B 夏ー7

トウヤから譲り受けたヒトモシは、私が唯一、タマゴから孵したポケモンだった。
ヒウンシティで孵ったヒトモシを急いでカノコに連れて帰り、「見て、孵ったのよ!」と喜び勇んでトウヤに見せたのが、つい最近のことのように感じられる。
本来ならヒトモシは、ここ、タワーオブヘブンでしか見られないポケモンだ。
お墓に集まるポケモン。つまりあまり縁起の良い存在では、ない。事実、魂を吸われるとか何だとか、チェレンやベルが勝手なことを言っていた。

『それにしても、このポケモン、何故だかキミを信じている。いいね……!』

だから、そうNに言われた時、本当に嬉しかったのを覚えている。
彼は本当にポケモンが好きなのだと、ポケモンの幸せを心から願っているのだと、そう確信できてどうにも安心してしまったことを、覚えている。
相容れない存在であった筈の彼、その言葉に私は救われることを覚え始めていた。狡いことだと思いながら、それでも私は彼を探すことを止めなかった。

今では頼もしいランプラーになった、あの頃のヒトモシを連れて、この塔に再び登る。
最上階に意外な先客がいた。そいつは、……不遜な形容が許されるなら、狡い大人の代表格であり、私が今、最も会いたくない人物であった。

「おや、トウコか。久し振りだな」

そう言って、彼、イッシュリーグのチャンピオンは鐘を鳴らす。響き渡った鐘は、重々しく、壮大で、……悲しい音だった。
この人は、以前の自分のパートナーを亡くしているらしい。
「その喪失感からチャンピオンを四天王に任せ、自分はイッシュ地方をふらふらしている」
そんなゲーチスの言い得て妙な批評を思い出して、私は彼を嗤った。馬鹿にするように、軽蔑するように、目を薄くしてふっと息を吐いたのだ。
……もっとも、その笑いには自嘲も含まれていたのかもしれない。私もまた、喪失感を埋めるように、彼との記憶を辿るように、旅を続けている最中だったからだ。

この鐘の音は彼の生きた年月と、その悲しみを反映している。今の私がこの鐘を鳴らせば、きっとこれよりもずっと軽い、しかしとてもよく似た音が鳴るに違いない。
それが無性に腹立たしかった。

**

『うわ、びしょ濡れじゃない!こんな所で何やってるのよ!』

フキヨセジムから出てきた私を、Nは雨の中待っていたらしい。 思わず声を荒げてしまった私に、ずぶ濡れの彼は苦笑した。
慌てて折り畳み傘を開き、小さいそれに彼を押し込める。

『……いつから待っていたの?』

『キミがジムに入るのが見えたから、それからずっと此処に居たんだ。』

彼のその言葉が本当なら、ゆうに1時間以上はこの雨に打たれていたことになる。きっと身体も冷え切っているに違いない。
大きく溜め息を吐いて、彼の手を取った。案の定、人ではないような冷たさが伝わってきて、私は思わず眉をひそめた。

『王様に風邪なんか引かせたら、私がプラズマ団の人達に叱られるの。体調管理くらいしっかりしてよね。』

『何処に行くんだい?』

『ポケモンセンターよ。ドライヤーを貸してもらえる筈だから、あんたのその服と髪を乾かすの。……そうね、ついでにちょっとお喋りしましょうか。』

私はNの手を強く引いて駆け出した。彼は無言で私の後を付いてきてくれる。
何故かこの時、私の心は浮き立っていた。雨が降ってくれたことに感謝すらしたい気分だったのだ。
彼の服や髪を乾かすことなど、口実に過ぎない。私は彼と話がしたかった。このおかしな人物を、気味の悪い私の敵を、もっと知りたいと思い始めていた。

ポケモンセンターは雨宿りをするトレーナーで混雑しているものと思っていたのだけれど、意外にも人は疎らで、むしろいつもより空いていた。
ジムリーダーとのバトルで疲れたポケモン達を預け、私はカウンターでドライヤーを2本借りる。
1本をNに渡すが、彼はそれを持って沈黙するだけだった。

何をしているの、早く乾かしなさいよ。
そう言いかけた言葉を、しかし私は声にし損ねてしまった。彼がそのドライヤーを物珍しそうに見つめ、首を傾げたからだ。

『もしかして、ドライヤーを使ったことがないの?』

『ああ、キミが言っていたドライヤーとは、これのことだったのか。』

彼は納得したように頷いて笑った。私は自分の笑顔が引きつるのを感じていた。
……こいつはドライヤーと使ったことはおろか、見たこともないらしい。それでは使い方など解る筈もない。
「こうやって、風で髪を乾かすのよ」と説明してからドライヤーのスイッチを入れるが、彼はその音に驚いたらしくびくりと肩を跳ねさせた。
それがおかしくて私は声を上げて笑った。

怖いの?と煽るように尋ねれば、彼は眉をひそめて、『ボクはそんな騒音を出す機械で髪を乾かそうとは思わない。』と反論してきた。
ふうん、と相槌を打つ振りをして、わざと手を滑らせてドライヤーの熱風を彼の端正な顔に吹き付けてみる。
驚いた彼が咳き込みながら、やめてくれ、と抗議するさまがどうにも楽しくて、おかしくて、私は益々笑った。
見知らぬ機械を前に緊張した面持ちを崩さないNを、わざと大袈裟にからかい、こんなにも些末なイニシアティブに喜んでいる。
そんな私もきっと、おかしかったのだろう。

ドライヤーの使い方が解らない彼の代わりに、彼の背中に回って髪をわしゃわしゃとかき混ぜながら、熱風を吹き付けて乾かした。
まるでじゃれ合うように彼をからかいながら、なあんだ、と私は思った。
ポケモンの声が聞こえるだなんて特異な力を持ち、プラズマ団の王様を名乗るこの怪しい人物の実態は、ただの世間知らずのお坊ちゃまだったのだ。

見知らぬ家電製品に怯える彼の姿は、私を愉快にさせ、また、私に安心をも運んだ。
彼だって、ただの人間に過ぎない。私と彼とは、紛れもなく同じ人間なのだと確信できた。
以前、彼に向かって投げた「私とあんたは同じ人間だ」という趣旨の文句は、それこそ自分に言い聞かせた言葉でもあったのだが、今ではそれを真実として紡ぐことができる。

『ねえ、あんたのことを知りたいわ。……年は幾つ?』

『17だよ。』

彼は私と同じ人間だ。……それも、もしかしたら私よりもずっと幼稚で、臆病な。

『やっぱり私よりも年上なのね。私は14歳よ。……それにしても長い髪ね。切らないの?』

『キミだって長いじゃないか。』

『私は女の子だからいいの。……でもそうね。そろそろ気分転換に切ろうかな。』

最後に自分の髪を切ったのはいつだっただろうか。たまにはバッサリと切ってしまってもいいかもしれない。
そんなことを考えていると、Nは徐に首を傾げた。
頭が大きく揺れたため、私はその緑の後頭部を両手で挟み込むように掴み、「こら、動かないで」と告げつつ、ぐいと元の位置に戻した。
彼が小さく呻いたような気がしたけれど、聞こえない振りをしてみた。
誰かに対してこんなにも遠慮なく接したのは初めてだった。他でもない彼が、私以上に、私に対して遠慮を見せていないからに他ならなかった。

ポケモンの声を介して、私の本質を聞き当てる。嫌そうな顔を見せる私に構うことなく、目の前で訳の分からないことをまくし立てる。
彼は私に遠慮しない。それ故に、私が彼に対して気を遣わなければならない理由は、きっと何処にもない。
そして遠慮の要らないこの時間を、私はとても気に入っている。
それで十分な気がした。それ以上の細やかな論理は必要ではない気がしたのだ。
大雑把で適当な私はそうした細かいことを語るのに向かないし、何よりこうした関係を、そんな難しい言葉でややこしくすることを私は望まなかった。

『髪を切ると気分転換になるのかい?』

『いきなり髪型を変えれば、別人になったような気がするでしょう?あんたは気分が滅入った時、何をするの?』

『数学の本を読むよ。』

『うわ、典型的な理系なのね。』

そうした会話をしている内に、Nの髪が乾いてきた。
私は彼の肩に掛けていたバスタオルを外し、ドライヤーの熱風を今度は濡れた服に吹き付け始めた。

『キミは違うのかい?』

『私?……そうね、少なくとも理系ではないかな。数式なんかを扱うのは大嫌い。どちらかというと、新聞や小説、それに伝記を読むのが好きよ。』

『新聞、小説、伝記……?』

『あれ、読書家だと思っていたのに知らないのね。いいわ、今度教えてあげる。』

私はクスクスと肩を揺らして笑った。
どうしてこんな奴相手に、こんなにも楽しい気持ちになっているのだろう。

解っている。解っていた。
どうやっても、私達の行く末は交わり、何度考え直しても、私はこの人と「ポケモンとの在り方」という点では、対立せざるを得ないのだ、と。

勿論、不可解な点も多かった。
理想と真実の確実性を否定したNが、何故執拗に真実の世界を求めるのか。
Nと一部プラズマ団員との、思想のズレが何処から来るのか。
夢に向かって突き進む眩しいNに、何故、私は悲しい影を見るのか。

だから私は、彼を「自分の敵」としてではなく、「厄介な変人の知り合い」として見ようとしていたのだ。
解らないことを解るようにするための鍵は、やはり彼が握っているように感じられたからだ。
そのためには、肩書きを外した、本来の彼を知る必要があった。ありのままの彼の思いに触れる必要があった。

しかしそれすらも建前であることに、私は気付き始めている。
そう、ただ、私が彼を知りたかった。私を知られてしまった彼のことを、私だって知りたいと思った。きっと、ただそれだけなのだろう。
それは臆病な私の、小さくて大きな一歩だった。


2014.11.2

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