「安心してください。わたしの仮説が間違っていたことは、今までの研究が無駄になったことと同義ではありませんから」
彼はそう言って、私に紅茶を勧めた。
すっかり冷めてしまったそれを口に運ぶ。ふわりと甘い香りがした。
これから夏にかけて熱くなるから、アイスティーもいいかもしれませんね。そんなことを紡いで彼は笑う。
「ところでシアさん、ポケモンは誰の為にその力を使うと考えているのですか?」
彼のその質問に、私は少しだけ考え込んだ。
「野生のポケモンも、誰かの為にその力を使うことがある筈です。例えば、群れを作って生活するポケモンは、その群れの仲間を守るためにその力を使うと思います」
「成る程、確かにそうですね」
「人間と一緒に生活しているポケモンなら、土木工事、映画撮影、救助活動のような、人間と協力して仕事をする過程で、きっと人間の為に力を振るってくれていますよね。
それに、トレーナーと一緒に居るポケモンも、そのトレーナーの為に、トレーナーと一緒に強くなりたいって、思うんじゃないかな……」
最後の言葉に浮かんだのは、トウコ先輩のポケモン達だった。
私はポケモントレーナーではないので、彼女のポケモンがどれ程強いのかは解らない。
しかし彼女のシンオウ地方での殿堂入りは、強くなければなし得なかったことだと思う。彼女の家に飾られた金と銀のトロフィーにも、ポケモン達の強さが象徴されている。
けれど、彼女がポケモン達に、スパルタとも言えるような特訓を課したことは一度もないらしい。
しいて言うならば、あちこちを旅して回ったくらいだというが、それすらも彼女はポケモンと一緒に、あくまでも楽しく行ったのだろう。
強いポケモンは、とても楽しそうで、幸せそうだ。
私はトウコ先輩のポケモンを見て、そんな風に考えるようになっていた。
そして私も、彼女が旅に出たのと同じ年齢になった頃に、ポケモンを貰って、旅に出たいと望むようになっていたのだ。
私のポケモントレーナーへの憧れは、紛れもなく彼女に触発されたものだった。
彼は私の話を最後まで聞き、妙に含みのある笑顔を浮かべた。
「成る程。ですがシアさん、貴方はそれを証明する術を持っていませんよね」
「……はい。私はポケモントレーナーじゃないし、アクロマさんのように博識でもないので、憶測でものを言っているだけですから」
「では、トレーナーになってみませんか?」
彼の言っていることの意味が解らずに、私は首を傾げる。
がさがさと音を立てて、彼は紙袋の中の一つをテーブルに置いた。それは彼がこのアールアインで購入したものではなく、あのプレハブ小屋から持ってきていたものだ。
有名な紅茶のお店のロゴが入っているそれに、彼は両手を差し入れ、とんでもないものを取り出す。
「……?」
それは薄い黄色の水玉模様が入った、少し歪なボールだった。メロンよりも少し小さいそれを、彼は私にそっと手渡す。
私は訳が解らないままそれを受け取る。彼の扱い方からして、とてもデリケートな素材で出来ているらしい。
そのボールの表面はひんやりと冷たく、中で何かが動いているような気配がする。
そこまで観察して、ようやく「それ」の正体に気付いた私は、思わず素っ頓狂な声をあげていた。
「え!?……タマゴですか?」
「ええ、そうです。貴方にその子を預けたいのですが、受け取って頂けますか?」
私が、このタマゴを、受け取る。
その意味を、私は正しく理解しなければいけなかった。
つまり彼は私に、このタマゴの中のポケモンを育てることを望んでいるのだ。私に、ポケモントレーナーになってほしいと言っているのだ。
いきなり差し出されたその懇願に私は狼狽えるばかりで、「え、いや、その、でも、えっと……」などと意味のない音を紡いでは沈黙を続けることを繰り返していた。
ポケモントレーナーには、なりたい。その思いに間違いはない。
しかし、それは少なくとも2年後の話だと思っていた。あのトウコ先輩が14歳でイッシュを旅するのに苦労したと聞いた時、私は勝手にそう思い込んでいたのだ。
彼女ですら過酷な旅路を、私が、しかも彼女よりも幼い年齢で乗り越えられる筈がない。そして、そんな危なっかしい旅路にポケモンを巻き込めない。そう感じていた。
つまるところ、現時点で私がポケモントレーナーになるのはまだ早すぎるように感じられたのだ。
「……どうして、私にポケモンのタマゴを預けようとしてくれているんですか?」
だからそれを素直に受け取ることができず、私はそんな質問を彼に投げる。
すると彼は困ったように笑って肩を竦めた。
「わたしの、我が儘ですよ」
「!」
「貴方に、証明してほしいと思ったからです。
ポケモンの力を引き出すのは、誰かを思う心と、そのために力を発揮したいと望む意志なのだと、その貴方自身の言葉を、真実にできるかどうか、見届けたくなったのです」
そして、私は全てを理解する。
それは彼が私に課した「挑戦」だったのだ。
ポケモンの力を引き出すのは、誰かを思う心とその意志であると、他でもない私が彼にそう豪語したのだ。
私は、その責任を取る機会を彼に与えられているのだ。どうして私がそれを拒むことができただろう?
「私で、いいんですか?」
「ええ、貴方でなければいけない」
私はもう、迷わなかった。
両手で簡単に抱えられる程に小さなそのタマゴの中に、命が宿っている。そして、今も小さく揺れているその命の親に、私はなろうとしている。
「私、この子に相応しいトレーナーになれるでしょうか?」
早速、不安の波に苛まれた私を、しかし彼は優しく笑ってくれる。
「初めから相応しいトレーナーなど、存在しませんよ。貴方はこの子に相応しいトレーナーに、これからなっていくんです。
シアさんは聡明で努力家ですから、成長が楽しみですね。私も、ささやかながら応援させて頂きますよ」
いつか、貴方とポケモンバトルをしたいですね。
彼のその言葉に、心臓が大きく揺れた。
彼と、ポケモンバトルをする。……それは私にとって、夢のような絵空事に感じられたのだ。少なくとも、今までは不可能だと思っていた。
しかし、今は違う。私はこれからポケモントレーナーになり、拙くはあるが、彼と同じ土台に靴底を付けることが許されたのだ。
その彼と、トレーナー同士、ポケモンバトルをすることは、何ら不自然なことではない。
それを想像するだけで、私の胸は高鳴った。とてつもない高揚感に襲われていた。
尊敬や憧れを抱いていた彼と言う存在が、この時、とても近くにあるように感じられたのだ。
「私も、アクロマさんとポケモンバトルをしたいです」
きっと私の目は、これ以上ないくらいに輝いていたのだろう。
彼はとても嬉しそうに笑い、……しかし、その顔が一瞬にして強張る。
私は首を傾げた。例えるなら、背中に氷の塊を落とされた時のような、全身を悪寒が駆け抜けた瞬間のような表情を、彼は浮かべていたのだ。
その金色の目は瞬きをすることを忘れ、微動だにしない。やがてその目が、私の背後の何かを捉えていることに気付いた私は、振り返ろうとした。
しかしそれは、叶わなかった。何故なら彼が勢いよく身を乗り出して私の目を塞いだからだ。
「アクロマ様!」
誰かが彼を呼ぶ声がした。頭を殴られた心地がした。ガタン、と彼が椅子を乱暴に立ち上がる音が聞こえた。
やがて私の目を塞いだまま、私の横に少しだけ屈んだ彼は、耳元でそっと、その懇願を紡ぐ。
「どうかそのまま、目を開けないでください」
「……」
「わたしが、いいと言うまで」
その時点で嫌だと言えばよかったのに、私は彼の尋常でない張りつめた声音に負け、思わず、頷いてしまった。そして私は、目を閉じた。
足音が遠ざかる。耳を澄ませて拾おうとした彼の声は、近くの子供の喧騒に掻き消された。
先程、私の目を塞いだのは誰の手だったのだろう。目を開けないでと懇願したのは誰の声だったのだろう。
そんな筈はないと叫ぶ言葉が吹き荒れる。しかし耳元で聞こえたそれは紛れもなく「彼」のものだった。
目を、開けることは簡単にできた。しかし塞いだ白い手と、開けないでと囁いた声音の記憶が、そうすることを許さない。
いきなり起きた出来事に、私は訳が解らないままに取り残されてしまった。こんなことは初めてで、戸惑っていた。
戸惑っていた私は、彼のその行為を「理不尽だ」と認識してしまった。
目を塞ぐその行為が、開けないでと囁くその言葉が、私の嫌う大人達に、理不尽な世界に、あまりにも似すぎていたから。
くやしい。
いつか思ったそれをもう一度反芻する。私は腕の中の命をそっと抱き締めた。
早く、早く帰ってきてほしい。貴方は何か勘違いをしているのだと、いつものようにそう言って笑ってほしい。
貴方だけは他の大人とは違うのだと、信じさせてほしい。
貴方を、好きなままでいさせてほしい。
2014.11.15
アルディタメンテ 大胆に・勇敢に