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その日の朝、クリスの姿がなかった。
テーブルの上に用意された、いつもよりも簡素な朝食は3人分で、端からあの女性はこの席に着かないものとみなされていた。
「こんなに朝早くから仕事ですか?」と尋ねるフラダリに、コーヒーを注いでいたアポロは困ったように笑いながら頷いた。
「今日の始発で出かけましたよ。貴方が此処へ来る時に使った線路を、彼女は今頃逆走している筈です」
「……まさか、カロスに?」
「ええ、久し振りに大きな仕事がやって来たとはしゃいでいましたよ。何せ今回は人ではなく、もっと大きなものを相手にするようですから」
人ではない、もっと大きなもの。
カロスにそのようなものがあるとは思えなかったが、フラダリはそれ以上の追及をしなかった。
アポロもそれ以上の説明をすることなく、湯気の立つマグカップをフラダリに渡した。
彼の顔色を窺うように目を細めるフラダリの姿を見て、彼はクスクスと楽しそうに喉を震わせた。
小さく揺れる肩やふわりと上がる頬は、あまりにもクリスのそれに似ていた。
「そう身構えないでください。私にはクリスのような力はないし、あの少女のような運命も背負っていません。貴方よりもずっと平凡な、ただの人間ですよ」
ええ解っています、と告げることも、安心しましたと微笑むことも失礼に当たるように思われて、フラダリは眉を下げて静かに笑った。
『貴方だって毎日、遅くまで立派に仕事をこなしているでしょう。』そうした、気の利いた言葉が出てこない自分がいよいよおかしいものに思われてならなかった。
けれど気の利いた言葉を紡がずとも、アポロは人の良さそうな笑みを浮かべるばかりであったから、ああ、上擦った言葉はこの男には不要なのだとフラダリは判断した。
そう認めれば、かなり気が楽になったのだ。
「それにしても、クリスはどうしてこういった類の人間ばかりに肩入れしたがるのでしょうね。後々、苦労することになるのは自分であると、賢い彼女は解っている筈なのに」
「やはり貴方も、わたしがカロスで何をしたか知っているのですね」
「職業柄、そうしたニュースは注意して見るようにしていますから」
自分のことを知られる感覚というのは、フラダリにとって馴染みのありすぎるものであった。
けれど「フラダリを知っている人間」は、あの少女のように畏縮し、丁寧な言葉を使い、少しばかりの緊張の心地をもって口を開くのが普通であった。
「貴方達のような方に彼女が構うのは、何も今回に限ったことではありません。
彼女は日陰にいたことがないにもかかわらず、何故か日陰の寒さを知っている。だからつい、手を伸べてしまうのでしょう。自分のいる日向へと、招きたくなってしまうのでしょう」
故にアポロの、口調こそ丁寧であるものの、友人と顔を合わせているかのような、緊張も畏怖も滲ませずに淡々と言葉を紡ぐその態度が、
彼の目にとても新鮮なものとして映ったのは、至極当然のことであったのだろう。
フラダリとて恣意的に他者を威圧していた訳では決してなかったが、数え切れない程の出会いと星の数程の対話を重ねてきた彼は、
自分に対する他者の態度がそうした、こちらに対する畏怖を露わにしたものであることを認めざるを得なくなっていた。
畏れられ、慕われ、崇められ、緊張の心地でおずおずと口を開く。そうした人間を彼はあまりにも多く見てきた。
丁寧な言葉を使い、臆病で卑屈で、「おそれ」を露わにする存在は、何もあの少女に限ったことではない。
フラダリは彼女が彼女であったから想ったのであって、彼女の「何か」だけを拾い上げて愛そうなどということは思っていない。そうした器用な選り好みをするつもりなど、更々ない。
「貴方には確かな幸福があります。それはシェリー、あの少女がいることです」
そんなフラダリの心を読んだかのように、アポロは最上のタイミングでその少女の名前を出す。
フラダリはひどく驚いたが、アポロはそれに気付いていない。何故なら彼はトースターに2枚のパンを差し入れて、3分に設定するという動作を行わなければならなかったからだ。
彼にとって、フラダリの顔色を窺うことよりも、トーストに綺麗な焦げ目を作ることの方が遥かに重要であったのだ。そうした、ささやかな言葉だったのだ。
けれど、トースターが熱を持ち始める間、手持ち無沙汰となった彼はいよいよフラダリに向き直る。
まるで数年来の友人を前にしたような穏やかな笑みを浮かべるこの男を、しかしフラダリは恐ろしいとは思わなかった。
「貴方もいつか、きっと彼女を置いていかなければならなくなる。
このまま逃げ続けることをよしとしないのであれば、……そして何より彼女を大切に思っているのであるならば、その日はいつか必ず訪れることになる」
淡々と、日記を読むように男は語る。まるで初めからその言葉を用意していたかのように、抑揚の少ない音を規則正しく奏でて目を伏せる。
「貴方も置いていかなければならない」という発言は、果たして彼の仕事上、出会うことの多いそうした立場の人間を踏まえたものであったのか、
それとも、彼自身の体験であったのか、まだ彼のことをあまり知らないフラダリには判別する術がない。
だから、彼の朗読じみた言葉を遮らないように、息を飲んで沈黙することしかできない。
マグカップの湯気が弱まり始めている。トースターはまだ鳴らない。
「ですがもう少し待ってあげた方がいいでしょう。貴方はもう大丈夫なのかもしれませんが、あの子にはまだ貴方が必要なようですから。……どうか、急ぎすぎないように」
「ええ、解っています」
短く相槌を打てば、彼は顔を上げて「よかった」と安堵の息を吐きつつ笑った。
彼のその笑みを合図とするかのように、トースターがチン、と音を立てて2枚のトーストを弾き出した。
彼はもしかしたらこの時を、あの完璧な女性では紡ぎ得ないことを語る機会を、ずっと待っていたのかもしれなかった。
クリスが仕事で席を外すこの朝、かつあの少女がまだリビングへと下りてこないこの時間。
そのために用意された、カフェイン入りのコーヒーであり、そのために予め用意された言葉であったのかもしれなかった。
台本のように淡々と紡いでいたその全ては、本当に台本であったのかもしれなかった。
「焦りは何も生まないどころか、多くの人の何もかもを奪っていきますからね。
……誰にも何も告げることなく忽然と姿を消した男を想い過ぎて、記憶を眩ませ時を忘れた面白い女の子の話をしましょうか?」
その女の子というのが他でもない、少女が大声で「大嫌い」と拒んだ「シア」であるのだと、フラダリはまだ知らなかった。
けれど知らないなりに、彼が、過去の仕事で出会った人間の歴史を、この場で笑い話に変えようとしているのだと、そうした趣旨のことは彼にも合点がいったのだ。
だから彼は困ったように笑いながら、やわらかくその発言を咎めるための言葉を選んだ。
「おや、貴方は誠実で純朴な人だと思っていたのですが、そのような悪い冗談も口にするのですね」
トーストを取り上げたアポロの手がぴたり、と止まる。怪訝そうな顔をするフラダリの前で、彼はおかしくて堪らない、といった具合に声を上げて笑い始める。
取り落としたトーストが、まだ熱を持つトースターの中へと戻っていく。
それを代わりに取り上げて「どうかしましたか?」と促せば、彼はその笑顔を収めないままに、三日月形の口を愉快そうに開く。
「フレア団とフラダリラボ、二つの大きすぎる組織を束ねていた貴方が、こんなにも愚鈍な方だとは思わなかった!」
「愚鈍、ですか?そんなことを言われたのは初めてです」
「いいえ愚鈍だ、そうに決まっています。私のような純粋な人間でなければクリスの傍にはいられない、なんて、そんなことを思っているのでしょう?」
違ったのだろうか、という懸念の色が顔に出ていたのだろう、彼は至極楽しそうに眉を上げて「ほら」と、ささやかな勘が当たったことに喜びを露わにする。
己の予想と悉く異なる表情を浮かべ、悉く異質な言葉を奏でるこの男を、しかしフラダリは恐れない。彼はまだ人間の様相を呈しているからだ。
穏やかな様子しか今まで見ることの叶わなかった彼が今、少年のように屈託のない笑みを湛えていることは、やはり人間らしいことなのではないかと思えてしまったからだ。
アポロの幼さには人間が見える。クリスの幼さには人間が見えない。
「残念ですがその逆ですよ、私は貴方よりもずっと悪い大人だ。私のように性根の曲がった人間でなければ、彼女のパートナーなど務まりません。
……それに、私が悪い大人でなければ、きっと彼女には出会えなかった」
『いいえ、残念ながら少し違うんです。私は縁を読むことはできないから。』
あの女性の言葉がフラダリの脳裏を掠めた。
人間らしさの全てを何処かに置き捨ててきたような彼女の、唯一、人間らしいその言葉は、彼女のみならず、この男の指針でもあったのだろう。
「ではわたしの確かな幸福は、シェリーに出会えたことだったのでしょう」
「おや、おかしいですね、それは私が言おうとしていたことだったのですが」
階段を下りる足音が聞こえてきた。先に振り返ったフラダリが朝の挨拶を告げれば、彼女は僅かに顔を赤くしてふわりと笑った。
2014.11.13