「あんた、科学者にでもなる気なの?」
今日も今日とて突然やって来たトウコ先輩は、私がテーブルに広げている分厚い本を覗き込み、眉をひそめた。
「シアは私と同じ、文系だと思っていたんだけど。読書が好きで、数学や物理や化学には興味なんてなさそうだったから」
そう呟いて、ソファに飛び込む。Nさんが苦笑しながらその隣に座った。
文系、理系という括りはそれまで知らなかったが、こうした物理や化学の話は理系に分類されるらしいことが解った。
そして、彼女の「数学や化学」に含まれた嫌悪の声音からして、トウコ先輩は理系の学問が大嫌いなのだと悟る。
「数学や物理や化学には興味なんてなさそうだった」というのは、正確には正しくない。
今までの私は、そうした面白い数学や化学に触れる機会が全くなかったのだ。
ハートや渦巻きを描くグラフがある、だなんて、最近まで知らなかった。毎日食べている料理や、いつも見上げている空に化学が隠れていることにも気付けなかった。
今の私の世界は、そうしたささやかな学問が広げてくれていたのだ。
「楽しいですよ。物の重心の話とか、静電気の仕組みとか」
「……ごめん、私にはさっぱりだから、そういう話はNにしてあげてよ」
「いや、シアはそんなに複雑な話をしている訳ではないよ。キミにだって理解できる筈だ」
「今の言い方、ちょっと棘があったわね。いくら自分が不確定性原理とか円運動のサイン式とかを我が物にしているからって調子に乗らないほうがいいわよ。
私達が普段喋っているのは文系が得意とする「言葉」であることを忘れているんじゃない?文系の私に掛かればあんたなんか、簡単に論破できるんだからね」
二人にカステラと麦茶を出しながら、「トウコ先輩、私の家にまでやってきて喧嘩を始めようとしないでください」と彼女に制止をかける。
この二人はいつもこのような調子なのだろうか。喧嘩する程仲がいいとは言うものの、こうも頻繁では心配してしまう。
「……で、あんたにそんな理系科目の面白さを植え込んだのが、この間言っていた人ってことでいいのかしら?」
私は思わず、本を片付けようとしていた手を止める。
「図星みたいね」と、トウコ先輩は楽しそうに笑ってみせた。
「まあ、あんたが入れ込んだ人だから心配はしていないけれど、もし何か困ったことが起きたら呼びなさいよね。私がそいつを半殺しにするから」
「いきなり物騒なことを言わないでくださいよ」
またしても血の気が多い方向に向かいそうになっていた彼女を咎めながら、しかし私は少しだけ喜んでもいたのだ。
私のことをそれなりに信用しているからこそ、彼女は私が「知りたい」と思った彼のことについて、あれこれと尋ねるような真似はしない。
しかし詮索はしないものの、私を案じてはくれているらしく、そんな物騒な言葉で私に確認を取るのだ。
私の自慢の先輩。私が慕う、とても豪胆で素直な彼女。
それと同じような感情を私は彼に抱いていた筈だが、トウコ先輩へのそれと、アクロマさんに対するそれとは、何処かが大きく異なっている気がしてならなかった。
プレハブ小屋では、読書の時間が訪れていた。
私は、アクロマさんに貰った本をじっくりと読み解く。彼は彼で、大量の書物を整理したり、 分厚い図鑑を捲って調べものをしたりしている。
パラリ、と紙が擦れる乾いた音だけが響いている。とても静かで、何処か神聖な時間だった。
その穏やかな沈黙を破るのは、決まって私の、読んでいる本に対する質問だったのだが、今日は違った。
パタン、と音を立てて本を閉じた彼に、私が読んでいた本から顔を上げると、彼はその金色の目を真っ直ぐに私へと向けていた。
「……シアさん、ポケモンについてどう思いますか?」
彼がそういたアバウトな質問をすることは珍しく、私は少しだけ驚いた。
彼が私に、どういった答えを望んでいるのか解らずに私は当惑し、沈黙する。
『ポケモンは未知の力を秘めた、素晴らしい生物なのです。わたしは、彼等の力を最大限に引き出すための研究をしているのですよ。』
彼はかつて、私に自身の研究のことをそう説明してくれた。
ポケモンという存在は、私にとって未知のものだった。小さい頃から、私はあまりポケモンと関わることなく育ってきたのだ。
しかし2年前に、トウコ先輩がポケモントレーナーとなってからは、彼女のポケモンと遊んだり、Nさんと彼女とのポケモンバトルを見学したりしていた。
アクロマさんの言う通り、ポケモンは本当に不思議な生き物だと思う。
口から炎や水を出すポケモンもいれば、羽もないのにふわふわと空中を漂うポケモンもいる。
モンスターボールという、小さな球体の中に、どんな大きいポケモンでもその身体がぴったり収まってしまう。
物凄い力を秘めているそのポケモン達は、しかし人を襲うことはしない。寧ろ、私達に対して友好的だ。トウコ先輩の連れているポケモンは、一様に私にも懐いてくれた。
彼等には、不思議な力と不思議な魅力がある。それを理解し、言い表す術を、私はまだ持たないけれど。
「不思議な、生き物だと思います」
「例えば、どのような点にそう感じますか?」
「あんなにも多くの種類のポケモンがいることや、それぞれが全く違う力を持っていること、他にも、……上手く言えないけれど、沢山、不思議なところはあると思います」
私のそんな拙い答えを、彼は逐一拾い上げて、吟味してくれる。
私は、自分の言葉が誰かに大切にされるという事実に、まだ慣れることができずにいた。
子供である私達の言葉は、蔑ろに扱われがちだ。気紛れで飽きっぽい子供の言葉を、大人は信用しないし、真剣に取り上げることもない。
しかし彼は違う。私をそんな子供のカテゴリーに嵌めることなく、一人の人間として誠実に向き合ってくれる。
それはとても嬉しいことであった。しかし、そこにあったのは単調な喜びだけではないのだと、私は少しずつ知り始めていた。
自分の言葉が誰かに影響を与える。そのことは二つの意味を持っていたのだ。
つまり、自分が大切に扱われているということと、私の言葉が誰かを救いもするし誰かを傷付けもするということの二つだ。
自分が子供ではない存在として扱われることには、そうした相手への影響に対する責任を取ることと切っても切れない関係にあるのかもしれない。
そして、私達が「半人前」で、「責任の取れない存在」だから、私達の言葉を彼等が真剣に取り上げることがなかったのかもしれない。
「責任」という荷物を子供から奪い取ることは、実は大人なりの優しさだったのかもしれない。そのことに、私は気付き始めていた。
しかし彼は、私の「責任」という大きな荷物を奪い取ることはしない。あくまでも彼自身と同列に私を扱う。
彼の前では、私の言葉は重い響きを持つのだと、そう自覚した途端に心臓が大きく跳ねる。
私の言葉が彼を傷付けてしまうかもしれないという恐れは私の足枷となったけれど、それと同様に、私の言葉で彼が救われることだってあるのだという認識は私の希望となった。
「そうですね。彼等は持つ力も、その強さも、様々です。多様性に恵まれ、だからこそ神秘的で、奥深い。
ですから、そうした彼等の力を個々に引き出そうと思うなら、それぞれのポケモンに対して異なったアプローチをしなければならないのです」
そして彼は、沢山の事を説明してくれた。
ポケモンによって、好ましい生育環境が異なること。水辺を好むポケモンや、寒い地方でしか見かけないポケモン、砂漠で群れを作るポケモンなど、様々だという。
当たり前のことだが、そうした「好ましい生育環境」からポケモンを引き離せば、彼等は普段のコンディションを維持できなくなり、力が出せなくなる。
それ故に、彼等にとって最も適した環境を用意してあげることが重要であるように思われるが、必ずしもそうではないようだ。
彼によると、少しのストレスで力を発揮できなくなるポケモンもいれば、過酷な状況下でこそ真の力を発揮するポケモンもいるのだという。
そのため、本来なら過酷である筈の環境を、わざわざ選んで暮らしているポケモンもいるらしい。
更に驚くべきことに、そうした環境の選択は、種族ごとに必ず決まっている訳でもないようだ。
同じポケモンでも、穏やかな気候を好み、そこでこそ力を発揮する個体もいれば、過酷な環境下で、穏やかな環境での力以上に強くなる個体もいる。
あらゆる種族の違いを持ちながら、その種族の中でもこれほどまでに違いが生じることが不思議でならないと、彼は困ったように笑ってそう言った。
2014.11.14
モクール からかいながら