(20歳と16歳くらい)
久し振りね、と私の手を撫でてくれたトウコさんの薬指に不思議なものが光っていたので、私は思わず声を上げてしまった。
「トウコさんは本当に黒が好きなんだね。そんな色のダイヤが入った結婚指輪、初めて見たよ」
大人の女性に相応しい形を取るそれに、私の子供っぽい丸い爪が付いた指先をそっと触れさせてみる。
新月の夜よりも強欲に闇を吸い込んだようなその黒だって、やはり永遠の誓いを示すためのダイヤモンドには違いなかったのだけれど、
やはり一般的な白いダイヤモンドを結婚指輪の正しい形として信じていた私には、少しだけおかしなものに見えてしまった。
けれども彼女は私が包み込むようにした両手の中で、その薬指をぴょこぴょことおもちゃのように動かしながら「いいでしょう?」と笑ってくれる。
その、私の知る女性の中で一番かっこいい人物の最高に幸せそうな笑顔を指輪の背景に据えるだけで、
この黒いダイヤモンドに見出していたはずのおかしさが、私の中からあっという間に蒸発して消えてしまう。
「うん、とってもかっこいい! いいなあ、この指輪はこれからずっとトウコさんと一緒にいられるんだね」
「あはは、ありがとう。そんな風に言われるとは思わなかったわ。……でも少し違う、私はこの指輪と「ずっと一緒にいる」訳じゃないのよ」
「え、結婚指輪なのに、外す時があるってこと?」
首を傾げてそう告げれば、彼女は「そうじゃないわ」と否定しつつ、先程までの幸せそうな表情を一瞬にして消し去り、
何かよくないことを思いついた悪戯っ子のような眉の吊り上げ方をしたのちに、私の左手首を物凄い力で掴みにかかった。
わっと声を上げて驚く私の左手、トウコさんのようにかっこよくも大人っぽくもないその薬指の付け根に、彼女は自らの爪をそっと立てて、ほんの少しだけ、食い込ませた。
「知ってる? 強い契約を交わして力を得ようとするときには「契約印」っていうものが必要なの。体の一部、手の甲とか首元とか背中とかに誓いの印を刺青みたいな形で刻むのよ」
「……それって、悪魔や死神と契約するときの話でしょう? トウコさん、そういうの信じる人だったっけ?」
「悪魔や死神なんていう可愛らしい空想の産物とは比べものにならないくらいの、もっとおぞましく恐ろしいものを私は信じているの。
信じて、信じて、信じ抜いた末に交わした契約の印を、でも私は臆病だから、肌に直接刻むことができなかった。それで泣く泣く、この形になったの」
ああ成る程、と私は笑った。なんとなく、彼女の言いたいことを察することができたからだ。
彼女にとって、この黒いダイヤモンドの嵌め込まれた結婚指輪がどのようなものであるのか。
それに思い至ることができれば、先程の「指輪と一緒にいる」という言葉が不適切なものだということは、あまり頭の良くない私にだって分かってしまう。
それは指輪の形をしてこそいるけれど、彼女にとっては「装飾品」ではなく「契約印」なのだ。
本来はその美しい手の甲や、すらりと伸びた真っすぐな背中に、焼き印や刺青として刻まれるべき代物なのだ。
その印は一生、彼女とその契約相手に刻まれ続けるものであり、彼女の体の一部と同化するべきものなのだから「一緒にいる」ではなく「一つになる」とした方がきっといいのだ。
彼女は、自らの臆病な気質さえなければ、きっと本当に、本物の刺青だって焼き印だってその身に刻んだのだろう。それが彼女にとっての結婚なのだ。
そうして、そのあまりにも痛々しく恐ろしい儀式の果てに、彼女のこの、誰よりもかっこよく誰よりも幸せそうな笑顔があるのだ。
「ねえ、トウコさんはその「もっとおぞましく恐ろしいもの」と交わした契約で、どんな力を得たの?」
「知りたい?」
真っすぐにその瑠璃色の瞳を見上げて、私は大きく頷いた。
本気で頼み込んだところで、こういう「知りたい?」と聞き返してくるときの彼女はきっと教えてはくれないのだろうと、分かっていながらどうしても期待せずにはいられなかった。
そして案の定、彼女は肩を竦めて首を振り、私の薬指から指を離した。凝視しなければ分からないような僅かな爪の跡が、私のそこに臆病な弱々しさをもって刻み込まれていた。
「ヒカリがもう少し大きくなって、刺青を入れたいと思えるようになったら教えてあげる」
その約束を示すための契約印があればいいのに、と思った。けれども彼女が付けた僅かな爪跡は、ものの10分もすればすっかり私の薬指の付け根から消えてしまいそうだった。
目視できない約束を少しだけ寂しく思う心地を私は味わい、そうして改めて、指輪という契約印を自らの体と同化させて語る彼女の在り方がとてもとても羨ましくなったのだった。