(紅色ブーケの数週間後、ライラックコーラルのプロローグに相当する話かもしれない)
カントーからの長い船旅であるというのに、彼女は荷物と呼べそうなものをほとんど持っていなかった。
提げている鞄はとても小さく、洋服の一着さえ入りそうにない。荷物を持たせた付き人を連れている訳でもない。
彼女は本当に身軽に、これまでの彼女を構成していたであろう何もかもを手放した状態で、この街、ミナモシティの船着き場に現れたのだった。
「ごきげんよう、ダイゴさん」
「ホウエン地方へようこそ。荷物はそれだけかい?」
「ええ、あのお家にあるのはガラクタばかりだもの。本当に必要なものなんてあの中には一つもなかったわ」
多感な10代の少女らしからぬ、モノへの執着のなさに青年は驚く。驚いた、ということをなるべく知られないように「そう」と笑顔で相槌を打つ。
そうよ、と歌うように相槌を打ち返してきた彼女の足元で、プラスルが彼女を呼ぶように鳴いている。
彼女は嬉しそうに笑い、その両手を伸ばしてプラスルを抱き上げようとする。膝が僅かに曲がる。
「……」
けれどもその姿勢のまま、彼女は固まってしまった。
プラスルと青年は同時に首を傾げた。プラスルはもう一度鳴いて彼女を呼んだ。青年は彼女に声を掛けることなく彼女の視線を追った。
彼女の目はプラスルではなく、もっと遠く、ミナモシティの海に揺蕩う何者かに向けられている。
浅瀬の際のあたり、数匹でふわふわと波に漂うその紅い存在が、彼女の鈍色の瞳の中に煌々と映り込んでいる。
瞬間、彼女は白いアスファルトを強く蹴り、細く長く伸びる船着き場から浅瀬へと飛び降りた。
小さな二つの踵に羽でも生えているかのように、その動きはあまりにも俊敏だった。青年も、プラスルでさえ、追い付くことができない程の軽やかな動きだった。
尖った岩場を強引に乗り越える。脚に岩が擦れて血を流そうとも彼女は一切の躊躇を見せない。岩の隙間に靴を奪われようとも、そんなことで彼女の踵は止まらない。
何が彼女をここまでさせるのか、分からないままに青年は彼女を追った。
浅瀬には足跡の代わりに彼女の落とした血がやわらかく溶けていて、何故だか首の締まる思いがした。
トキちゃん、と名前を呼んで、ようやく浅瀬の際で足を止めた彼女の肩を掴めば、勢いよく振り返って逆に腕を取られてしまった。
強い、強い力だった。僅かに痛みさえ感じる程の強烈な握力だった。その力をも凌駕する鋭い瞳と、その瞳さえ凌駕する重い声音が青年を射抜いて、捕らえて、離してくれなかった。
「あれは何? あの綺麗な花、この広い海をどこまでも泳いでいける紅い花……」
「……」
「花って、もっと不自由なものなのだと思っていたわ。綺麗で素敵なものはみんな不自由で、窮屈で、退屈なものばかりで……」
でも、そうじゃなかったのね。そう告げて彼女は力を抜いた。瞳も、声音も、手の力も、何もかもの迫力を失い、彼女は浅瀬にぺたんと膝を折った。
瞬きを忘れた鈍色の瞳にはやはり、海を揺蕩うやわらかな紅色の「花」が映るばかりで、
脱げた靴を持ってきてくれたプラスルも、同じように膝を折って屈みこんだ青年も、その悲しく美しい視界の中に入ることが叶わないままであった。
あれは花ではなくサニーゴというポケモンなのだと、集まってサンゴ礁に擬態することがあるのだと、たったそれだけのことを説明できないまま、青年は沈黙していた。
彼にとっては日常の光景、少し視線を向けてすぐに逸らしてしまうであろう、いつもの、何の変哲もない故郷の海。
そこにこれ程までの衝撃を受ける彼女が、珍しくもないポケモンの姿にここまで心打たれてしまう彼女のことが、恐ろしかった。
自分はもしかして、とんでもない人物に恋をしてしまったのではないかと思ってしまった。青年は彼女に心を取られたことを、少し、ほんの少しだけ悔いてしまった。
けれどもきっと、もう遅すぎたのだ。だって、美しい。自由な紅い花に恋をする彼女の横顔が、もう、こんなにも美しい。
「私、あれになりたい」
紅い珊瑚、海に咲く自由な紅い花。
脚や腕を切り傷だらけの血塗れにして、赤い旅衣装を浅瀬の海水に濡らした彼女、色だけは「あれ」とお揃いにした彼女。
彼女の望みを叶えられるだけの自信が青年にはなかった。彼女の衝撃は、感動は、羨望は、青年の理解と共感の範疇をとうに超えてしまっていたからだ。
だから青年は祈るしかなかった。自身の生まれ育った場所であるこのホウエン地方に、どうかと祈るほかになかったのだ。
どうか、どうか、彼女をあの花に。