9 vollruhrung

解っていた筈だった。
Nさんという存在が、トウコ先輩にとって、どれ程大切な人であるかを。

トウコ先輩、落ち着いてください。何があっても暴力を振るっちゃいけません」

「……わ、解っているわよ。ちょっと脅しただけ」

彼女はおどけたように笑ってみせたが、もし私が止めなければ、きっと彼女はあのプラズマ団員を殴っていただろう。
その為の予備動作を彼女は取っていたし、何より今だって、まだ目が笑っていない。

私も、タチワキシティで黒服の団員がNさんのことを侮辱した時に、知り合いを馬鹿にされたことがとても悔しくて、怒りに任せたポケモンバトルをしてしまった。
きっと、今の彼女が抱いている憤りは、その時の私のそれとは比べ物にならないのだろう。
何故ならNさんが「かけがえのない存在」だからだ。
豪胆な彼女に「私の世界は私とNとを中心に回っているのよ」と言わしめた人間だからだ。
Nさんは彼女に愛されていた。愛され過ぎていた。

私は彼女の、そのあまりの怒りを理解できずにただ驚き、狼狽えていた。
そして、彼女の怒りを「在り得ない」ものとして見てしまうことこそが、彼女のような「かけがえのない存在」を持たない私を如実に表しているような気がしたのだ。
私はきっと、彼女のような「かけがえのない存在」を持たないから、だから彼女の怒りが理解できないのだと思った。
ロトムやフタチマル、クロバットは皆、かけがえのない存在だけれど、きっとトウコ先輩がNさんを想うそれと、私が彼等を想うそれとは少しだけ異なっている。
何が、とは言えない。その感情を私は知らなかったからだ。

そして、その未知の感情をアクロマさんに当てはめることも、少しだけ不自然であるように思われたのだ。
私がアクロマさんに抱くそれは、尊敬や憧憬といった側面が強かった。
私はトウコ先輩のように、彼のことについてこんなにも憤ることはきっとできないし、私では彼を守れない。
それはきっと、私と彼とが対等ではないからだと思った。彼女とNさんは、対等なのだ。
だから彼女は、私の知らない怒りを持て余しているのだと、思った。

「……」

そして私は、ふと思う。

もし私が彼と対等になって、それでも変わらずに彼を想っていた場合、その感情はどう説明すればいいのだろう。
彼に対する憧れや尊敬の気持ちがなくなり、それでも変わらず彼に会いたいと望んだ時、その時の思いにはどんな名前を付ければいいのだろう。

その時には私にとって彼が「かけがえのない存在」になっているということなのだろうか。

「なんであんたが泣きそうな顔をしているのよ」

「あ……」

トウコ先輩は困ったように笑い、私の頭を乱暴に撫でた。
私はようやく安堵した。もう彼女の目に殺意の色を見ることはできなかったからだ。

「あの、大丈夫ですか?」

そして私達は、ずっとその場に残っていた、白服のプラズマ団員の視線に気付く。
私は「はい、大丈夫ですよ」と笑う。彼女は黙ってふいと顔を背ける。
しかし彼はそんな態度を取られたにもかかわらず、トウコ先輩におずおずと話し掛けた。

「N様のことを知っているのですか?」

「……」

「お願いです、教えてください。せめてご無事なのかどうかだけでも……!」

彼はトウコ先輩に深々と頭を下げる。
彼女は沈黙を貫き続けていた。
降りてきた、その言葉のない時間がもどかしくて、私は堪え切れずに口を開いた。

「Nさんは、元気です」

「……シア、余計なことを喋らないで」

「でも、もう彼は、貴方達が探している「プラズマ団の王様」じゃありません。ポケモンの解放をうたっていた彼は、もう居ません」

「喋らないでよ!」

「……だからどうか、彼を探さないでください」

私の口を塞ごうとした彼女の手が、不自然なところでぴたりと止まる。その目が驚きに見開かれる。
私は彼女の気持ちを完全に理解することはできない。けれど、彼女のことはとても大切だ。
その彼女から、Nさんを奪ってほしくなかった。同時に、Nさんから彼女を奪ってほしくもなかった。

きっと彼女は、Nさんのことを、誰にも話さずにずっと生きてきたのだろう。
2年間、彼女がイッシュを嫌い、カノコタウンに籠り続けていたのはそういうことだったのだ。
英雄としての自身を嫌っていたと同時に、Nさんを求める彼等の事も同様に嫌っていたのだろう。
何故なら彼等の呼び掛けにNさんが答えてしまえば、彼はまた穏やかな日常を失うからだ。

トウコ先輩とNさんは、もう、英雄を辞めたのだ。
ただ穏やかに、生きることを選んだのだ。
だから、もう、そっとしておいてほしい。

白服の人は、私の言葉を聞き、ほっとしたように微笑んだ。

「よかった。ご無事だったんですね」

その言葉に、トウコ先輩はとても驚いた表情を浮かべた。
ありがとうございます、とお礼を言ってから、彼は再び口を開く。

「……さっきの奴は、昔は俺の友人だったんです。
けれど2年前に、ポケモンを救いたいと願うN様に従う者たちと、世界征服を企んだゲーチスのグループに分かれてしまって……」

「……そうだったんですね」

「あ、私達の家で詳しい話が聞けます。ポケモンジムの隣、小高い場所にありますから、是非いらしてください。……その、トウコさんも」

彼はそう言って、立ち去ってしまった。私は恐る恐る、トウコ先輩を見上げる。
彼女はNさんについての情報を、きっと僅かでも教えたくはなかったのだ。彼はイッシュから完全に居なくなってしまったと、そういうことにさせておきたかったのだ。
しかし、自らが指導者として崇めていた彼の消息を知りたいと願う彼の気持ちも理解できた。だからつい、口を開いてしまった。
怒られる。間違いなく怒られる。そう覚悟した上での発言だった。……しかし。

「何よ、その顔は。別に怒ったりしないわよ」

「え……」

予想外の言葉に私は面食らう。
少なくともこの場において、暴力的な彼女しか目撃していなかったため、その発言を真に受けることができずにいたのだ。

「私はイッシュに住む人間が嫌いよ。プラズマ団だって大嫌い。だから時々、あいつらの思いを汲み取ることを忘れてしまうの。……悪いことをしたわね」

「……それは、彼の質問に答えなかったこと、ですか?それとも、黒服の団員に手を上げかけたことですか?」

「間違いなく後者ではないわね」

いつもの調子に戻って、トウコ先輩は豪胆に笑ってみせた。
私はそれに苦笑しながら、心の何処かで安心してもいたのだ。

「それにしても、どうして私が「そっとしておいてほしい」と思っているって解ったの?
私の言いたかったことをあんたが全部、代弁したから、びっくりしたのよ?」

そう尋ねる先輩がおかしくて、私は笑った。
途端に不機嫌になる彼女に謝罪しながら、私は口を開く。

「だって先輩、誰よりもNさんのことを思っているでしょう?」

「……」

「そんなこと、二人を見ていれば簡単に解ります」

彼女は長い沈黙の後で「生意気な後輩ね」と私の頭を乱暴に撫でた。

かけがえのない存在を持つということは、必ずしもいいことばかりではないらしい。
それは時として、人を盲目にする。凄まじい憤りを引き起こす火種にもなり得る。
けれど、そうしたリスクを背負ってでも、彼女はNさんを愛することを選んだのだ。彼を嫌いだと豪語する彼女は、しかし彼のことを誰よりも大切に思っているのだ。

私にとってのそれは、果たして、彼となり得るのだろうか?


2014.11.18

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