チャイムの音が遠くで聞こえる。鼻をかみ過ぎたせいで耳が少しおかしくなっているらしく、少しその「ピンポーン」の音がいつもより高く聞こえて不安になる。
ママのスリッパの音がパタパタと聞こえる。お友達が来たのかもしれない。
グズマさんのお母さんかな、と思う。ママと彼女はとても仲が良い。どちらもおぞましいくらいの自愛を飼いこなしているところなんて、そっくりだ。
そうした、侮蔑めいたささやかな反抗心を心の中で唱えて口元を緩ませる。心の中で、唱えるだけにしておく。
ママ達のおぞましい自愛に救われているのは他でもない私なのだから、それを侮蔑しながらも、もう私は拒むことができない。
だから今の風邪っ引きの私はこうして、ママのおぞましい自愛に飲み込まれるがままに、久しぶりの自室のベッドで、こうして看病されている、という訳なのだった。
「……」
耳を澄ましてみる。ママの少し驚いたような声がする。その後に、少し演技めいた、得意げな、それでいて少しばかり恥ずかしそうな低い声が続く。
グズマさんのお母さんじゃない。そう確信することは簡単だった。けれどもその聞き慣れた声の正体を確信するのは、少しだけ難しかった。
「彼だ」としてしまうのは、なんだか随分と傲慢なことのような気がしたからだ。
慌ててベッドから体を起こす。重たい頭を軽く振って、髪を申し訳程度に手櫛でといて、ドアを見る。
「ミヅキ、入りますよ」
「!」
さっきよりもずっと近くで、いつもの声がした。それを「いつもの」としてしまった傲慢に、またもや私は不安になった。
きっと風邪を引いているからだ。いつもならこの確信に喜べるはずなのに、きっと風邪が私の心を弱くしているのだ。
早くよくならなければ、と思う。元気になって、鼻をかむためのティッシュの箱を膝の上に抱えたりする必要がなくなればいい、と思う。
そうすればきっといつものように、ドアの向こうの相手をからかえるようになるはずだ。私が不安になるのではなく、相手を不安にさせることさえできるようになるはずだ。
ゆっくりとドアが開く。やや冷たい風が部屋の中へと吹き込んできて、私は思わず大きなくしゃみをする。1回、2回、……ああ、もう1回。
慌てて膝の上のティッシュを引き抜いて鼻を隠すように押し当てる。まだ隠れきっていないような気がして、もう一枚重ねて、乱暴にかむ。
風邪の典型的な姿を目の当たりにした彼は、その細身を大袈裟に折り曲げてくつくつと笑った。
「これはこれは、随分と辛そうですねえ。そんな質の悪いものを使うから、鼻も立派に赤くなっているじゃありませんか。」
「……ありがとうございます、来てくれて。でも貴方じゃなければもっと嬉しかったのになあ」
「そんなことを言っていいんですか?鼻が痛くならないように、このザオボーがわざわざ極上のものを持ってきてあげたというのに」
そう告げてこちらに差し出されたティッシュの箱は、いつも私が使っているものよりもかなり大きくて、こんなものがあるのだ、と私は少し驚いた。
試しに一枚引き抜いてみれば、あまりにもふわふわしていて、柔らかくて、鼻をかむためのものであるはずのそれを何故だか頬に持っていってしまった。
彼が私の頭を軽く叩いたり、私の頬を軽くつねったりする、あの手の心地を私は思い出した。
こんなにも柔らかくて優しいものを彼に重ねるなんて、と思ったけれど、それでも、この偏屈な個性が、私の大好きな個性が傍にいてくれているようで、嬉しくなってしまった。
「変なの、ザオボーさんがこんなに優しいなんて」
鼻声でそう告げれば、けれども彼は怒ることさえせず、そうでしょうとも、だなんて何故だか得意げに、嬉しそうに笑ってみせて、私の頭を優しく撫でた。
それはまさに、つい先程のティッシュのようで、私は喜びを通り越してなんだかおかしくなってしまった。
変だ。もしかして、彼も風邪を引いてしまっているのではないだろうか。