(同棲・婚約済の16歳という異質コンビによる砂糖菓子みたいな午後、ポッキーの日)
甘い匂いに誘われて階段を駆け下りれば、キッチンから「まだ出来ていないぞ」と声が飛んできた。
ついこの間、私の背を追い越したばかりの男の子であるはずなのに、これまで料理の経験などついぞなかったはずなのに、
彼がキッチンに立つその姿は異様な程に似つかわしくて、私は彼の器用な一面に感服すると同時に、料理に興味を持てない私自身のことがほんの少しだけ、恥ずかしくなる。
「わ、チョコプリッツェルだ! こんなものまで作れるんだね」
「つまみ食いするなよ」
「そこまで食い意地が張っている訳じゃないよ。確かにシルバーの料理はどんなものでも美味しいけどね」
私の家のキッチンは、彼が居候を始めてものの数か月で彼自身の城に化けてしまい、今では彼にしか使いこなせない調理器具が沢山、棚の中に仕舞われている。
私やお姉ちゃん、勿論ヒビキだって、料理を趣味とはしていないし、お母さんもそこまで料理に拘りがある訳ではなかった。
私達はこれまで、毎日の食事のために必要に迫られてキッチンへと立っているようなところがあったから、
彼がこのような意外な趣味を覚えてしまったことに関しては、きっと毎日の家事がうんと楽になったお母さんが一番有難がっているのだろうなあ、と思う。
「今日のチョコは?」
「72%だ。俺は85%の方でもよかったんだが、ヒビキに「苦すぎる」と泣きそうな顔をされたからな」
さて、そんな彼が昼食後にキッチンに立っているのは、夕食の仕込みをするためでも、常備菜のストックを増やすためでもない。
和洋中、様々な料理を数年かけて熟知してしまった彼は、先日ついに「お菓子作り」という新しい領域に足を踏み入れてしまったのだ。
美味しいスイーツの摂取が常習化して太ることだけは避けたい、というお母さんと私の我が儘により、彼のお菓子作りは週末のみとなったのだけれど、
今日は私でも知っている、とあるお菓子に因んだ特別な日であり、この可愛らしいイベントに町のあちらこちらが浮ついているため、
その賑わいに乗じる形で、平日にもかかわらずシルバーはこうしてキッチンに立ち、鼻歌混じりでチョコを湯煎にかけている、という状態なのだった。
「……よし、いい具合に溶けてきたな。コトネもやってみるか?」
「わあ、ありがとう! このプリッツェルを溶けたチョコにくぐらせればいいんだよね」
私は嬉々として、クッキングシートに規則正しく並べられたプリッツェルの1本を手に取り、甘い香りのするチョコの中へと差し入れた。
軽く回してからそっと引き上げる。チョコの角がプリッツェルの先に少しだけ立っている。それはメレンゲを泡立てた時に出来るあの角に少し似ているような気がした。
市販の、形の整ったチョコプリッチェルには見られない、手作り独特の形状がどうにも可愛らしく思えてしまう。
その可愛い角をシルバーにも見せたくて「ねえ」とその先を彼の眼前に差し出したのだけれど、
その拍子に角はいきなり液体の様相を呈し、雫となってプリッツェルの先端から零れ落ちてしまった。
「あ」
シルバーは咄嗟に手を伸べて、チョコの雫を人差し指の甲で受け止めた。
私は慌てて「大丈夫?」「熱くない?」「水で冷やした方が」などと言葉を連ねたけれど、彼は苦笑しながら「平気だ」「そんなに熱くないから」と告げて、
そのチョコを拭うこともせずに、何かを考えこむかのように沈黙しつつじっと自らの人差し指を見つめていた。
すると、彼は私が持っていたプリッツェルを取り上げ、再びチョコに浸したかと思うとすぐに引き上げ、またしても出来上がったチョコの角を自らの人差し指に落としてしまった。
2回、3回と無言でそれを繰り返し、人差し指の甲にチョコの雫を蓄え続ける彼がなんだか空恐ろしくなって「……どうしたの」と震える声で尋ねてしまった。
すると彼は至極面白そうな顔をして、少しばかり赤くなった頬と、悪戯を思いついたときのようなキラキラとした目で、笑った。
「コトネは凄いな、俺がよくないことをしようとしていることが分かるのか」
「よくないこと?」
顔をさっと青ざめさせた私の眼前に、甘い香りのする指が真っすぐ向かってきたかと思うと、
私にそれ以上の言葉を禁じるかのような動作で、チョコに塗れた指の甲が唇に押し付けられてしまった。
驚きと困惑でどうしていいか分からず、彼の無言の指示の通りに沈黙を保っていると、まるで口紅を塗るかのような動作でその指は私の下唇をゆらゆらと往復した。
色付きのリップクリームなら塗ったことがあるけれど、口紅なんてまだ私にとっては未知の領域であり馴染みのないもので、
男の子であるシルバーはなおのこと、そうしたお洒落の道具に疎くて然るべきなはずなのに、
彼は迷いも躊躇いも見せずに、楽しそうに、からかうように、照れたように、懐かしむように、私の唇を黒く塗っていく。
「……シルバー」
君らしくない悪戯だね、食べ物を遊びに使うなんて。
そう続けようとしたのだけれど、叶わなかった。彼がいよいよ顔を赤くして私の肩に手を置いたからだ。
その色の変化と置かれた手の熱さで、やっと、やっと私は、彼がこの場において何をしようとしているのか分かってしまった。
それはやっぱり彼らしくない悪戯で、このお菓子の日である特別なイベントの趣旨にもきっと反していて、
視界の端でチョコに浸るのを待っている小麦色のプリッツェルがやけに寂しそうに見えて、でもチョコは私の唇の上にあって、
……そう、だから、彼の息がかかる程の至近距離でこのようなことを言われずとも、きっと私の声など飲まれてしまっていたに違いないのだ。
「ほら、黙ってろ」