7 con energia

邂逅の日を思い出させるような雨が降っていた。
私は傘を差し、お気に入りのレインブーツを履いて、家を出る。わざと大きな水溜まりを踏み付けて歩いた。
いつもの角を曲がり、ヒオウギシティの外れにある小さなプレハブ小屋へと向かう。その小屋の前で見慣れた白衣が目に留まり、私は思わずその名前を紡ぐ。

「アクロマさん!」

その上擦った声音は正直だった。紡いだ声に私の深層心理を抉り出されるような心地がした。彼はそんな私の呼び掛けに笑顔で手を振ってくれた。
どうやら私は、どうしてもこの人に会いたかったらしい。
私は駆け出した。彼は何故か驚いたような表情を見せ、駆け出す。
どうしたのだろう、と思うのと、大きな水溜まりに足を取られるのとがほぼ同時だった。
あ、と反射的に小さく声をあげた私は、そのままアスファルトに突っ伏す筈だった。

「!」

「……やれやれ。貴方は学習能力が薄弱なようだ」

ぐい、と強い力で私の腕を掴んでくれた彼のおかげで、お気に入りの服を汚さずに済んだ。
ありがとうございます、とお礼を言った私は、彼が大きな鞄を持ったままだということに気付く。どうやら彼はたった今、帰ってきたところだったらしい。

「おかえりなさい!」

私は彼の金色の目を見上げてそう紡ぐ。すると彼は驚いた顔を見せた。
それは私の言葉に「何故、そう考えたのですか?」と尋ねる時のような、虚を衝かれたような茫然とした表情だった。
しかしそれは一瞬で、直ぐに彼はいつもの穏やかな笑顔を見せる。


「ただいま」


そして私は、彼が驚いた理由を知る。
その響きには、私が予想もしていなかった威力が込められていたのだ。言うなればそれは魔法の言葉だった。
おかえりなさい。ただいま。何気ないやり取りであった筈のそれが、しかしこの人に向かって紡ぎ、この人に紡がれるだけで質量を増す。
私はこの人の帰る場所で在りたいのかしら。そんな潜在意識がゆっくりと浮上しつつあった。
無意識にそんな希望をもってして紡がれたその言葉に、しかし彼は「ただいま」と答えてくれる。それがどうしようもなく嬉しかった。

彼は私をプレハブ小屋の中へと招き、いつもの椅子に私を勧めた。

「一週間は、思っていたよりも短かったです。アクロマさんのアドバイスのおかげですね」

「おや、何か夢中になれるものを見つけたのですか?」

是非ともお聞かせ願いたい、と笑う彼に、どうやら特訓の成果を披露する時が来たらしい。
私はたった今座った椅子から勢いよく立ち上がり、得意気に笑みを作った。

「私に、紅茶を入れさせてください!」


透明なガラスのポットに、先ずは何も入れていない状態で、沸騰したお湯を注ぐ。ポットの全体を温めておくためだ。
そうしてお湯を一度捨ててから、茶葉を入れる。今日は甘い花の香りがする。再沸騰させたお湯を注いでから蓋をして、3分間待つ。
沸騰したてのお湯の方が、茶葉がお湯の中で回りやすくなるそうだ。こうした水の流れのことを「対流」と言うらしいが、これが紅茶を美味しく入れるために必要らしい。

私は、彼の元を訪れなかった一週間も、ずっと自分で紅茶を飲んでいたのだ。
自分でお湯を沸かし、ポットに茶葉を入れ、時間を計ってから、最後の一滴まで慎重にカップに注ぐ。彼がしてくれていた全ての工程を、私は自分で行えるようになっていた。
香りの強く立つ紅茶を入れるには、ちょっとしたコツが必要だという事を私は学んでいた。

「時間を計るには、これをお使いください」

彼はそう言って、鞄から何かを取り出した。
小さなガラスの中で、青い色の付いた泡のようなものがポコポコと下に沈んでいる。

「その青い水が全て下に落ちれば、3分が経った、ということです」

「砂時計みたいなものですか?」

「ええ。わたしが紅茶を入れている間、待っている貴方が退屈かと思って買ってきたのですが、待つのはわたしの方だったようだ」

肩を竦めて笑う彼に、私はただ沈黙した。
これは、彼が私に買ってきてくれた不思議な時計。私の待ち時間が、少しでも楽しいものになるようにと、そんなささやかな願いが込められた水の時計。
深い海を表すようなその色は、ぽとぽとと少しずつ底に沈んでいった。私は確かな喜びを噛み締めるように笑った。
彼がその色に、私の目の色を重ねていたことを、私は知らなかったのだけれど。

「でも、不思議ですね。どうして透明な色と青色は混ざらないんですか?」

すると彼は目を輝かせて「とてもいい質問ですね!」と声をあげた。

「貴方の言うように、物質は常に均一なエネルギーを保とうとします。
50℃の水と10℃の水を一つの容器に入れれば30℃の水になりますし、エアコンから吹き出る風はやがて部屋中を暖めたり涼しくしたりします。
こうして混ざったものは、混ざる前の状態に再び分かれることは二度とありません。これを「不可逆性」と言います」

「……ということは、青い水と透明な水を合わせると、全体が薄い青色になる筈ですよね」

「ええ、しかしこの二つの色は混ざらない。それは、その透明な水と青い水が同一の物体ではないからです。
透明な方の水は、実は油でできているのですよ。水と油は混ざらないでしょう?」

私は驚いてその液体を凝視した。この透明な液体が油だったとは。
水と油が分離しないことは、食事に出されるスープなどを見ていてもよく分かる。
油は必ず水の上に浮いている。小さな円が沢山描かれたスープの表面を見るのは楽しかった。

「水の比重は1.0ですが、油のそれは水よりも軽く出来ています」

「比重……?水が油よりも重い、っていうことですか?」

「ええ。ですからこの青い水は下へと徐々に沈んでいくのです。
油が使われているので、この時計は「オイル時計」と呼ばれていますが、それを最初に言ってしまうと面白くないでしょう?」

彼は人差し指を立てて得意気に笑った。
「ではついでに、比重の話もしましょうか」彼はそう言って、いつもの折り畳み式のタブレットを起動させ、そこにタッチペンで図を描いて説明してくれた。

比重は質量を体積で割ったもので、その数字が大きいということは、所謂「重い」ということになるらしい。
重さという言葉を、もっと物理学的に噛み砕けばこのようになる、と彼は説明してくれたが、どう考えても私には「比重」を噛み砕いたものが「重さ」であるような気がした。
しかしそう思ってしまう辺りからして、私はまだ彼の世界に馴染めていないらしい。
きっと「比重」という単語に難しさを感じてしまうことこそ、彼との間に壁を作ってしまうことに違いなかった。
だから私は、彼の言葉を必死に咀嚼し、理解しようと努めた。そうすることで、いつか彼と同じ地面に靴底を揃えられるような気がしていたのだ。

そうこうしている内に3分が経過し、私はティーカップに均等に紅茶を注ぐ。
最後の一滴まで丁寧に入れてから、私はその一つをアクロマさんに渡した。彼はそれを受け取り、私の為に角砂糖の入った入れ物を渡してくれた。
私はいつものように、角砂糖を一つ摘まんで、紅茶の中へと落とす。家には角砂糖が無かったため、この動作をするのは一週間ぶりだ。それが酷く嬉しかった。

「では、いただきます」

彼はそう言って、紅茶を口へと運んだ。
私は自分の心臓が高鳴るのを感じていた。何とも表現しがたい感情が自分の中で渦を巻いていた。
怖いのだろうか、不安なのだろうか、それとも期待しているのだろうか。それらを持て余していた私を落ち着かせたのは、紅茶の優しい香りだった。
春を思わせる甘い香りは、私の鼓動を落ち着かせるに十分な美しさを持っていたのだ。

シアさん」

しかし、一口だけ飲んだ彼が発したのは、賛辞でも批評でもアドバイスでもなかった。

「貴方は、もう此処へは来ないと思っていました」


2014.11.13

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