青の共有

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それからというもの、アポロは毎日のように鈴音の小道を訪れていた。
晴れの日はいつもの場所で、雨の日はスズの塔の屋根の下で、クリスは本を読んでいた。
彼女は本を閉じてアポロとの会話に興じることもあったし、そのまま本を読み進めることもあった。
彼女はどこまでも自由で、マイペースだった。だからこそ、アポロも気を遣うことなく接した。
最高幹部という地位は、彼女の前では何の意味もなさない。ストイックで統率力のある人間になりきることも、カリスマ性を持ち合わせた人間を演じる必要もない。

嘘を吐かなくてもいい人間との関係は、一言でいえば「楽」だった。アポロはこの時間を手放したくはなかったし、少女も何故か自分を気に入っている。
それでいい気がした。それ以上のことを考えなくてもよかったのだ。
同じ色の髪と目を持った二人の奇妙な邂逅を続けて、2週間が経とうとしていた。

その2週間の中で、クリスという少女について知ったこと。
年は17。趣味は読書。7年前、10才の時に、ジョウト地方とカントー地方を旅していたらしい。
現在は弁護士になるために独学で勉強中。司法試験を間近に控えているようで、いつも分厚い本を開いていた。
ワカバタウンという田舎町で暮らす、3人兄弟の長女で、ブックカバーの内側に貼られた写真には、彼女を含めた3人の子供と母親が映っていた。
双子の姉弟のうち、弟は重い病気で、外に出ることすら難しいのだという。父親は遠くの地で働いており、生活費や弟の医療費などを送ってくれているらしい。

「お母さん、本当はお父さんと一緒に居たかったと思うんです。
でも、お父さんが働く都会は大きな工業地区があって、空気があまり良くないんです。弟の身体に悪いからって」

彼女は少しだけ寂しそうに紡ぎ、しかしそれを隠すように肩を竦めて笑った。
スズの塔の近く、大きな木の下で、少女は驚く程饒舌に自分のことを話した。
素性の知れない人間に話すにはかなりのリスクを伴うであろう内容も含まれていて、この少女の警戒心の薄さをアポロは案じた。

「何処の誰とも知らない人間に、そんなにも自分のことを話していいのですか?」

「どうして?」

「私が、悪い大人かもしれませんよ。
今この時も、貴方の情報を聞き出して、利用価値があるかどうか見定めている最中なのかもしれないと、考えはしなかったのですか?」

挑発するようにそう尋ねる。実際、アポロは決して世間の言う「いい大人」では決してなかった。
しかしクリスはその言葉にコロコロと鈴を鳴らすように笑い、逆にアポロを挑発するように見上げたのだ。

「大丈夫です。貴方が悪い大人だったとしても、私と、私の大切なものを守るだけの力が、私にはあります」

「……」

「試してみますか?」

アポロの返事を聞かぬままに、少女は慣れた手つきでモンスターボールを取り出す。風船を空に飛ばすように、ふわりと投げてみせる。
現れたのはメガニウムだった。ふわりと花の香りが鼻を掠めた。

ポケモンバトルの申し出を無言で了承し、アポロは自分のモンスターボールを投げる。現れたヘルガーが珍しいのか、少女は目を丸くして驚いた。
ジョウトではあまり見かけないポケモンなので、と笑う彼女は、しかしメガニウムの弱点である炎タイプのポケモンを前にしても、全く表情を変えない。
随分と舐められたものだ、とアポロは思う。それともこの奔放な少女は、タイプ相性を知らないのだろうか。
いずれにせよ、この奔放な少女に、ある程度の警戒心を植え付けてやる必要があると思った。
悪い大人は、彼女が思っている以上に、この世界に溢れかえっているのだから。

「ヘルガー、かえんほうしゃ!」

「はなびらのまい!」

瞬間、アポロは自分の目を疑う。
ヘルガーが繰り出せる炎技の中でも、トップクラスの威力を誇るかえんほうしゃは、しかしその炎に酷似した赤い花弁の群れに押し負けたのだ。
花弁の群れがヘルガーに襲い掛かる。周りの落ち葉も巻き込み、それは凄まじい風圧でヘルガーの身体を吹き飛ばした。
しかしヘルガーは空中で姿勢を立て直し、何とか落ち葉の上に着地する。

アポロはその一部始終を脳裏に焼き付けるので精一杯だった。高威力であるかえんほうしゃが押し負けた以上、あのメガニウムに与えられる決定打は最早存在しない。
しかしクリスはメガニウムに技を命令しなかった。こちらの出方をじっと窺っている。

「……どうしました、攻撃しないのですか?」

「ええ、だってアポロさんが攻撃して来ないんだもの」

この警戒心のない少女は、いつか痛い目を見るのではないだろうか。
その為のけん制をかけたつもりだった。温室の中でのほほんと生きてきたのであろう彼女に警鐘を鳴らすつもりだった。
しかし、彼女はけろりとして笑っている。アポロはこの少女に恐怖心を抱いた。
そして、彼女を前にした時には完全に姿を潜めていた筈の、大勢の部下を束ねる最高幹部としての顔が現れ始めていた。

これ程の力を持ったトレーナーを、このまま野放しにしておいて良いのだろうか。
アポロは指示を待つヘルガーをそのままにしたまま、思考をぐるぐると巡らせていた。
この少女は、何者なのだろう。どうすればいいのだろう。

「強いですね、クリス

いっそのこと、自分の組織へ勧誘してしまおうか。アポロの脳裏にそんな考えが過ぎった。
最高幹部である自分なら、ちょっとした贔屓で彼女をそれなりの地位に押し上げることもできる。給金だって、かなりの額を用意できるのだ。
それこそ、彼女の父親をワカバタウンへと呼び戻せる程の、彼女の弟の病を治療するに余りある、十分な金額が。

「……」

しかし、喉まで出かかったその言葉を押し留めてしまったのは、アポロがクリスという少女のことを知り過ぎていたからだ。
彼女が自分の夢である弁護士を目指して、勤勉にも勉強を重ねていること。法律系の通信教育を受けるための費用を、アルバイトのかけ持ちで稼いできたこと。
それは強いられたものでも、不満を与えるものでもなく、彼女自身がその生活を酷く気に入っているということ。
そして今、アポロのヘルガーにとどめを刺さないのは、クリスがアポロという人間を信頼しているからだということ。

アポロは少女のことを知っていた。知り過ぎていた。

「私が、守る必要もなさそうですね」

彼女を「こちら側」の世界へ引き込みたくないと思うことは、最高幹部としての判断に悖っているのだろうか?
それでもいい、と思った。どのみち、自分はクリスの実力に敵わない。この少女は、とてもではないが自分の手には負えない。
自分の勧誘を、少女が受けてくれる確証は何処にもない。それなら今まで通り、何も知らなかった頃のままでいよう。
アポロは頷き、ヘルガーをボールに戻した。

……余談だが、彼女がジョウトとカントーにある16のジムを制覇し、一時期はポケモンリーグのチャンピオンを務める程の実力者であったことを、アポロが知ったのはずっと後のことだった。

「さて、久し振りに焼き芋でも奢って差し上げましょうか?」

焼き芋、という単語に、クリスは目を輝かせたが、直ぐに頷くことはしなかった。
顎に親指を添えて暫く考え込んでいたが、ぱっとその顔に花を咲かせて微笑む。

「今日は焼き芋、いりません。代わりに、お兄さんのことを教えてください」

「!」

「アポロさんは、どんな人ですか?」

心臓が跳ね上がる音がした。
他の誰かにそう聞かれた時と同じく、いつものように嘘を重ねればいいだけの話である筈だった。しかし、彼女にその「いつも」を当てはめることがどうしても躊躇われたのだ。
そもそも「どんな人か」を聞かれるような距離に、誰かを踏み入らせたのは随分と久し振りだった。
だから、対応に遅れたのかもしれない。

「……私のことなど、聞いても何も面白くありませんよ」

ようやく紡いだのは、そんな苦し紛れの言葉だった。

2014.10.10

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