私は少し、変わっていました。
与えられたものを素直に受け取ることの出来ない偏屈な子供でした。与えられたものしか手に入らない子供な自分が歯痒いといつも思っていました。
大人が好きではないけれど、早く大人になりたいと思っていました。子供には解らないよ、と世界を仕切られてしまわれたくはありませんでした。
甘いカレーも、イラスト付きの算数ドリルも、目線を合わせるように丸める背中も、普通のことだと解っていながら、でも、素直に甘んじられませんでした。
私達子供は「知ること」が出来ません。「知ること」を、与えられないから。
なんて理不尽な世界だと思っていました。でも私は、そんな世界で強く生きていたいのです。
「アクロマさんなら、そんな世界を仕切ることなく教えてくれると思ったんです」
私はオイル時計の青い水がゆっくりと落ちていく様子を見ながら、そんな自分の話をしていた。
「成る程」
彼は何故か楽しそうに笑った。その笑顔に込められたものの正体も、私にとっては気になるものではあったのだが、今は経過した3分に従って紅茶をカップに注ぐのが先だ。
今日は私が一番好きだと言った、苺の紅茶だ。角砂糖を一つ落とすだけで、とても美味しいホットジュースのようになる。
リンゴの紅茶も好きだったが、この苺の紅茶が放つ芳香は群を抜いているような気がした。
「いい香りですね」
「ええ。……では、いただきます」
私は紅茶に口を付けながら考える。……本当は、いつ言うべきか迷っていたのだ。
本当は大人が大嫌いだったと、大人である彼の前で紡ぐのには相当の勇気を要した。
しかし、その高いハードルは、すでに彼によって越えられていたのだ。
人間が嫌いだと、人間である私の前で豪語した彼は、しかし私のことは信用していると告げて、笑ってくれた。
だから、私も同じようにできるかもしれないと思ったのだ。
私の拙い言葉では危ういかもしれないが、それでも、彼はその拙い言葉から私の主張を拾い上げる、その苦労を厭わず寄り添ってくれるだろうと信じられたからだ。
私はこの優しい時間の中に溶けることに満足し続けていた。
けれど、人と関わるということは、人に近付くということは、必ずしも優しいことばかりではないのだと、私は彼との時間に教わった。
だから私は、この話をすることにしたのだ。
「わたしも長く紅茶を飲んできましたが、ポットをお湯で予め温めておいた方がいいとは知りませんでした」
「私もそうですよ。本を読んではじめて知りました」
「わざわざ調べたのですか?読書が好きなのか、凝り性なのか、どちらでしょうね」
「読書は好きですよ。凝り性かどうかは……自分じゃ解らないですね。でも、折角お借りする茶葉だから、なるべく美味しく入れたいじゃないですか」
そんなやり取りを繰り返し、暫くの沈黙が下りる。
私は苺の甘い紅茶をゆっくりと飲み干していた。この時間が私は大好きだった。
どちらからも口を開くことのない、少しおかしな時間。けれどもその沈黙を許せる程度には、私達は時間を重ねてきたのだと信じられた。
「……先ず、貴方が変わっている、という件に関してですが」
しかしその沈黙を、彼が優しく破った。内容は勿論、私が話した自分のことについて、だ。
思わず背筋が伸びる。彼の声音には何処かそうさせる響きが含まれていたのだ。
彼の言葉は一様に難解で、私はその言葉を紐解き、理解し、主旨を読み取らなくてはならない。
勿論、その度に質問をすれば彼は快く答えてくれる。けれど、いつまでもその状況に甘んじている訳にはいかなかった。
彼を信頼し、彼に信頼されていた私は、もう一つ、欲張り始めていたのだ。
彼と対等に話ができるようになってはじめて、私は彼と全く同じ場所に靴底を揃えられるような気がしていたのだ。私はそれを望んでいた。
だから、できる限り、彼の言葉を自分の力で理解するように努めたかった。
「兄弟などが良い例ですが、同じ親から生まれ、同じ家で育ち、同じように成長したにもかかわらず、同じ人間、というのは如何様にも造りうることができないのです」
その言葉は、近くに住む幼なじみとその妹を連想させた。私はアクロマさんの言葉に頷く。
私には兄弟がいないけれど、その事実はよく理解できた。
「貴方の「少し変わっている」という言葉が、そうした相対的な極論を指している訳ではないことは解っています。
ですが、違うのは当たり前、ということを念頭に置くだけで、随分と楽になりませんか?
少なくとも、論理の骨組みがきちんと通った貴方の考えや思いが変だとは、わたしは少しも思いません」
彼はテーブルの奥に押しやっていた、白い陶器の入れ物を指で引きずり寄せた。私しか使わない角砂糖が、そこには沢山入っている。
彼はその内の一つを取り出し、手の平で遊ぶようにコロコロと転がしてみせる。白い手袋を嵌めた彼の手に、その角砂糖の白い色は溶けてしまいそうだった。
「貴方は素敵な人だと思いますよ。貴方のおかげでわたしはこんなも楽しい」
「……本当に?」
「ええ、勿論です。……それと、大人になることと、強く生きられることは、必要十分条件を満たすものではありませんよ」
必要十分条件。提示された未知の単語に、眉をひそめてリタイアの意を示せば、彼は肩を竦めて笑ってみせた。
「大人になったからといって、強く生きられる訳ではない、ということです。逆も然り。……大人にならなくとも、強く生きることはできます」
そして彼は、その角砂糖を私の、もう既に飲み干された空のティーカップに落とした。
僅かに残っていた紅茶の色を吸って、角砂糖は苺の色に染まる。
「あまり焦らないで」
「!」
「あなたには、きっとこのくらいが丁度いい」
彼はそう言って笑う。私との間に、何も隔絶などないかのように微笑んでみせる。
けれど私は、その優しさに甘んじることができない。私は欲張りなのだ。もっと、を望んでしまう。
彼の言葉を理解したい、彼に伝えるための言葉が欲しい、同じ視線から世界を見たい。
くやしい。
伝えたいことは沢山、本当に沢山ある筈なのに、私はそれを伝える言葉を持っていない。
嵐のように心中に吹き荒れるそれを、やっとのことで言語化するなら、きっと、こうなるのだろう。
難解な単語、論理的な筋立て。それらの中に含まれた私という人間の肯定。
湧き上がる思いは数え切れない程あるのに、その中の幾つを私は言葉にできるのだろう。そしてその中に、彼が話してくれた言葉の輝きに匹敵するそれは存在するのだろうか。
降り積もった新雪に一歩を踏み出した時のような、新鮮な感動が全身を貫く感覚。
そして、私は思い知る。仕切られた世界の向こう側は途方もなく広く、険しいことを。
この広大な世界では、1人なら間違いなく迷子と化してしまう。求めた手を、縋る腕を拒絶されたなら、振り払われたなら、きっと私は世界の広さに押し潰されていた。
けれど、彼の手は優しい。
「ありがとう、アクロマさん」
だから私は、その「くやしい」という言葉を飲み込むことにした。
心中で吹き荒れる嵐は、まだ当分止みそうにない。それらを言語化して処理するだけの言葉を、私はまだ持っていないから。
そんな風に、彼の傍は悔しくて苦しいけれど、それと同じくらい、いや、きっとそれ以上に優しくて愛しいのだから。
「わたしから、一つだけ聞きたいことがあるのですが」
弾かれたように顔を上げた私に、彼は金色の目を真っ直ぐにぶつけた。
「それはわたしでなければいけなかったのですか?」
ぴたり。
吹き荒れていた嵐が、突如として止んだ。
「はい。だって私が知りたいと思ったのは貴方だから」
「……」
「私が好きになったのは貴方だから」
それは再び吹き荒れることになるのだけれど。
2014.11.13
アルモニュー 調和のとれた