花染の綱に足を乗せ焦がれた人へと渡りゆく

(桜SS 2/10)

「綺麗ですね」

「……へえ、科学者にも風情を重んじる心があるのね」

「これはこれは、随分な偏見じゃありませんか」

酷い人ですねと困ったように笑いながら、けれどもこの白衣の優男は私の暴言をすっかり許しているような声音でそう告げる。
眼鏡にぺとりと貼り付いた桜の花弁を剥がすために、彼は上品なデザインのそれをそっと外す。眼鏡を失い、ぐっと幼くなったその横顔を見て、私は小さく笑う。
彼の剥がした花弁は風に煽られて宙を舞う。戻ってきた仲間を歓迎するかのように、数多の花弁がその一枚を抱き込んでくるくると踊る。
軽快な桜色のダンスを眺めつつ、彼は目を細めて眼鏡を掛け直す。

科学的であり多分な無機質性をその身に宿す彼は、けれどもその実とても人間的で、その心にたっぷりの有機質性を飼っている。
無機質と有機質の間にピンと糸を張り、そこを綱渡りして楽しんでいるようなところのある人なのだ。
無機質性を貫く彼の信念はあまりにも情熱的で狂信的だ。有機質性に傾き尽くした彼の誠意はあまりにも一途で切実だ。

私はそんな「綱渡り状態」の彼を見て楽しみこそすれ、その「極振り状態」の彼を愛そうなどという気にはまったくもってなれない。
自らの傍に置くには、自らの内側へと招いてしまうには、その極振りされた無機質性と有機質性はあまりにも鋭利で、危険だと思う。
この男を真正面から見据えるのは、随分と骨の折れる作業である。その無機質性を孕んだ情熱と、有機質性を孕んだ誠意に、できることならあまり触れたくはない、と思う。
彼の情熱も誠意も、私の目にはなんだかとても痛々しく映るのだ。極振りされたそれらに触れると、私が焼き焦げてしまうのではないかとさえ思われるのだ。

「そういうところ、もっとシアの前でも見せればいいのに」

「……眼鏡のことですか?」

「そうじゃないわよ」

だから私は、こうしてちょっとばかし心を遊ばせているくらいの彼が好きだ。
今の彼は無機質か? 有機質か? ……などと、思案せずにはいられない程度の綱渡りをしている彼が好きだ。
私の後輩が焦がれた彼の姿は、きっとこれではないのだろう。あの愚鈍で愚直な私の愛しい妹が慕った彼、その魅力はきっと此処にはないのだろう。
それでも私は、後輩が焦がれていない部分の彼を好ましく思わずにはいられない。妹が知らない部分の魅力を愛さずにはいられない。

「さっき私の暴言を優しく許したように、あの子の言葉も気楽に受け止めて笑ってやったらいいのにって言ったの」

「それは……貴方に置き換えれば、不可能なことであるとすぐに思い至れるはずですよ、トウコさん。過ぎる想いの足枷は、貴方の方がずっとよく知っているでしょう?」

ほら、そういうところだ。そういう「過ぎる想い」の先にあの子がいることを、もっと気軽にあの子へと伝えてあげればいいのにと、思ってしまうのだ。
……けれども科学的であり人間的である今の彼の、その言葉は間違っていない。
そう、我々にはどだい無理な話であったのだ。過ぎる想いの足枷の前には「気楽に」など、途方もない道のりにしかなり得なかったのだ。

我々には、とした途端、あんなにも軽快に舞っていた桜が、にわかにおもたげな様相を呈してきた。
あいつのせいだ、と思った。あいつを想起したせいだ。私の「過ぎる想い」の先にいる相手を思い出したせいで、桜の花弁にまで足枷が付いたのだ。
あまりにも急な情景の変化に私は笑うしかなかった。このおもたげな桜を見てしまっては、先程の軽快な花弁の舞を思い出すことなど、もうできそうになかった。

この白衣の優男はシアのことが好きだ。「どうしようもない程に好き」としても差し支えない程に、彼女に執着し、彼女を崇敬し、彼女を庇護し、彼女を愛している。
けれどもその「どうしようもない程に好き」という真実を、彼はまだシアに伝えていない。
私にはさらりと言語化してみせるその真実を、シアの前で紡いだことはきっと一度もない。

想いは重いものなのだ。過ぎる想いは泥のように重く、その暴力的な足枷は我々の「気楽」への歩みを一切許していない。
彼等が「気楽」に好きを言い合い言葉を許し合うまでには、途方もなく長い時間がかかるのだと容易に察することができた。
私もきっと、その道のりの途中にいる。だからこんなにも今の桜はおもたげに舞うのだろう。そういうことなのだろう。

「綺麗ね」

それでも桜は綺麗で、おもたげに舞う想いを捨てることなどできないままで、けれどもそれがいっとう私達らしいと思えたのだった。

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