私がその時、どのような顔をしていたのか確かめる術はないが、きっとさぞかし間の抜けた顔をしていたのだろう。私を一瞥した彼は小さく吹き出す。
「どうしました。そんなに驚くことですか?」
「だ、だって、これを……」
もう青い水が完全に落ちて、底に溜まっているそのオイル時計を指差す。
彼がそんなことを思っていたのなら、この素敵な時計は用意されていなかった筈なのだ。
このオイル時計は、私が再び此処へやって来ることを想定して買われたものだと思っていたからだ。
残念ながら、当時の私にはそれは「矛盾」でしかなかった。
私がもう此処に来ないと思っていた。にもかかわらず、彼はこの時計を買ってきてくれた。その2つが上手く繋がらない。理解ができない。
「解説をしましょうか?」
「!」
私は納得がいかないその気持ちを、そのまま顔に表していたらしい。もう一度紅茶に口を付けた彼は、右ひじをテーブルに乗せ、その手の甲を顎に添えて笑う。
「貴方はとても楽しそうにわたしの話を聞いてくれますし、時折、わたしが思い付かないような、とても鋭い発言をします。
わたしは、そんな貴方との時間が嫌いではありませんでした。あの雨の中、出くわした偶然に感謝したくなる程には」
私はその言葉にそっと相槌を打った。
彼がこうして、自分のことを話すことは本当に少なかったからだ。それもこちらから聞かなければ、彼は決して話さない。
私の質問には誠実に答えてくれるし、私の知らないことを沢山、教えてくれるけれど、彼はそこに自分自身を含めない。
そんな彼が、自分の思いを口にするその理由を、私はまだ掴みかねていた。だから静かに頷いて、次の言葉を待った。
「しかし、わたしは基本的に、人間を信用していません」
「!」
「人間は総じて気紛れです。わたしも、貴方も。
わたしと貴方は知り合ってまだ間もない。そんな人間の気紛れに、振り回されるのは御免だと、そう思っていました」
私は彼の言葉が信じられなかった。
人間を信用していないと笑った彼の言葉が嘘であるようにはとても思えなかったが、それと同じくらい、嘘であってほしいと思う気持ちも強く根付いていた。
そして、私が彼に対してずっと抱いていた認識は、幻想であったのかもしれないという思いが新たに芽吹き始めていた。
彼が私を子供扱いしないのは、私を一人の人間として扱ってくれているからだと思っていた。
子供は一様にして飽きっぽい。熱しやすく冷めやすい。そうしたいい加減な振る舞いが許されるのが子供だと、大人達は認識している。
そうしたいい加減な子供に対して、誠実にならなければいけない理由を彼等は持たない。だから嘘を吐く。誤魔化す、軽くあしらう、中途半端な約束をよくする。
だから私は、大人を信用しないことにしていたのだ。子供はそういうものだと決めつけて、簡単に私の主体性と希望と自尊心を奪っていく大人のことが大嫌いだった。
彼のことも最初は信じられなかった。しかし彼はどこまでも誠実だった。だから私は、彼に対して誠実であろうとする一方で、彼を知りたいと思い始めていた。
しかし、彼はそうではなかったのだ。彼は私を信用してくれてはいなかったのだ。
しかもそれは、私が子供だったからではない。私が、人間だったからだ。
私が予想していたよりもずっと大きな壁が、私と彼とを隔てていたことを、私はようやく知る。
愕然として言葉を失う私に、彼は困ったように笑った。
つまりはそういうことだったのだ。
彼が私に、双方に利益のあるウィンウィンの交渉を持ちかけてきたのは、私という人間を尊重してくれていたからではなく、一方向の利益に彼が意味を見いだせなかったからで、
彼がどこまでも私に誠実であろうとしてくれたのは、そう在りたいと思ったのではなく、彼自身が嫌う、気紛れな人間になりたくはなかったからで、
あの時「待つのは止しなさい」と言ったのは、待つという行為に対しての助言ではなく、そんなにも簡単に人間を信用してはいけないよ、という私への警告だったのであって、つまり、
私は信じられていなかったのだ。
「貴方が嫌いなのではありません。わたしは人間が嫌いなのです」
それは私の「大人が嫌い」だとするそれよりも、もっと大きくて、深い拒絶の言葉だった。
私はそれを噛み締め、沈黙し、込み上げてくる何かを必死に抑えていた。
「……」
しかし、そうだとすると、益々納得がいかない。
信用していない人間の為に、どうして彼はここまでしてくれたのだろう。嫌いな人間である私の前に、どうしてあの日、傘を差しだしてくれたのだろう。
それだけの深い拒絶を示しておきながら、どうして彼はこんなにも優しく笑えるのだろう。
「しかし、わたしは貴方が此処に来てくれることを、心の何処かで望んでいたのでしょうね」
その、思いもよらない発言に、私は目を見開いた。金色の目がそっと伏せられる。
「全てに敵意を向けて生き続けることは、途方もないエネルギーを消費します。ですからわたしはそうした、敵意を向けるべき対象において、無関心を貫いていたつもりです。
貴方と関わることになったのは本当に偶然です。……ただ、自分から人と関わったことが随分と久し振りでしたから、少々、はしゃぎすぎてしまったのかもしれません」
「……」
「ですが、わたしはあくまでも、貴方を信用しないようにしていました。
しかし貴方は何処までも誠実だった。わたしと交わした約束を全て忠実に守り、どういう訳か、わたしを慕った。
……そして、貴方はまた、わたしとの約束を守り、此処に来た」
そして彼は顔を上げ、とても悲しそうに微笑む。
「どうして、来てしまったのですか」
私は、その金色の目から目が逸らせなかった。
雨はまだ、降り続いていた。
そしてようやく、私は理解する。
彼が何故、人間を信用していないのかは解らない。しかし、その思いが揺れていることは解った。
私への矛盾した思いは、きっとそれを表していたのだ。彼は私を信用するまいと思いつつ、私が約束を誠実に守ることを何処かで期待していた。
だからこそ、この小さな美しい時計が此処に在るのであり、つまるところ、私はそれに応えなければならなかった。
私が此処へ来たのは、私が彼に会いたかったからだ。だから私は、そのままを紡いで笑うことにした。
「知りたいからです」
応えなければ、と思った。
私が大人を信じることができないのと同じ寂しさを、……もしかしたらそれよりももっと大きな寂しさを、私が彼に与えていい筈がない。
彼が取り払ってくれた、私の大人に対する不信よりも、ずっと大きな人間への不信を、私が誠実を貫くことで彼から取り払えるのだとしたら。
私にもう一度芽吹かせてくれた主体性と希望と自尊心とを、それには及ばないかもしれないけれど、きっとそれに限りなく近いものを、私が彼に差し出せるのだとしたら。
「貴方が嫌う人間のこと、貴方が夢中になる研究のこと、この広い世界の厳しさのこと、……貴方のことも」
私は、その一歩を躊躇わない。
彼の傍でなら、見つかる気がしたのだ。
私の目からでは「矛盾」にしか見えない言動を解説する、その難解な言葉を、しかし理解させてくれるように操る彼の傍でなら。
私の目線にわざわざ降りることなく、自分の感じたままを紡いでくれる彼の隣でなら。
この白い手の温度を、感じていられる距離でなら。
上手く言い表せない自分の言葉の拙さに辟易しそうになった。
違う。私の中で渦を巻く感情や、伝えたいことはもっと沢山あるのに、それを的確に表現し得るだけの言葉を私はまだ、持たない。
もどかしさに泣き出しそうになった私は、しかしコトン、と彼がカップを置く音で我に返る。
「とても、美味しかったですよ」
カップを空にした彼は、私の頭にそっと触れる。
「こんなに美味しい紅茶は初めてです。……また、お願いしますね」
その笑顔と、次を交わした約束で、私が許されたことを感じた。彼も待っていてくれたのだと悟った。
私は、此処に居てもいいらしい。心中でそんな結論をなぞれば、また言いようのない思いは強くなる。
この思いを表現する言葉を、私はまだ、知らない。
2014.11.13
ピアンジェンド 悲しげに