マリンチューブに入った私達は、そこでNさんに再会することになった。
「やあ、シア。久し振りだね。……ロトムも元気そうで何よりだ」
「ちょっとあんた、セイガイハで待っているっていう約束だったじゃないの。こんな所で油を売っているなんて聞いていないわよ」
「キミ達が此処を通る未来が見えたからね。どうせならボクも向かおうと思ってね。
未来を通して見えたここからの景色がとても美しかったから、是非自分の目で確認したくなったんだ」
彼は口を開くや否や、超人的な力を使ってロトムと会話をし、私達の未来を言い当ててみせる。
私はそれをまだ新鮮に感じているが、もう彼と2年の付き合いになるトウコ先輩はすっかり慣れてしまったらしい。
肩を竦めて、Nさんの髪を軽く引っ張る。
「まあ、相変わらず便利な力をお持ちですこと。その調子でプラズマ団の居場所も解ったりしないの?」
「……トウコ、ボクの力は対象の場所を特定するものではないんだよ」
相変わらずのやり取りに苦笑しようとして、しかしそれは叶わなかった。何故ならその景色があまりにも美しかったからだ。
大きな透明のトンネルが、海底に真っ直ぐ伸びている。アクリル板を何枚も重ねて作られているのだろうか。
その向こうには当たり前だが、海がある。その中を悠々と泳ぐマンタインが、私達の足元にうっすらと影を作る。
こんな海底にも、陽は指すらしい。上を見上げると、海面が幻想的に揺れていた。
「海を歩けるなんて、素敵な場所ですね」
その時、私は彼の言葉を思い出した。
『海がゆっくりと降りてきているようで、見ていて落ち着くのですよ。』
私は鞄の中に手を突っ込み、底を探る。指先に当たったそれを掴み、引っ張り出した。
彼はこの青い水を海だと形容した。私はそのオイル時計を掲げ、マリンチューブの向こうにある本物の海に重ねる。
確かに、似ているかもしれない。けれどこちらのオイル時計の方が、少しだけ色が濃かった。きっと、もっと深い場所の海を表しているのだろう。
「何それ、水時計?」
彼女はマリンチューブとオイル時計との間に入り込んで、それをじっと見つめた。
「トウコ、正確には液体時計と言うんだよ。透明な液体は油で、その比重の差により水が底へと、」
「はいはい、解った、解ったからストップ。これ以上、頭が痛くなるような話をしないで」
Nさんの言葉をいつもの調子で遮った彼女は、しかし彼の解説を聞いてはいたようで、「油が入っているのね」と呟く。
どうしてこんなもの、持ち歩いているのよ。怪訝そうに尋ねた彼女に、もっともな質問だと私は苦笑した。
「アクロマさんが、ヒオウギを出る前日にくれたんです。紅茶を蒸らす時間を、いつもこれで計っていたんですよ」
「へえ、洒落たことをするのね。キッチンタイマーでいいじゃない」
「待っている時間の、暇潰しも兼ねていたんです。……何となく、見とれてしまうでしょう?」
私の言葉通り、興味がない風を装いながらも、彼女は落ちていく青い水から目を逸らそうとはしない。
初めてこのオイル時計を見ていた私と同じ態度だ。私もこの時計を食い入るように見つめていた。
そして「どうして二つの水は混ざらないんだろう」という私の素朴な質問に、彼は目を輝かせて答えてくれた。
「それじゃあ、それをあんたにあげちゃった「アクロマさん」は、今頃紅茶の待ち時間を持て余しているでしょうね」
「……ですよね、だから私も遠慮したんです。でも「この時計に海を重ね過ぎたから、わたしが持っている訳にはいかない」って」
『だからこそ、わたしが持っている訳にはいかないのです。わたしはその時計に海を重ね過ぎた。』
難しくない言葉で難しいことを言った彼の、その本当の意味を、私は未だに理解することができずにいた。
以前はそれをただもどかしいと思うだけだったが、この世界には解らないままの方がその美しさを保てるものが意外にも多いことに、私は気付き始めていた。
知ること、理解することで広がる世界は確かにあるが、世界が広がることによって、その美しさを保てなくなる場合も往々にしてあるのだ。
私が、プラズマ団の船で見つけた彼の金色の目のように。
「その人、海が好きなの?」
「え?」
彼女の言葉に私は顔を上げた。丁度、オイル時計を挟んで彼女の顔を見る形になる。
彼女の側からも、オイル時計を挟んだ向こうの私が見えているだろう。
そしてトウコ先輩は大きく目を見開く。あ、と小さく言葉を零し、次の瞬間、お腹を抱えて笑い出した。
私は勿論のこと、Nさんも彼女の突然の笑いが理解できなかったようで、「どうしたんだい」と狼狽えている。
……私の顔は、そこまでおかしいのだろうか?
「ああ、おかしい!今日は面白いことが立て続けに起こるわね」
彼女にとってはおかしいことなのかもしれないが、そのおかしさが私にもNさんにも共有されていない。
釈然としない私からオイル時計を取り上げ、彼女はNさんにそれを渡した。
「ほら、それを通してシアを見てみなさいよ」
すると、それに従ったNさんまでもが小さく笑い始めたではないか。
私は居たたまれなくなった。理由が解らないまま、笑いものにされているなんて羞恥心を煽られる屈辱でしかない。
私が怒りに声を荒げようとしたその瞬間、彼女は鏡を取り出して私に突き付けた。
「ねえ、その「アクロマさん」って人、あんたの目を海みたいだって、言ったことがあるんじゃない?」
……そんなこと、言われた記憶が、
「……」
『貴方の目は海の色をしているんですね。』
あれは、いつのことだったのだろう、どんな風に紡がれた言葉だったのだろう。
太陽の色をその両目に湛えた彼が、私の目に海を見たことに驚き、それが少しだけおかしくて、笑った。
直ぐに忘れてしまうような些細な例えだと思っていた。彼女にそう指摘されなければ、きっと永遠に思い出すことはなかった筈だ。
しかし私は、思い出してしまった。
「あんたが好きになる人だから、なんか堅物で愛想のないストイックな人間を想像していたけれど、ちゃんと愛されていたのね。なんだか気が抜けちゃったわ」
愛されている?
あまりにも眩しいその単語に眩暈がした。私はそれが自分のことだと理解することができずにいた。
『海がゆっくりと降りてきているようで、見ていて落ち着くのですよ。』
『だからこそ、わたしが持っている訳にはいかないのです。わたしはその時計に海を重ね過ぎた。』
あの言葉には「私」が隠れていたというのだろうか?
そんなことはない、と否定したかった。しかし目の前の鏡に映る、私の目は確かに青色をしていた。彼がたとえた海の色をしていた。
「あんたがひょっとしたら、2年前の私よりも苦しいところにいるんじゃないかって心配していたけれど、杞憂だったみたいね。
だって、ほら、もう何も迷わなくたっていいじゃない」
彼女の言っていることが解らずに首を傾げる。
しかしその続きを紡いだのはトウコ先輩ではなかった。
「カレはキミに「自分を止めてほしい」と思っているんだよ」
その言葉が、トウコ先輩からではなく、Nさんから紡がれたその意味を、私は正しく理解しなければいけなかった。
彼が「きっと」や「おそらく」という言葉を使わずに断言したのは、そうだと確信しているからだ。
会ったこともない彼のことをそう断言し得るための確信には、彼自身の経験が深く根付いていたのだ。
彼は2年前、彼女に「ボクを止めてごらん」と紡いだのだ。それは懇願だった。
身動きが取れない自分の立場を、変えることのできない自分の志を、折ってみせろと彼は彼女に懇願した。
そんな彼は、自分とアクロマさんの状況が同じだと紡いで笑う。
「あんたに話を聞いた時に、あんたが上手く利用されているのかとも思ったの。でも、違ったみたいね。
どうせそいつはあんたに似て、誠実で正直で、苦しむ人を放っておけないような優しい性格をしているんでしょう?」
会ったこともない彼のことをそう言い当てて、彼女は笑った。
その姿が『では、きっとわたし達は似ているのですね』と笑った彼と重なった。
……彼は、止めてほしいと、そう私に思っているのだろうか?
私は込み上げてくるものを押し殺し、結論を出すことを先送りにしたまま、「そうだといいですね」と泣きそうな顔で笑った。
それは、私が直接、確かめなければならないことだからだ。
そのためには、もう一度、彼と会う必要があった。
2014.11.19
トリユ 隣接する2音を交互に速く反復させる装飾音