青の共有

3

「アポロ、直ぐにこの書類を確認してください」

「アポロ様、少しお時間を頂けませんか?」

「ああ、待っていたわよ。科学部が貴方を呼んでいたから、早めに行ってあげなさい」

帰ってくるなり浴びせられるようにやってきた大量の仕事に、アポロはリセットされた筈のストレスが一気に蓄積されるのを感じていた。
ああそうだ、自分は何をやっていたのだろう。
同期であるランスの怒号を聞き流しながら、アポロは自身を叱責していた。
即座に頭を業務用のそれに切り替え、溜め息を飲み込んで、代わりに指示の音として吐き出す。

「アテナさん、おそらく機械の故障なので、ラムダさんを代わりに送ってください。私よりも彼の方が詳しいですから。
これからミーティングがあるので、その後に要件を伺いましょう。場所は会議室で構いませんね?
それからランス、この書類は昨日提出するように言った筈ですよ。私の確認が一瞬で終わる訳ではないのですから、そこも計算に入れて早めに済ませておいてください」

そうだ、自分はこの喧騒の中に身を置いていたのだった。
数十分前の静けさが嘘のようだ、と思う。いや、おそらくは嘘だったのだろう。あの静寂に慣れてはいけない。沈黙の中に咲くあの笑い声を思い出してはいけない。

アポロは本来なら、カリスマやストイックさなど微塵も持ち合わせていない人間である筈だった。
どちらかと言えば、自分と同じ色の髪と目を持つあの少女のような、奔放でマイペースな性質を持つ人間だった。
周りの声が彼を「最高幹部」へと押し上げ、その立場が彼にカリスマを与えた。
ストイックで統率力のある人間を演じることが組織への安定を与える。不安や恐れを顔に出してはならない。立ち止まることは許されない。
その為なら、心に嘘を吐くことすら厭わない。
だから、つい数十分前の焼き芋の味を、彼は忘れた。忘れたと、言い聞かせていた。

「さて、お待たせしました。ミーティングに入ります。全員、揃っていますね?」

あの奔放な少女との時間を心地よく感じたのは、自分が疲れていたからだ。
別れがたく感じたのは、髪の色や目の色が同じだったからだ。
感情の共有を喜ばしいことのように感じたのは、普段、自身の感情をさらけ出すことの許されない環境に置かれているからだ。
そう、全てが偶然だったのだ。その出会いに固執する必要はないし、してはいけない。

アポロには、成し遂げなければならないことがあったのだ。
その為なら、心に嘘を吐くことすら厭わない。
……ただ、心に嘘を吐き続けることは不可能であり、不可能を可能にしようと努めることは恐ろしく膨大なストレスを伴うものだと、若い彼はまだ気付いていなかったのだ。



「焼き芋が食いたい」

故に、ラムダが唐突にこんなことを呟かなければ、アポロがあの少女のことを思い出すこともなかったのだ。
もう日付が変わりそうな時刻、ミーティングルームに残っていたのは、アポロを初めとする4人の幹部達だった。
各々が書類に向かっている中、一番先にデスクワークを投げ出したのが、最年長であるラムダだった。

「エンジュの焼けた塔の近くに、焼き芋の屋台が出ているらしいぜ。ランス、買って来いよ」

「何故私が。言い出したのは貴方なのですから、ご自分で買いに行かれてはどうです」

「ああもう!ラムダが焼き芋なんて言うから、食べたくなっちゃったじゃない!」

次いで、アテナがペンを投げ出す。ランスはパソコンの画面から視線を逸らさずに、上司の言葉を軽くあしらっている。
ラムダは完全に書類への意欲を無くしたらしく、回転式のイスをくるくると回しながら「焼き芋、焼き芋……」と、ランスに小声で呟き続けている。
サブリミナル効果でも期待しているのだろうか。しかしそれに絆されることなく、ランスはぴしゃりと言い放つ。

「サツマイモの何処がうまいのか理解しかねますね」

「いえ、美味しかったですよ」

思わず会話に入ってしまったアポロに、3人の視線が集まる。
口にしてからしまったとアポロは後悔したが、後の祭り。
アテナやラムダ、興味のなかった筈のランスにまで「買って来い」と迫られ、アポロは翌日もエンジュに赴くことになってしまったのだった。



カサ、カサ。
鈴音の小道には相変わらず静寂が訪れていた。
溜まったストレスを吐き出し、疲れた心身をリフレッシュさせるには、この静かすぎる異様な場所は不適であることを、アポロは昨日の一件で把握している筈であった。
にもかかわらず、彼の足はこの地へ赴く。彼の耳はあの音を探す。

パラリ。
ほら、聞こえた。アポロはその一瞬の音を聞き逃さなかった。
約束したから、なのかもしれない。バツの悪い思いをすることを避けての行動だったのかもしれない。
しかし子供相手の約束など、彼にとっては意味を為さない筈だった。そんな約束は破って当然のものであり、そんなものに縛られるようなことがあってはならない筈であった。
そう、つまりは約束したからではなく、それを順守したいと思わせる引力が少女にはあったからだった。
つまるところ、アポロは少女に会いたかったのだ。

「アポロさん、こんにちは。来てくれたんですね」

読んでいた法律関係の分厚い本から顔を上げ、クリスはふわりと微笑んだ。
そこには純粋な喜びと、ほんの少しの驚きがあった。
相変わらず、その肩や背中にはこんもりと落ち葉が積もっている。アポロはその様子に苦笑しながら、思わず本音を紡いでしまった。

「来ないと思っていましたか?」

「はい」

間髪入れずに紡がれた返事に、アポロは絶句した。
来ないつもりだったのだ。ラムダ達に焼き芋の調達を頼まれなければ、今日、此処を訪れることもなかったのだ。
そう心中で呟き、アポロは首を捻る。
果たしてそうだろうか。自分はこの場所を訪れなかっただろうか。

「こんな子供との約束を、丁寧に守ってくれる大人の方が少ないことを私は知っています。
だから貴方が来ても来なくても、どちらでもよかったんです。何も変わりません。私はいつものように此処で本を読むだけですから」

「……」

「でも、また会いたいと思ったから約束をしました。それに、また会えてとても嬉しいです」

この少女は、正直なのか、嘘吐きなのか、どちらなのだろう。アポロは測りかねていた。
しかし、それこそどちらでも良かったのだ。その言葉が真意でも建前でも、自分を見つけて微笑んだその表情に嘘はないと確信できだからだ。
それは完全なるアポロの驕りだった。根拠としてはあまりにも弱いそれを、アポロは信じていたのだ。

「私も、貴方にまた会えて嬉しいですよ、クリス

「……ふふ、変なの。私は何処にも行かないのに。お兄さんが此処に来てくれさえすれば、必ず会えるって、決まっていたのに」

クリスは本を持ったまま、ころんと寝返りを打った。
途端に崩れ落ちる落ち葉の山が、ガサガザと大きな音を立てる。
それが相変わらずおかしくてアポロは笑った。そして自分も同じ事がしてみたくなり、少女の隣に腰を下ろして寝転がった。

「あらお兄さん、服が汚れますよ」

「貴方がそれを言うのですか。……いいんですよ、汚れるのを躊躇うような高級な服ではありませんから」

少女の纏う独特の空気に毒されているという自覚はあった。しかしどうしても抗えなかったのだ。
彼女は不思議そうに首を傾げたが、やがて納得したように頷いて、落ち葉の上で大きく伸びをした。
それじゃあ一緒に焼き芋になりましょうか、だなんて、楽しそうに言う。それは嫌ですね、と間髪入れずに返せば、笑い声と共に落ち葉が降ってきた。

「ほら、アポロさん、赤い雨!」

真っ赤な落ち葉を両手で掬い、アポロの頭上に降らせながら、少女は屈託なく笑う。
アポロも笑い、負けじと落ち葉を掬い上げた。この雨は当分止みそうにない。

2014.10.10

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