私は、きっと怖かったのだ。
いつしか絶対の信頼を寄せるようになっていた、この優しい人が、突如として別の姿を見せることを、彼がそれを示唆したあの時から、ずっと恐れていたのだ。
それはきっと、彼が私に指針を示してくれていたからだと思う。
彼が私に直接、何かをしろと命じたことはない。けれど私が旅を続ける原動力の一つには、間違いなく彼の存在があったのだ。
彼が指針を示していたのではない。彼の存在が、私の旅の指針だったのだ。
だからこそ私は、彼への信頼が私の中で失われてしまうことを恐れてしまった。
だって指針を失えば、私は何処へ向かえばいいのか解らなくなってしまうから。
けれど、きっと、何も恐れることなどなかったのだろう。
「私は、怖かったんです」
『シアさん、貴方は旅を続けて、あらゆることを知るでしょう。そして全てを知った時、きっと私を軽蔑します。
それが今は、少しだけ恐ろしい。』
彼がそれを恐ろしいと感じているように、私も、それを怖がっていたのだ。私と彼は何処までも似ている。
それは、私が「彼」という存在を捉えることができていなかったからだ。
私はプラズマ団の船に居る彼を見た瞬間、今までの「彼」が消えてしまったような錯覚に襲われていたのだ。
あのプレハブ小屋で、私の世界を広げてくれた聡明な人。誰よりも苦しみ、誰よりも傷付きながら、それでも私に傘を差しだしてくれた優しい人。
私の旅路をいつだって応援し、いつだって見守ってくれていた誠実な人。
そんな彼が、突如としていなくなってしまったような気がしたのだ。それ程に私の中で「プラズマ団」という組織への思いはうっ屈していた。
彼等のしていることを、旅先で何度も目撃するにつれて、私は彼等のことをどうしても許すことができずにいた。
そんな組織に彼が属しているという事実は、彼と積み重ねてきた時間をあっという間に崩し、なかったものにするだけの威力を持っていたのだ。
けれど、そうではなかった。彼の隠していた「もう一つの姿」が私に知られた今でも、彼はその態度を豹変させたりはしなかった。
寧ろ今までと全く同じ柔らかな笑顔で私の名前を呼び、泣き出した私に駆け寄ってその涙を拭ってくれたのだ。
彼は、何も変わっていない。だから私は、涙を零したのだ。そこには底知れぬ安堵があった。
「大学の研究機関を出たわたしが、知り合いに勧誘された組織がプラズマ団でした」
「!」
「彼等はトレーナーから奪ったポケモンを、道具として使っていました。わたしはそのポケモンを使い、研究に明け暮れていました。
その研究に煮詰まり始めていた、その時に、貴方と出会ったのです」
彼は私の目を真っ直ぐに見つめて、いつかに似た告白を始めた。
私は彼の目に宿る二つの太陽から目が逸らせなかった。
「貴方はわたしが無関心を貫いていた心の作用について触れ、わたしが思いつくことができなかった指摘をしてみせました。
ポケモンとトレーナーとの絆に注目させてくれた貴方に、わたしはタマゴを託しました。貴方が呈したその理論の証明を見届けたくなったからです。
それと同時に、わたしがプラズマ団に所属する意味はもうなくなったかに思えました。
しかし、わたしは今もこうしてこの組織に留まり続けています」
「……」
「貴方のおかげで私は、もう一度人間というものを信用してみようと思えるようになりました。
無関心という壁を排して、プラズマ団員と向き合った時に、……わたしは彼等に、昔のわたしと同じものを見てしまったのです」
彼は本当に悲しそうな顔をして、しかしそれでもその笑顔を崩さない。
彼が微笑んでくれているにもかかわらず、私は笑えなかった。しかし彼はそんな私を寧ろ受け入れるかのようにその手を伸べて、私の頭をそっと撫でるのだ。
ふわりと、甘い紅茶の香りがした。
「彼等は世間から理不尽を突き付けられ、苦しみ、悩んでいました。排された側の人間には、この組織くらいしか居場所がなかったのです。
大学で人間の醜さを目の当たりにした、あの頃の私と同じ姿がこの組織にはあったのです」
「……アクロマさん、」
「わたしは彼等を見限ることができなかった」
絞り出すようにそう紡いだ彼に私は縋り付いた。
背中にそっと手を回す、力を込めて抱き締めれば彼は驚いたように私の名前を呼んだ。
ごめんなさい、ごめんなさいとひらすら紡ぎ続ける、そんな私は彼にどのように映っているのだろう。
そこには私の、彼を最後まで信じることのできなかった自身への叱責が込められていた。
だからこそ、私は彼に「ごめんなさい」と紡いでしまったのだ。それ以外に紡げる言葉が見つからなかったのだ。
私は。ソウリュウシティでサザンドラから受け取った、彼からの手紙を思い出していた。
『シアさん、くれぐれも無理はしないでください。貴方がどういう人間か、わたしはある程度把握していたつもりです。
しかし、これから貴方の身に起こることの予測はできても、それを貴方がどう感じるかという点については、全く予測ができないし、確証もありません。
ですが、わたしは貴方の感じたままを受け入れようと思います。』
彼にはもう、私の感情を受け入れる覚悟ができていたのだ。
私の感じたままでいいのだと、彼がそう綴ったのだ。どうして私が彼の選択を拒むことができただろう?
彼はそっと私を引き離し、代わりに私の肩に手を掛けて、屈んだ。
背の高い彼を、小さな私はいつだって見上げていた。それ故に、こうして彼が私と同じ目線に降りてくれることはとても新鮮だった。
私は見上げることなく、その金色の目を真っ直ぐに見据えた。その目には私が映っていた。
「シアさん、わたしは彼等の居場所を守るために戦います。それがわたしにとっての正義です」
「……はい」
「ですから貴方は、貴方の正義をもってしてわたしと戦いなさい。
そしてわたしに、こんな酷く屈折した正義は間違っていると、どうか知らしめてください」
それは間違いなく彼の懇願だった。トウコ先輩や、Nさんの主張は正しかったのだ。
私は何度も頷いた。はい、と何とか声に出して了承の意を示した。
何も変わっていなかったのだ。彼はあの頃の優しい彼のままで、だから私は怯える必要も、恐れを抱く必要もなかったのだ。
その安堵で胸がいっぱいになっていた私は、気付かなかった。
彼を思うことでこんなにも自分の心が揺れていること。
そしてその現象は、トウコ先輩がNさんを想うそれに似ているということ。
私にとって、彼がいつの間にか「かけがえのない存在」になっていたこと。
私はもう一度、彼の目を真っ直ぐに見据えた。脳裏をあのオイル時計が掠め、私はふいに口を開いていた。
「アクロマさんの目は、太陽の色をしているんです」
「……太陽、ですか」
彼はとても驚いた様子を見せたが、しかし直ぐにクスリと笑った。
その様子は、私が彼に『貴方の目は海の色をしているんですね。』と言った、あの時の私の反応にそっくりだった。
突拍子もないたとえを私の目に宿してくれたことに驚き、そんな立派なものじゃないのに、とおかしさに笑った。
本当だ、私と彼は本当によく似ている。
「シアさん、あなたにお渡しするものがあります」
彼はそう言って、ポケットから小さな機械を取り出した。それは4番道路で彼がイワパレスに使った、あの装置によく似ていた。
「ポケモンを活性化させる装置の試作品です。こっそりと、組織から頂いてきました」
「これを、私に?」
「ええ、これから向かう先で、貴方の行方を阻むものが現れた時に、それをお使いください。……例えば、21番道路を南下した先にある、海辺の洞穴などで」
盛大なヒントを紡いで、悪戯っ子のような楽しそうな笑みを浮かべた彼に、私も思わず笑ってしまった。
どうやら、次の行き先は決まったらしい。そして、もう私は迷わない。
「……そうだ、シアさん。今、貴方の眼前で圧倒的存在感を放っているポケモン、彼はテラキオンです」
彼は私の背後を指差す。
見慣れないそのポケモンは、まだじっと私を見つめ続けていた。
「テラキオンも含め、貴方が出会ったと手紙で話してくれた、コバルオンやビリジオン。
この3匹はいずれも、プラズマ団の危険な気配を察知し、彼等に対抗できる強きポケモントレーナーを求めているのでしょう。
彼等が貴方に注目している、この意味が解りますね?」
「……」
「彼等の力を借りなければ、わたしを倒すことはできないかもしれませんよ」
その声音は何処までも優しく、しかしその凛とした言葉には、私とは相容れない正義を背負ってしまった彼の覚悟が刻まれていた。
私は踵を返して立ち去る彼を見送り、テラキオンと対峙する。
「……私に、力を貸してください」
もう、私は迷わない。
2014.11.19
ソーロ 独奏