(躑躅第三章)
雨があまりにも強く降っていた。ジョウトへと近付けば近付く程に、その雨音は激しさを増していった。
あの日、私達があの穴から抜け出したあの日は、もっと晴れていて気持ちのいい日だった。気持ちが悪くなる程に気持ちのいい日だった。
けれども今、空は曇天だ。気持ちが良くなるくらいに気持ちの悪い空だった。
ああ、きっとあの花は萎れてしまっているのだろう。私はあの花を彼と一緒に見ることができないのだ。そう確信できてしまった。少し、悲しくなった。
そうしたことを思いながら窓の外を見ていた私は、気が付かなかった。
向かいの座席に座った彼が、窓の外の曇天ではなく私をずっと見ていたことに。彼の沈黙はこの曇天ではなく、私の横顔により引き出されているのだということに。
「立派になった」
その音でようやく私は彼の視線に気付き、慌てて彼へと向き直った。
私を見ていたんですか、と困ったように笑いながら尋ねた。そんな風に尋ねた私に驚いてしまった。
ああ、こういう時、私の紡ぐべき言葉は決まっていたはずなのではなかったのか。あれを、あの謝罪を、息をするように紡ぐべきではなかったのか。
こんな時に「ごめんなさい」と一言告げるだけで、私はひどく、楽になれてしまうのではなかったか。
「君は立派になった。見違えるようだ」
「……そんなことありません。今でも私、怖いものが多くて、いつだって臆病で、卑屈だってとても得意ですし、それに……貴方を、待つことしかできなかった」
「そうだとも、君は待っていてくれた、いつ戻るとも知れないこのわたしをずっと」
ありがとう。
そう告げて、きっと彼は笑ったのだろう。けれども私はその笑顔を見ることができなかった。
深く、深く俯いて、両手の人差し指でごしごしと目を擦った。そんな言葉に、有り体な音に泣いてしまうことがとても恥ずかしかった。
春の風に目がむず痒くなったのだということにしてほしかった。けれども彼が、そうした都合の良い解釈をしてくれる人ではないのだということも、分かっていた。
「シェリー、君に触れても?」
「え? ……は、はい」
大きな手が伸びてくる。顔を少しだけ上げれば拭い忘れたものが頬を滑る。顎の先で雫を作ったそれが落ちてしまう前に、彼の指が受け止める。
更に目元へと登ってきたその指が、先程まで私のしていた指の仕事を奪い取っていく。
そんなことをされてしまえば、益々止まらなくなってしまうのだということに、彼はどうやら思い至っていないようであった。
彼がいる。そのせいで、私はどこまでもいつまでも泣いてしまう。
そうして、彼の指では追い付かなくなってきて、ついにはハンカチを彼が取り出しかけたところで、乗っていた電車のアナウンスがコガネシティの名前を告げた。
私達は同時に立ち上がり、ホームへ降りて、大きな歩幅で階段を駆け上がって、改札口を抜けて、駅を出た。
やはりというか、想定通りというか、大通りの歩道沿いにある植え込みには、鮮やかな緑の上に萎れた紅色がずらりと並ぶばかりであった。
雨というものは、この繊細な花には重すぎたのだ。耐えられなかったのだ。それはいつかのカロスに生きた私のようで、思わず笑ってしまったのだった。
「!」
けれども1輪、たった1輪だけ、白い花が雨の重さを逃れていた。
小さな可愛らしい日傘が、植え込みの端に置き捨てられていたのだ。広げた状態で植え込みに立てかけられたその傘に私は覚えがあった。
昨日、全く同じものを私は見た。針金細工のように細い指がその傘を何度も何度も撫でているのを、私は、あの少女の向かいの席でずっと見ていたのだ。
『明日という日に雨が降ることにはきっと意味があると思うから』
ああ、これがあの人の言っていた意味なのだ。私はそう確信してしまった。
「明日、雨が降る意味」は確かに在った。その意味を彼女が作った。雨を逃れるたった一輪の花は、彼女の傘が守った5月の一等星は、きっと私のために生き残っていた。
他の星が雨に潰れてしまう中で、この花だけが私達に咲く姿を見せてくれた。この奇跡をあの人が用意してくれた。あの人の傘が私達に奇跡をくれた。
「今日が、雨でよかった」
彼はそんな私の言葉に驚いたようで、長く、本当に長く沈黙していたけれど、
やがて植え込みの前へと屈み、その白い花に手を伸べて、私の涙を拭っていた時のような繊細な心地で触れて、
「では、わたしもそう思うことにしよう」
と、重ねすぎて空になってしまった空気の色をそっと細めて、告げた。