青の共有

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クリスは机にペタリと倒れ込み、大きな溜め息を吐いた。

「ドロドロの色恋沙汰を神聖な法律の場に持ち込まれると、気が滅入ってしまいます……」

「おやおや、貴方が弱音を吐くなんて珍しいですね。いつもの奔放でマイペースな貴方はどうしました」

「それはプライベートでの私でしょう?お仕事中はそれなりにしっかりしています。……でも、ずっとしっかりしているのって、大変じゃないですか」

「それに関しては否定しませんが、……しかし、わざわざ刑務所にまでやって来て私に聞かせる話が仕事の愚痴とは」

その言葉に、少女はむくりと顔をあげて、途端に上機嫌になる。

「ふふ、でもアポロさんはそう言いながら、ちゃんと聞いてくれるんですよね」

鼻歌でも歌い出しそうな笑顔でクリスは紡ぎ、アポロはやれやれと溜め息を吐いて苦笑する。
彼女はアポロの服役中も、頻繁にこの場所を訪れていた。仕事上、控訴裁判の打合せなどで顔を出すこともしばしばあるようだったが、そんな日でも一番にアポロの所へとやって来るのだった。
「迎えに来る」という言葉の性質上、暫くは会うこともないだろうと覚悟していただけに、服役初日に面会に呼ばれた瞬間のアポロの動揺は凄まじいものだった。

『だって3年も会えないなんて、寂しいじゃないですか。それに、こうして顔を見せておかないと、アポロさん、私のことを忘れてしまうかもしれないでしょう?』

きょとんとした顔で、何がおかしいのかといった風に首を傾げて紡いだ彼女に、アポロは引きつった笑みを浮かべることしかできなかった。
この奔放でマイペースな少女は、アポロの予想できない行動を取り、アポロには考えもつかない言葉を紡いで笑うのだ。
少女と重ねた時間の中で、アポロはそれを嫌という程によく知っていた筈なのに、ここ最近の慌ただしさで忘れてしまっていたらしい。
彼女らしい、と言ってしまえばそれまでだが、しかしアポロはそんな彼女「らしさ」が嫌いではなかった。

クリスは短い面会時間の中で、実に沢山のことを話した。
季節が一つ変わる度に、その様子を嬉々として、アポロに逐一報告する。
水溜まりに薄く氷が張っていたこと、ヒビキという弟が窓ガラスに指で芸術的な落書きをしたこと、ワカバタウンに雪が降ったこと、小さな雪だるまをコトネと作ったこと。

彼女の妹であるコトネは、あれからジョウト地方とカントー地方のジムを全て制覇し、16個のバッジを所持したという。
相棒のチコリータを進化させないのは彼女の拘りなのかと思っていたが、どうやらチコリータの方が進化を拒んでいるようだ。
あのチコリータは、クリスのメガニウムを育て屋に預けて見つかったタマゴから孵ったらしい。
「甘えんぼうさんだから、きっとコトネの頭の上に乗っていたいのかもしれないですね」と、クリスは嬉しそうに笑った。

ランス、ラムダ、アテナも同様に裁判を経て、それぞれ懲役刑に処されている。
彼等は1年余りで刑期を終え、再び3人で集まり小さな会社を立ち上げているらしい。
クリスは彼等の元にも顔を出しているようで、「皆、アポロさんが出てくるのを待っていますよ」と報告してくれた。

彼女の口からサカキの実子であるシルバーの名前が出た時には、流石にアポロも声をあげて驚いた。
コトネと同い年である彼は、彼女と接触を持ち、長い旅路の末に意気投合したらしい。
どういう経緯なのかは彼女も知らないと言っていたが、今ではコトネの家に居候している形となっているようだ。
3年前に行方を眩ませた父親を憎んでいた彼を、アポロを含めた幹部達は世話していたが、彼も同様にある日突然行方を眩ませていた。
無事でいてくれたことへの安堵は相当なもので、「あれ、どうしてアポロさんがそんなに嬉しそうな顔をするんですか?」とクリスに尋ねられる程であった。

クリスはその後も弁護士として活躍している。
先程の話にあったような、夫婦間のいざこざを解消する為に奔走したり、また新しい刑事訴訟を引き受けたりしているらしい。
その度に彼女のストレスのはけ口にされているような気がしないでもないアポロであったが、彼女の荷物を引き取っているようにも感じられ、嫌な気分はしなかった。

刑務所での生活は驚く程に単調で、時の流れを感じさせない。酷く穏やかで、退屈で、現実味がない。恐ろしい場所だと思った。
クリスの報告が、アポロの世界の時間を進めていた。外の世界の変化を又聞きすることで、アポロは時間の流れを感じることができたのだ。

そして、そんな生活が続いて1年が経った頃、アポロの元に呼び出しが掛かった。



「もう会わないことを願っていますよ」

世話になった職員の声がアポロの背中に投げ掛けられる。門が閉まる大きな音がする。
ぱちぱちと不自然な瞬きを繰り返したアポロは、大きく息を吸い込んで、吐いた。

「……」

聞いていない。
真っ先に湧き上がったのはそんな感情だった。
確かにクリスも「3年というのは満期の場合です。アポロさんなら1年くらいで出られますよ」とは言っていたが、まさかこんなにもいきなりだとは。
3年の懲役刑が科された自分が、何故1年余りでその刑を解かれることになったのか。
その疑問に、いつもの笑顔で答えてくれる筈の彼女の姿が、今はない。アポロはそのことを苛立たしく感じた。

ジョウトの外れに構えられたこの刑務所の存在をアポロは知っていたが、この辺りの地理には詳しくない。事実、刑罰を受けてから初めてこの地を踏んだのだ。
いきなり外の世界に放り出されたアポロは狼狽える。どうすればいいのだろう。自分は何処に向かえばいいのだろう。
ロケット団は解散した。自分を必要とする組織はもう存在しないし、彼の帰る場所はもう用意されていない。

こんな世界で、どうやって生きろというのだろう。

アポロは幼かった頃の自分を思い出して苦笑した。世界の理不尽に蝕まれ、誰からも必要とされない自分に嫌気が差していた時期が確かにあったのだ。
あの組織が、そんな自分に意味をくれた。不正を働かれ、理不尽を突き付けられる側であったアポロは、ロケット団という居場所を見つけることで不正を働く側に回った。
そして、不正の償いを終えてしまった自分に、もう一度不正を働いて生きるという選択肢は残されていない。

自分の人生が袋小路になっていることに気付いたアポロは愕然とした。
しかしそれは本当に一瞬だった。悲壮感溢れるアポロの目を、背後から誰かが塞いだからだ。

「どうしたの、アポロさん。折角外に出られたのに、そんな悲しそうな顔をしないで」

クスクスとアポロの後ろで笑いながら、クリスはそんなことを言った。
相変わらずですね。そう言って呆れたように笑おうとしたアポロは、しかしその語尾が震えていることに気付き、慌てて口を塞ぐ。
ぱっと手を放したクリスは、そんな彼の異変に気付いたらしい。俯いた彼の顔の下に回り込み、徐にアポロを見上げる。青い目が彼を映していた。

「困りましたね」

「……どうして?」

「自由が、こんなにも人を不安にさせるものだったとは知りませんでした」

自分の罪を償うことに必死だったアポロは、今のこの自由な身を持て余していたのだ。

クリスは沈黙した。職業柄、釈放された人間のこうした喪失感を彼女は幾度も見てきていたのだ。
彼等に新しい道を示すことは彼女の仕事ではなかった。いつまでも自分が彼等を助けてあげられる訳ではないからだ。
故に最低限の言葉を掛け、彼等がこの世界に順応していけることを願うしかなかったのだ。

しかし、今回は違う。少女は躊躇わない。
弁護士としてではなく、彼を大切に想う一人の人間として、彼にしてあげられることが山程あるのだ。誰が彼女を止めることができただろう。

「違います、アポロさん」

クリスは両手でアポロの肩を掴んだ。そのあまりの力にアポロは驚く。

「自由って、とても素敵なことなんです。貴方は自由を手にする権利を手に入れました。それはとても幸せなことです。そして、貴方はこれからもっと幸せになるんですよ」

「……」

「アポロさん、貴方は赦されたんです。もう幸せになってもいいんですよ」

この人だけは、どうしても見放す訳にはいかなかったのだ。
全てを救うことなどできないと弁えていた少女が、しかしどうしてもこの人だけはと欲張ったのだ。
少女は躊躇わない。彼は拒まない。

2014.10.19

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