20 episodio

22番道路を歩いていたアクロマは、自身の数ミリ違わずに進めていた歩幅を狂わせ、ぴたりと止めた。
背後から突き刺すような視線を感じたからだ。
振り返ると、一人の少年が立っていた。あの少女と同じ年頃の、荒んだ赤い目が特徴的な少年だった。

「何か御用ですか?」

「しらばっくれんなよ」

つい先程まで見ていた、深い海のような少女の瞳を思い出し、その赤はあまり綺麗な色ではないなと、アクロマは無意識に溜め息を吐く。

「ヴィオが科学者の話をしていたんだ。お前、プラズマ団のボスだろ」

この少年はおそらく、あの少女の幼馴染だろう。出会ったのは初めてだったが、アクロマにはその確信があった。
少女から幼なじみの話はよく聞いていたので、少年の前知識は揃っている。
五年前に奪われた妹のポケモンを探す傍ら、出くわしたプラズマ団に喧嘩腰でバトルを仕掛けているという話だ。確か名前は、ヒュウだったか。

アクロマは彼の持つボールを一瞥する。中のジャローダは彼と同様、怒りを映した目をこちらへ向けている。
アクロマは暫し思案に浸り、やがてゆっくりと首を振った。
ポケモンの能力を引き出すもの、少なくとも彼とジャローダの間では、それはお互いの波長が揃うことであるようだった。
しかしそれはアクロマの求める答えではなかったのだ。

怒りに我を忘れたその力は両刃の剣。
そんなもので何かを変えられると信じきっていた無垢な時代を、彼はとうの昔に捨てて来てしまっている。
少年はボールの開閉ボタンに手を掛ける。火が付いてしまわない内にと、アクロマは口を挟んだ。

「わたくしは雇われの身です」

「!」

「あなたがわたくしに勝てるとも思えませんが、万一勝利を手にしたところで、それは無駄足にしか過ぎませんよ」

数秒の沈黙。勿論、その言葉に嘘はなかった。アクロマは確かに組織を任されていたが、その背後にはもう一人、絶大な権力を持つ存在が控えていたのだ。
少年は、アクロマの言葉に嘘がないことを汲み取ったのだろう。彼はボールの開閉ボタンに掛けた指を引っ込め、しかしそれをポケットに仕舞うことはしなかった。

「質問を変えるぞ。お前、あいつに何をさせようとしている?」

その瞬間アクロマに浮かんだのは、深い海の目だった。

「貴方も、それを望んでいた筈では?
単身でプラズマ団の船に乗り込んだ時も、貴方は彼女が自分を追ってきてくれることを確信していたのでしょう?彼女を連れ回して、自分の目的の為に利用しようとしていた」

「違う!」

少年は声を荒げた。その瞬間、アクロマは唇に弧を描く。ボールの中のジャローダが、目に見えて狼狽したからだ。
ポケモンがパートナーの心境を把握出来ていない。少なくとも、それは彼等の間では致命傷だった。
彼もきっと、少女と同様に8つのジムを制覇してきたのだろう。しかし怒りに荒んだ眼をした彼が、少女と同じだけの強さを持ち合わせているとはとても思えなかったのだ。

「プラズマ団を倒すのは俺だ!アイツを此処まで引き込むつもりはなかった。こんな危険にさらすつもりじゃなかったんだ!
時々、俺の手伝いをしてくれるだけで良かったんだ。それなのに、」

「口を閉じなさい」

静かな声だった。しかしそれは少年の言葉を遮るには十分だった。
アクロマは思っていた以上に自分が短気であったことに心中で自嘲する。しかしそれでも尚、彼を理性に繋ぎ留めるのは、あの深い海の目だった。

「わたくしには嫌いな人物が居ますが、彼は、ポケモンはおろか、人間も道具に過ぎないと言い放ちました。……しかし、あなたも大差ありませんね」

「な……」

「そして、彼よりも愚かだ。道具を自分でコントロールできないと解れば、わたくしのような人間に縋ってかかるのですから」

そして彼はその赤い目を見開く。

「あいつは道具じゃない!」

「そうしているのは貴方だ!」

声を荒げた自分に、アクロマは今度こそ驚いた。
自身の中に、これ程までに激しい感情が渦を巻いていたことが信じられなかったのだ。
言葉を失い立ち尽くす少年の前で彼は目を閉じる。瞼の裏には、あの手紙が記憶されていた。

『私は今まで、そうした存在を持つことは、とても幸せなことだと思っていました。
しかしそれは、必ずしも幸福なことばかりではないのだと、私はこの旅で知りました。
かけがえのない存在だからこそ、その存在が脅かされた時、彼等は盲目となります。それは凄まじい憤りを引き起こす火種にもなり得ます。
大切だという思いが過ぎて、それが彼等の足枷となっているようにも感じられました。

けれど、それでも彼等はかけがえのない存在を想うことを止めません。自らが怒り、傷付き、苦しんでも、それでも彼等は大切だと紡ぐのです。
だからこそ、その思いは素敵な輝きと温かさを持っているのだと、私は思います。』

『アクロマさんは、かけがえのない誰かに出会ったことがありますか?』

きっとこの憤りは、この激しい感情は、それ故のものなのだと彼は確信していた。
アクロマは彼女のその問いに答えることができなかった。「貴方のことだ」と答えることは簡単にできたのに、彼の置かれた立場がそれを許さなかったのだ。
そして、あの優しい少女は、そうした自身の葛藤をも汲み取って笑ってくれる。
アクロマは、海が見たくなった。

「じゃあ、お前はどうなんだよ」

少年の問い掛けに、アクロマは真剣に考えた。
自分が少女に委ねたものは何だったのだろう。此処まで少女を導き、彼女に何をさせようとしたのだろう。

それは、本当に彼女でなければいけなかったのか。
その自信への問い掛けは、アクロマに、自分が少女に投げたあの質問を思い出させた。
『それはわたしでなければいけなかったのですか?』
その質問に、彼女は間髪入れずに笑顔で答えたのだ。

『はい。だって私が知りたいと思ったのは貴方だから。』
『私が好きになったのは貴方だから。』

「……ええ、そうです」

自身の問い掛けに答え、アクロマは彼を見据えた。

「あの子でなければいけなかった」

「……な、んで、」

「あなたが彼女を選んだのと、きっと、同じ理由ですよ」

踵を返して、歩き出す。少年はもう追い掛けて来なかった。


セイガイハの海で、彼は自身の顔を水面に映す。そこに揺れている自分の目は、金色をしていた。
『アクロマさんの目は、太陽の色をしているんです。』
自分が彼女に海を見たのと同じように、彼女も自分に太陽を見ていたのだ。
その言葉を聞いた瞬間に、アクロマに湧き上がったものは間違いなく安堵だった。

『では、きっとわたし達は似ているのですね。
ですからこう考えてください。貴方がわたしを思っているように、わたしも貴方を思っているのだと。』
ずっと前に紡いだそれはきっと、自分に言い聞かせた言葉でもあったのだ。更に言えば、そこにはアクロマ自身の懇願が込められていたのだ。
どうか、そうであってほしいと、彼はずっと願っていたのだ。

苺の香りのする紅茶に砂糖を落とした時の、その海の目が輝いたあの瞬間が、アクロマはどうしても忘れられなかったのだ。
聡明で好奇心の旺盛な少女。世界の理不尽を嫌い、強く生きたいと願う健気な少女。信じることで世界を変えた、優しい少女。

これはそんな愛しい人間との共鳴を望んだ男の話。


2013.6.28
2014.11.20(修正)

エピゾーディオ 間奏

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