど、上手くいかなかった。

けれど彼女には、何かできるのではないかと思えたのです。
彼女はアシマリに選ばれてポケモントレーナーになりました。島巡りをするために、キラキラとした証を鞄に付けました。
彼女についていきたい、と思いました。わたしはポケモンさんが傷付く勝負は苦手です。彼女だって、きっとポケモンさんが傷付いたまま、放っておくのは忍びない筈です。
ですからわたしはその手伝いをすればいいと思いました。傷薬を大量にバッグの中に詰め込んで、「ミヅキさん」と彼女の名前を呼びました。

『わたし、次の島にも付いていきますね!』

わたしは、彼女が喜んでくれると思っていました。そして、彼女も喜んでくれました。

『嬉しい!これからもリーリエと一緒にいられるんだね!』

わたしが此処にいること、わたしが付いていくこと。
そんなことを、彼女は本当に喜んでくれました。わたしは嬉しさのあまり彼女の手を握ろうとしました。
けれど、できませんでした。彼女が、さっと顔を青ざめさせて手を引っ込めたからです。
動揺の声を思わず漏らした私に、彼女はいつもと全く変わらない、満面の笑みで告げました。

『触らないで、貴方が汚れちゃうよ。私みたいになると愛されないよ。』

それが、ポケモンバトルをしないわたしへの皮肉でも何でもなく、彼女の心からの言葉であったのだと、解ってしまったからこそ、わたしはひどく悲しくなりました。
彼女は自分のことを、愛されるに値しない人間だとでも思っている。彼女は自分が汚れているから、わたしに触れられない、触れてはいけないのだと思っている。
悲しかったのです。悔しかったのです。わたしに触れてくれない貴方のことが、貴方に触れることを許されないわたしのことが。

『大好き!』

彼女が誰かを嫌うところを、わたしは見たことがありません。
彼女はいつだって笑顔でした。スカル団の人に意地悪をされても、にわか雨に降られてびしょ濡れになっても、ポケモンさんが傷付いてしまっても、笑っていました。

『大丈夫だよ。平気だよ。辛いと思ったことなんか一度もないよ。アローラの旅はいつだって楽しいよ。』
『皆のことが大好きだよ。キラキラしていて、輝いていて、宝石みたいで。皆に出会えたことがとても嬉しいよ。』
『私はとっても幸せだよ。』

不安や恐怖といった感情を、彼女は持っていないように思われました。そういったネガティブな感情を彼女が口にしたことは、これまでただの一度もありませんでした。
わたしは、彼女が笑っていないところを見たことがありませんでした。そして、それはわたしに限ったことではないと思っていました。
誰も彼女が笑っていないところを見たことがない。彼女は誰にでも微笑みかけることができる。彼女はそうした神聖な存在であるように思われました。
笑顔を絶やさないその姿は、まるで天使のようでした。そしてその天使の背中には、金色の翼が生えていたのです。

『触らないで、貴方が汚れちゃうよ。』
彼女のあの言葉を思い出す度に、その背中に広がる金色の翼を思い出します。その翼がわたしと彼女を大きく隔てていることを、思い出して、苦しくなります。
天使に触れる。それは並の人間に許されることではなかったのです。汚れてしまうのは彼女の方だったのです。あれは寧ろ、わたしが言うべき言葉だったのです。
彼女はそうした神聖な存在であるように思われました。誰彼もが触れることなど決して許されない、正しく天使の姿をした少女であるように思われました。
けれど、焦がれてしまいました。彼女の強さに、彼女の勇気に、そして何より、彼女の笑顔に。

わたしが彼女にできることは、やはりとても限られていました。
助手として働いているという名目で、ククイ博士からお金を貰っていましたから、その殆どを薬代につぎ込んで、いつでも彼女のポケモンさんを回復できるようにしていました。
けれど、あまり役には立ちませんでした。彼女のポケモンさんが傷付いていたことなど、これまで数える程しかなかったからです。
それ程に、彼女のポケモントレーナーとしての成長は凄まじいものでした。彼女が負けているところを、これまで一度も見たことがありません。
引き際を解っているらしい彼女は、ポケモンさんを瀕死にさせたことがありません。彼女のポケモンさんがフィールドに倒れたことは、一度もありません。

彼女は沢山のポケモンさんを捕まえていました。赤や青のボールの中に入った沢山のポケモンさんを、たまに彼女は嬉々としてわたしに見せてくれました。
ヌイコグマにポケマメをあげながら、彼女はとても嬉しそうに笑っていました。アブリボンをボールから出して、一緒に海を走るのが大好きなのだと言っていました。
ヤトウモリが進化するのが楽しみだと言っていました。ガラガラの炎はとても綺麗で、一度、触れてしまって火傷をしたのだと笑っていました。
他にも、トゲデマル、デカグース、イワンコ、ヨワシ、カリキリ、ピカチュウ……。彼女の口からは、沢山のポケモンの名前が飛び出していました。
どの子も彼女にとてもよく似ていました。強くて、勇敢で、度胸があって、そして彼女のことが大好きなようでした。彼女も皆に「大好き」と告げて笑っていました。

ポケモンさんは6匹までしか連れ歩くことができないのですが、彼女は頻繁にポケモンセンターに立ち寄って、10匹を超えるポケモンを入れ替えて、島巡りをしていました。
けれど、いつだって彼女のポケモン達の先頭を率いるのはアシマリでした。リリィタウンで彼女を選んだアシマリは、あっという間にアシレーヌに進化しました。
バトルの先頭に立つのはいつだってアシレーヌでした。彼女はアシレーヌを心から信頼していました。彼女の一番になれているポケモンさんを、少しだけ羨ましく思いました。

『キテルグマさん、元気にしますね……!』

僅かな掠り傷でも、わたしは彼女のポケモンさんに傷薬を使うことを躊躇いませんでした。
だってこれくらいしか、彼女にできることがなかったのです。わたしはこの形でしか、天使の笑顔に報いる術を得ることが叶わなかったのです。
わたしを守ってくれる彼女に、できることがあるなら何だってしたかった。けれど、そうしたわたしの思いに反して、わたしは悉く無力でした。何もできませんでした。

……彼女はよく、わたしの髪と目を褒めてくれました。

『リーリエの目は宝石みたいだね、リーリエの髪は本当に綺麗だね。』
『羨ましいなあ、私もそんな風になりたいなあ、髪を染めてコンタクトレンズを嵌めれば、リーリエみたいになれるかなあ?』

髪を真っ白に染めて、青いリップをしっかりと引いた、そうした奇抜な、どこまでも自由な恰好をした彼女が、
わたしのような、母様に言われた通りにしているだけの姿に羨望を抱いているなどということ、わたしはそう言われてしまうまで気付きもしませんでした。
いえ、そう言われてからも、彼女のその言葉はお世辞なのではないかと思っていたのです。
だから、彼女が翌日、本当に髪を金色に染めて、緑のコンタクトレンズを嵌めてきた時には、息が止まる程に驚いてしまいました。

彼女はどうして、わたしみたいになりたいと思ったのでしょうか?
わたしが彼女のようになりたいと思うだけの理由は、十分にあります。彼女は強くて勇敢で優しくて、笑顔の絶えない女の子です。天使のような少女です。
わたしは何も持っていませんでした。貴方に守られてばかりでした。何もできませんでした。
助けたい、力になりたい、そうした思いばかりが膨れ上がるだけでした。結局は力を持つ人に助けてもらわなければ、私は橋に足を掛けることさえできませんでした。

だから、彼女がウラウラ島の島巡りを始めた頃から、金色の髪を元に戻して、青いリップをやめて、緑のコンタクトレンズを外して、
代わりに白と金の上品な服を身に纏うようになったとき、わたしは少しだけ、嬉しかったのです。
彼女はありのままの自身を好きになれるようになったのだと、皆に「大好き」と告げていたように、その笑顔を彼女自身にも向けられるようになったのだと、思っていたのです。
嬉しかったのです。

彼女が本当の意味でわたしになろうとしていたことに、わたしは全く気が付いていませんでした。


2016.12.28

© 2024 雨袱紗