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「刑期の3分の1を過ぎると、仮釈放審査の対象になります。刑務所での素行がいい場合はその時点で外に出られるんですよ。それにしても、こんなにいきなりだとは私も思っていませんでした」
簡単にそう説明しながら、クリスはポケットからモンスターボールを取り出し、投げた。
彼女のパートナーであるメガニウムが出てくるのだとばかり思っていたアポロは、現れた美しいポケモンに唖然とする。
「……スイクン、ですか」
「私もコトネみたいに、ジョウトやカントーを旅していたんですよ。この子とはその途中で出会いました」
この少女の実力はアポロも把握していたつもりだったが、よもや伝説と呼ばれるポケモンまでも従えているとは思わなかった。
此処からワカバタウンまで距離がありますから、この子に連れて行ってもらいましょう。そう言ってひょいとスイクンの背中に飛び乗り、アポロに手を差し伸べる。
怖くありませんよ、だなんて言うものだから、思わずアポロは吹き出してしまった。
「これまでに散々、悪事を働いてきた私が、いくらスイクンとはいえ、ポケモンに怯むとでも思ったのですか?」
「あら、スイクンを甘く見ない方がいいですよ」
その言葉の意味を、アポロはその冷たい背中にまたがった瞬間に知ることになる。
物凄いスピードで道なき道を駆け出したスイクンに、アポロは声すらあげる暇もなく息を飲むことになった。
北風の化身とされるこのポケモンは、風などよりも遥かに速くこの地を駆けるらしい。
そのあまりのスピードに息ができなくなる。前に居るクリスを窺うと、彼女は長年の付き合いで慣れきっているらしく、呑気にスイクンと会話を楽しんでいた。
「……」
ああ、おかしい。
どうして自分はこんな少女と出会ってしまったのだろう。アポロは幾度となく繰り返してきた疑問を、この場においても改めて抱くことになった。
しかしそれは、邂逅を恨む気持ちや後悔などから発せられるものではなかった。そうした罪は彼女に引き取られてしまったからだ。
つまるところ、アポロは自分に絡みついた全ての境遇を受け入れ始めていた。
この奔放でマイペースな少女の戯言すら、受け止める準備が出来ていたのだ。
「スイクン、ありがとう。もういいよ」
彼女のその言葉にスイクンは減速し、静かに止まった。目の前には切り立った崖と、その下には広大な海が広がっている。
スイクンをボールに戻した少女は、それをワンピースのポケットに仕舞い、代わりに持っていた鞄から2つの小さな鈴を取り出した。
「……それは?」
「こっちが海鳴の鈴、こっちが透明な鈴です。お友達を呼ぶ時には、この鈴を鳴らして合図を送るんです」
そう説明されたが、アポロにはどちらも同じような、薄い青が入った銀色の鈴にしか見えない。
透明な鈴の方は、少しだけ中身が透けているような気がしないでもないが……。
アポロが難しい顔をしていると、クリスは海鳴の鈴の方を右手に掲げ、小刻みに振って鳴らした。
リン、リン……。
風が鈴の音色を海へと運ぶ。クリスは鈴を規則的に慣らし続ける。それは時計の針の音にも、心臓の鼓動にも似ていた。
暫くして一際強い風が吹くと、爆発するような音と共に波が湧き上がる。少し時間を置いて、その大きな波を見届けると、代わりに海には一匹のポケモンが現れていた。
「この子にワカバタウンまで送ってもらいましょう。アポロさん、高いところは大丈夫ですか?」
「いや、あの、それは大丈夫ですが、このポケモンは……」
このポケモンが、彼女の「お友達」なのだろうか。
白と青の美しい姿にアポロはただただ沈黙するしかなかった。
ジョウトに伝わる2匹の伝説ポケモン、その存在は知っていたが、実在するなんて思ってもみなかった。ましてやそのうちの一匹と、こうして顔を合わせることになる、なんて。
「……クリス、もう一つの鈴は、もしかして、」
「お察しの通り、海鳴がルギアを呼ぶ鈴で、透明がホウオウを呼ぶ鈴です。綺麗でしょう?」
綺麗。彼女らしい形容にアポロは声を上げて笑った。突然笑い出したことに少女は驚いたようだったが、やがて「変なの」と言いながら釣られたように肩を震わせ始める。
そうだ、この少女はそういう人間なのだ。
アポロのような凡人では計り知れない、トレーナーとしての実力や努力する才能を有しながら、それを何ら特別なことではないかのように操り、独特の感性でそれを楽しむのだ。
とんでもない人間と出会ってしまった。それがおかしくてアポロは笑った。
しかしそんな彼女と比べて、自分を卑下する気は更々ないのだ。
彼女と互角に渡り合える人間の方が少ないであろうことをアポロは知っていたし、何よりそんなことを口に出せば彼女はまた怒るだろう。
「私の好きな人を蔑まないで」と。
そんな彼女がアポロの「裁けない罪」を引き取り、アポロが「裁かれた罪」を償い終えた今、この状況を楽しむことをアポロは躊躇わない。
共有される筈のなかった二人の世界が、ようやく同じ場所に現れたのだ。アポロはようやく、差し伸べられた少女の手を取ることを赦されたのだ。
「さあ、先ずは私の家でご飯を食べましょう。シルバー君がシチューを作ってくれているそうですよ」
「……坊ちゃんが料理を?どうして、」
「私の母が教えたみたいです。彼、とっても器用なんですよ。楽しみにしていてくださいね。
ランスさん達もアポロさんに会いたがっていましたから、そちらには明日、一緒に行きましょうか」
「また、ルギアに来てもらうのですか?」
「あれ、乗り心地がお気に召しませんか?それなら明日はホウオウに来てもらいましょうか」
そんな遣り取りを交わしながら、二人はあまりのおかしさに肩を震わせて笑い続けた。
何がそんなにも楽しいのだろう?何がそんなにも嬉しいのだろう?
解らない、とアポロは思った。楽しいことを、嬉しいことを見つけられないということではない。寧ろその逆で、それらがあり過ぎて明言できないのだ。
外の世界へといきなり放り出され、不安と喪失感に押し潰されそうだった自分の目を笑顔で塞いだ、そんな少女の存在が嬉しかったのかもしれない。
自分が幸せになる権利がある、などという言葉を贈られたのは生まれてこの方初めてで、それが新鮮な喜びを抱かせたのかもしれない。
あるいは、もう二度と以前のように時間を共有することが叶わないだろうと思っていた彼女と、当たり前のように笑い合っていることに幸福感を噛みしめているのかもしれない。
なんてことのないような顔をして、スイクンやルギアの背中に乗る少女の実力が測り知れなくて、おかしいのかもしれない。
そんな、天が二物も三物も与えたような少女が自分に手を伸べていることが信じられないのかもしれない。
あるいはその、全てかもしれない。
「アポロさん、何がしたいですか?」
「何が……?」
「さっき私が言ったのは全て、貴方を望む人達の予定です。でも、決めるのはアポロさんです。
アポロさん、貴方は今、どうしたいですか?」
クリスは自分と同じ青い髪を風に揺らしながら、そんなことをアポロに尋ねる。
アポロは迷うことなく肩を竦めて笑った。
「私を望む人がいるなら、先ずはそれに応えたいですね。随分と、待たせてしまいましたから」
そうしたい、と思ったことを直ぐに口に出すには、アポロは大人になり過ぎていた。そして、自らを世界の中心に据えることを、彼は長い間忘れていた。
自分を求めてくれる人に応えることが、自分の存在意義だと錯覚している。勿論、それも世界の一つの側面ではあるのだが、クリスが此処で問うたのはそちらではなかった。
「その後は?」
故に少女は食い下がる。
他の誰でもない、貴方が求めることは何ですかと、彼と同じ青い目が真っ直ぐに問うている。
「……では、貴方と紅葉狩りにでも行きましょうか、クリス」
長い空白の故にようやく紡がれたその言葉に、少女は虚を突かれたように黙り込み、そして小さく、けれどとても嬉しそうに笑った。
「あれ、おかしいな。それは私がしたいと思っていたことですよ」
そしてようやく、二人の青は共有される。
2014.10.19