5 decescebdo

私はその日、彼の蔵書の整理を手伝った。
手渡される本はどれも分厚く、そのタイトルですら私には意味が解らないものばかりだった。
時折、適当に本を選んで中身を見たこともあったが、1ページにつき2段に段組みされているものが殆どで、細かい図が随所に散りばめられていた。
グラフと言えば直線の正比例と、緩やかなカーブを描いた反比例のものくらいしか知らなかった私は、絵を描いているような複雑なグラフに夢中になった。

次の日からも、私は毎日のように彼のプレハブ小屋へと通った。
彼は私に、本当に色々なことを教えてくれた。
沢山の本の中からとっておきの一冊を引き抜いて、あるいは彼の愛用している折り畳み式のタブレットに図を描いて、あらゆることを説明してくれた。
ハートの形や、渦巻きの形をしたグラフのこと。本に書かれた難しい言葉のこと。部屋にある、何に使うのかよく分からなかった実験器具のこと。
彼は私に対して、過剰に言葉を噛み砕くことはしない。易しい単語を選ぶことをしない彼の説明を、私は全て理解できる訳ではなかった。
しかし、その都度「それはどういう意味ですか?」と尋ねる私に、彼は嫌な顔をするどころか、寧ろ嬉々としてその質問に答えてくれた。

この時間はやはり、どう考えても私ばかりが得をしているような気がした。
こんなにも無知で拙い私の言葉が、彼の研究の助けになるのだろうかと、私は頻繁に疑った。

しかし彼は時折、私の質問に驚いた顔をする。そして決まってこう尋ねるのだ。

「何故、貴方はそう考えたのですか?」

彼の目はいつだって真剣で、私の拙い言葉を、馬鹿にすることなく逐一拾い上げてくれる。
幼い子供、半人前としてではなく、一人の人間として扱われる彼との時間は、私の奪われた主体性や希望や自尊心を再び芽吹かせた。

そうした時間の終わりには、必ず、彼が紅茶を入れてくれることを私は知っていた。
彼は毎日、香りの異なる茶葉を用意してくれた。
私はそれらのとても素敵な強い芳香に感動し、砂糖を一つ落としただけで果物の味がするという脳の錯覚にはしゃぎ、決まって「美味しいです」と紡いで笑った。
彼はそんな慌ただしい私の一部始終を、楽しそうに見ながら、相槌を打ってくれた。

彼の入れてくれる紅茶は、リンゴ、マスカット、メロン、ライチといった、果物の香りのするものが殆どだった。
果物が好きなのかと尋ねたことがあったが、彼は首を傾げて微笑んでみせた。

「いいえ、貴方が好きだと思って」

「!」

「角砂糖を入れれば、ホットジュースのようになるでしょう?」

私はあれからも、結局、角砂糖なしで紅茶を飲めずにいた。
彼はそんな私の為に、角砂糖がたっぷり詰まった大きな袋を買ってきており、それをあの白い陶器に移し替えてくれていたのだ。
私は彼の配慮に感謝しつつ、子供扱いされているのかもいれないという疑念を少しだけ抱き、……しかし直ぐに、それは杞憂だったと思い直した。
何故なら彼は私の為に、角砂糖を用意してくれたからだ。

子供なら間違いなく飲めるであろうオレンジジュースやミックスオレではなく、紅茶を一緒に飲むために、わざわざ角砂糖を買ってきてくれた。
その意味を、私は正しく理解しなければいけなかった。
私が彼との紅茶の時間を楽しんでいるように、もしかしたら彼も、この時間を楽しいと思ってくれているのかもしれないと、少しだけ思えたのだ。

その紅茶を飲んでいる時間は、他愛もない話をぽつりぽつりと続けていた。その中で以前、「アクロマさんは何処から引っ越してきたんですか?」と尋ねたことがある。
一軒のプレハブ小屋が突如としてヒオウギシティの外れに現れた時、大人達が「どんな人が引っ越してきたのかしら」と噂話をしていたことを私は知っていた。
どんな人が住んでいるのだろうと気にはなっていたが、まさかこんな形でその当人と関わることになるとは微塵も思っていなかった。
前に住んでいた土地はどんなところだったのだろう。何故、この土地に引っ越してきたのだろう。そんな疑問が頭を過ぎり、私は質問を投げていたのだ。
すると彼は何がおかしいのか、突如として声をあげて笑い始めた。

シアさん。このプレハブ小屋はわたしの研究施設です。言うなれば仮の住まいで、本当の自宅はもう少し立派なものが別の町にあるんですよ」

「あ、す、すみません!」

このプレハブ小屋を本当の自宅だと称した私の発言は、彼を馬鹿にしたような響きを持っていたのかもしれない。
勿論、私にはそんなつもりは全くなかったのだが、彼にそう受け取られてしまったかもしれないというおそれを考慮して、私は慌てて謝罪の言葉を紡いだ。
「いいえ、気にしていませんよ」と彼は本当に気にしていないように笑ってくれたので、私も安堵の溜め息を吐いていた。

それから私は、少しずつではあるが、彼のことを知ることができた。
彼がポケモンの力を引き出すための研究をしていること。その研究に携わる過程で、生物の身体の仕組みを勉強したり、物理や化学の実験を重ねたりしたこと。
今は知り合いに頼まれ、ある研究を手伝っていること。その研究の傍ら、自分の研究課題に取り組むためにこの町にやって来たこと。

彼の話は、専門分野を語る時に限らず、そうした世間話の時でも、難しい言葉が随所に散りばめられていた。
しかし私はその難解な単語を彼に尋ねるその瞬間が好きだった。嫌な顔一つせずに、笑顔でその言葉を説明してくれる、その時間が大好きだった。


そんな時間を繰り返し、彼の住むプレハブ小屋を訪れるのが日課となりつつあったある日のこと、彼は大きな鞄に荷物をまとめ始めた。

「知り合いに呼ばれましてね、少し、向こうの仕事に行かなければならなくなったのです。一週間程で戻る予定ですので、またその時にお会いしましょう」

その時、私はどんな顔をしていたのだろう。
彼の金色が僅かに見開かれたのだけは確認したが、直ぐに俯いた。太陽を思わせるその金色の目に、みっともない顔を映したくなかったのだ。
シアさん、と名前を呼ばれ、思わず顔を上げて返事をすれば、驚きの表情と共に、少しの当惑を含んだ声音が降ってくる。

「泣きそうな顔をしていますよ」

私は羞恥と怒りに赤面する。そんなこと、言葉に出して言われなくとも解っているのだ。
デリカシーに欠けた発言に眉をひそめるが、それは私をからかうものであり、少なくとも私を甘やかすものではなかった。だから、その言葉に身を委ねられた。
「やれやれ、困った人ですね」彼はそう言って笑い、手袋を嵌めたままの白い手で私の頭をそっと撫でた。

彼は、よく笑う。
科学者に今まで私は会ったことが無かったが、私の拙い想像では、もっと不愛想で、寡黙で、研究以外のことには全く興味を示さないような、そんな科学者像を描いていたのだ。
それ故に、彼の饒舌で優しい笑顔をよく見えてくれる様子は、私の科学者に対するイメージを悉く塗り替えていったのだ。

「待っていますね」

「……わたしを?」

「はい。一週間なんて、あっという間です。『夢十夜』の人は百年待ったんですよ?」

「おやおや、聡明ですね。読書好きだと聞いていましたが、これ程とは」

彼にそうした評価を受ける、ただそれだけのことが酷く嬉しかった。
しかし彼は少しの間考え込む素振りをして、私の「待っています」という言葉を優しく咎める。

「しかし、待つのは止しなさい。「待つ」というその動作は相対的なものです。それを目的とする時間は、貴方が思う以上に緩慢だ」

相対的。緩慢。それらを拾い、私の知識で組み立てるが、どうにも上手くいかない。
彼の言葉は相変わらず難解で、そしていつも通り、美しかった。

「何か、していなさい。貴方が夢中になれること、必死に取り組めること、何だって構いません。気付けば、一週間が過ぎていますよ」

「……本当に?」

「ええ。『夢十夜』の彼も言っていたでしょう?『百年はもう来ていたんだな。』と」

有名な一節を引き取って彼は紡ぎ、笑った。
そして私達は再び、再会の約束を交わす。しかし私はもう、その約束に躊躇わない。この約束は必ず果たされることを知っているからだ。
彼は大人が持つ理不尽さで、その約束を反故にしたりしないと信じられたからだ。

「また、此処で会いましょう。いつものようにお待ちしていますよ」

そう紡いだ彼に、しかし私は気付かなかったのだ。
その「待つ」という苦しくて、緩慢なその動作を、さりげなく彼が引き取ってしまったことに。
待つのは貴方ではなく私の方だから、何も心配しなくていいと、彼の言葉にそうした意味が含まれていたことに。

だって私は、彼に比べてとても愚かで、稚拙で、幼かったのだから。


2014.11.11

デクレシェンド だんだん弱く

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