9 volltoig

彼は帰り際に、「遅くなりましたが、約束のものです」と言って、紙袋を渡してくれた。

「何が入っているんですか?」

「それは、帰ってから確認してみてください」

とても楽しそうにそう紡いで笑った彼が、私を信用しかねているということを、私はまだ受け入れられずにいたのだ。
私はまだ、知らなかったのだ。彼の内側にある葛藤のことや、彼が拒絶し続けてきた人間のことを。

その、妙に重い紙袋の中身を、私は今すぐにでも確認したい衝動に駆られていた。
しかし「帰ってから」と彼に言われた以上、その言葉の通りにしたかったのだ。私は前以上に、彼に対して誠実であろうと努めていた。
それは、彼が私に対して誠実でいてくれたからではなかった。私は今までとはまた別の目的を持って、彼の元を訪れる覚悟を決めつつあったのだ。

あっという間に家まで辿り着いた私は、待ちきれずに靴を脱ぎ捨て、母に「ただいま」と言う事すら忘れて、自分の部屋へと飛び込む。
心臓が煩く鳴り響いていた。私は大きく深呼吸をしてから、紙袋をそっと開けた。
中には更に、濃い緑色をした箱が入っていたので、それに手を伸ばす。

「!」

私は息を飲んだ。箱の上部分だと思っていたその緑色は、分厚い本の裏表紙だったのだ。
夢中になってそれを取り出し、更に紙袋に手を伸ばした。
次から次へと出てくる本のタイトルにはどれも覚えがあった。全て私が、彼との会話の中で質問したり、興味がありますと告げたりしたものだったからだ。

計5冊のそれらを取り出すと、一番下に、小さな紙が挟まっていた。それはノートの切れ端だった。
私は慌ててそれに目を通す。どうやらこれは、彼が子供の頃に読んでいた本らしい。内容についての概説を、彼は一冊ずつ丁寧にまとめてくれていた。
日常の物理や化学を集め、解説してあるもの。ポケモンの生態や生息地が詳細に記されたもの。人間の心理についてまとめられたもの。
彼の整った美しい字をなぞり、私は言いようのない気持ちに襲われる。
一週間、あのプレハブ小屋を離れていた間に、彼はこれらの本を探してくれていたのだ。
私が理解できる程度に易しく、私の好奇心を十分に満たして余りあるそれらの本を、彼はきっと山のようにある蔵書の中から厳選してくれたのだ。

「あ……」

すると私は、そのノートの切れ端の下にもう一枚、別の紙があることに気付いた。
罫線のないその紙には、青いインクで、一行だけ書かれている。


『貴方の知りたい世界が見つかりますように。』


私は当惑する。
『知りたいからです。』
『貴方が嫌う人間のこと、貴方が夢中になる研究のこと、この広い世界のこと、……貴方のことも。』
私は確かにそう言ったが、それは今日の出来事だった筈だ。それより前から用意されていたこの紙袋の一番底に、彼がこのメッセージを残すことは不可能であるように思われた。

「……」

それ、に辿り着いた瞬間、私はその紙を持って部屋を飛び出していた。
母の声を聞かずに「ちょっと出掛けてくる!」と叫んで、もう一度、いつもの道を駆ける。

『わたしと貴方は知り合ってまだ間もない。そんな人間の気紛れに、振り回されるのは御免だと、そう思っていました。』
『貴方が嫌いなのではありません。わたしは人間が嫌いなのです。』
彼の言葉を反芻する。反芻して、嘘だ、と唱える。
そんな風に思っている相手に、どうしてこんな優しい言葉を贈れるの。
そんな風に拒絶したい相手のことを、どうしてこんなにも知っているの。

私はプレハブ小屋のドアを乱暴に叩いた。
窓のカーテンを開けて外の様子を窺ったアクロマさんは、私を見るなり驚いた様子でドアを開けてくれた。

「どうしました?何か忘れ物でも、」

「どうしてですか?」

彼の言葉を遮って大声を出した。2枚目の手紙を彼の胸に押し当てた。

「どうしてアクロマさんは、信用していない人間に、こんな優しい言葉をくれるんですか?
どうして、嫌いな私のことをこんなにも知っているんですか?」

苦しい、と思った。
相手を理解したいのに、理解できない。そのもどかしさに私はぼろぼろとみっともなく涙を零した。

それは、私が大人を信用しなかった頃には感じ得なかった、新しい苦悩だった。

初めてだったのだ。
大人を信頼すること、誠実な相手に対してこちらも誠実で在りたいと望むこと、誰かを知りたいと思うこと、誰かに知ってほしいと思うこと、全て。
誰かを信じることができない孤独と苦しみを、私は誰よりも知っているつもりだった。
だからこそ、「人間を信用していない」と言ったこの人のことを、もしかしたら理解できるのではないかと思い上がっていた。
しかし、私は彼のことが解らない。どこまでも私に優しく接してくれるのに、冷たい言葉でさらりと私を拒絶する、この人のことが解せない。

それは、一定以上の距離を持って接すれば、抱かずに済んだ感情だった。
誰かの側に踏み込みたいと望むことが、こんなにも苦しさを伴うものだと、私は初めて知ったのだ。
誰かを信用することは、そうしたリスクも招くのだということを私は学んだ。そして、こんなこと、きっと彼はずっと前から知っている。

だから彼は、人を拒んだのではないか、と思った。
相手に近付くことの苦しさを知っているから。それが煩わしいものだと理解しているから。

しかしそれでも、私は立ち止まれない。

私はこの人に何を求めているのだろう?
私を信頼してほしいのだろうか。今まで通り、色んな事を教えてほしいのだろうか。それとも、もっと別の形を築きたいのだろうか。
簡単なことだ、きっと私は彼を失いたくなかったのだ。私を信用していないと言った彼が、私の嫌う大人の括りに入ってしまわないかと不安だったのだ。
何故なら、私が今更、彼を嫌うには、あまりにも長い時間を彼と過ごし続けてきたからだ。相反する感情に、自身が引き裂かれそうになることが何よりも怖かったのだ。
しかし「私を信用してください」と言ったところで、それが実を結ぶことはない。そうした信頼は、彼が私に示してくれたような行動の積み重ねで築きあげるものだからだ。
それでも、私は焦っている。そうした行動を重ねる時間すらも惜しいと感じていた。一刻も早く、この人の憂いを取り除きたかったのだ。
その為の手段を、もしかしたらそんなものは存在しないのかもしれないけれど、愚かな私は、泣きじゃくりながら、必死に模索している。何か、……何か、ある筈だと信じながら。

「貴方は何か勘違いをしているようですね」

しかしその思考は、優しく降りてきた彼の声により遮られる。
思わず顔を上げた、その私のみっともない泣き顔が、彼の金色の目に映っていた。

「わたしは、貴方のことを信頼していますよ」

「!」

「貴方はいつだって、わたしに誠実だったではありませんか」

ぷつり、と私の思考の糸が切れる。
……どういうことだろう。つまり、彼は人間を信用していないけれど、私のことは信用していて、だから私には誠実であろうとしてくれていたのだろうか?
私があの時、理解したと思っていた彼への解釈は間違っていたのだろうか?

あの時出した結論に至る過程を私はもう一度思い出し、一つ一つ、丁寧に咀嚼していく。つまりはどういうことだったのだろう?
彼が私に、双方に利益のあるウィンウィンの交渉を持ちかけてきたのは、私という人間を尊重してくれていたからで、
彼がどこまでも私に誠実であろうとしてくれたのは、私が彼に対して誠実であったからで、
あの時「待つのは止しなさい」と言ったのは、待つという行為に対しての、誠実な彼なりのアドバイスだったのであって、つまり、

私は信じられていたのだろうか?
焦る必要など、何一つなかったのだろうか?彼はもう、救われた後だったのだろうか?そして、それは私により為し得たことだったのだろうか?

「私が、アクロマさんに対して誠実であろうとしたのは、貴方が私に対して誠実な態度で接してくれたからですよ。だから、その言葉は私の方です」

やっとの思いでそう紡げば、彼は優しく笑って私の肩をあやすように抱いた。
それは彼が初めてした、私に対する子供のような扱いで、しかし彼を信頼していた私にはそれすらも穏やかに受け止める準備ができていたのだ。
私は目を閉じる。ふわりと、彼と飲んでいた紅茶の甘い香りがした。

「では、きっとわたし達は似ているのですね。
ですからこう考えてください。貴方がわたしを思っているように、わたしも貴方を思っているのだと」

そんなことが、そんな魔法のようなことが、本当にあるのだろうか。
それをどうしても確かめたくて、私は目を閉じたまま、彼に縋り付いた。真っ白な白衣にしわをつける勢いで、強くその服を握った。
すると彼は暫くの沈黙の後で、その手をそっと私の背中に添え、もう一方の手で私の頭を撫でた。
あまりの驚きに私は彼を見上げる。彼はどこまでも優しかった。

「ほら、間違っていないでしょう?」

「……は、い」

「ですからシアさん、そんなに気負わないでください。わたしは貴方を悩ませるためにあのようなことを言ったのではありません。
貴方はただ、いつものようにわたしを訪ねてくれるだけでよかったのですよ」

たった一言。それだけで、彼は私の不安を消し去ることができるのだ。


2014.11.13

フォルテーニヒ 響かせて

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