『ノートを開いてくれない?』
夕方の図書館、一人の少女が分厚い本を読みふける席。その机の上に文字が浮かび上がりました。
「……あ、」
少女の口から零れた音は震えていました。栞を挟むことも忘れて、本を勢いよく閉じて、机の上に手を置いて、その文字を何度も、何度も指でなぞりました。
机の上のその言葉が、少女の都合の良い幻覚ではないということを確かめるように、文字に触れて、自らの名前をなぞって、そうしてようやく彼女は確信するに至ったのです。
鞄の中へと手を突っ込んで、B5サイズのリングノートを取り出しました。少女は僅かな期待を捨てきれず、あれからもずっと、ずっと、このノートを携えていたのでした。
携えてこそいたものの、ノートを机の上に置いて開いたことは、あれから一度もありませんでした。開いてしまえば、いよいよ悲しくなってしまうからです。
いつまで経っても書き込まれない新しいページの白が、彼女の心を殺いでいくだろうことは容易に想像が付いたからです。
……最後にこのノートを開いたのはいつのことだったでしょう。少女はもう、正確な日付を思い出すことができませんでした。
日時の記録をこのノートには付けていなかったからです。付けずとも、構わないと思っていたのです。
少女が「彼女」と話をするのは毎日のことであり、二人は此処に、この図書館に来ればいつだって出会えました。
いえ、時には図書館の外でだって、二人はこのノートを介して話をすることさえあったのです。そうした関係でした。
毎日のことであったから、それが当然のことになっていたから、失われることなど全く想定していなかったから、一瞬一瞬を大事にすることを忘れかけてさえいたから、
だから、その文字が唐突に失われたとき、少女は悲しみに暮れながら、何故、とこれまでの時間を疑いそうになりながら、それでも此処で待つことしかできなかったのです。
震える手でノートを開きました。使い慣れたペンを構えて、待ちました。
ノートの白が、薄く引かれた罫線が、ぐにゃりと歪みそうになりました。
一秒、また一秒と経過する度に、やはりあれは私の期待が見せた都合の良い幻だったのでは、と、疑う気持ちがこんこんと大きくなっていきました。
お願い、書いて。早く来て。私に書かせて。言葉を書いて。私を呼んで。貴方が此処にいると確信させて。
『ごめんなさい、クリス。本、もう少しで読み終わるところだったのに』
そんな文字が、見慣れた彼女の綺麗な文字が、少女の空色の目を穿ちました。
『本なんて! 本なんて! 馬鹿なことを言わないで頂戴、私が、貴方よりも本を大事にする人間に見えるの?』
ページが破れてしまいそうな程に、少女は強く、強く書きました。怯んだように返事を書き損ねた、見えない友人のその一瞬を盗んで、少女は更に、続けました。
『私、ずっと待っていたわ。貴方が来てくれる日を、貴方とこうしてお話できる日を!
もう、消えてしまったのかもしれないと思っていたの。私のことを忘れてしまったんじゃないかって、嫌われたんじゃないかって、そんな風にも思ったりしていたの。
ごめんなさい。本当にごめんなさい。私、さっきから、自分本位な言葉ばかりだわ。貴方もきっと大変な思いをしていたのよね。本当にごめんなさい。
でも私、辛かったから、寂しかったから、貴方に会えなかったから、ずっと会いたかったから、……だからしばらくの間、貴方を責める言葉を止められそうにないの。』
強すぎる筆圧で、ページにはしわが幾つも出来ていました。そこに水まで落ちてくるものですから、もうそのページは使い物になりそうにありませんでした。
風が吹き、そのページがゆっくりと起き上がりました。
新しいページ、しわの付いていないページ、けれども涙の跡が少しだけ染み込んでいるページに、その見えない友人はたった一言、
『聞かせて』
と、書き込んでしまったものですから、少女は少しだけ笑うことができて、安堵と歓喜と衝動のままに、そのページにも、次のページにも、自分本位な言葉を書き続けました。
見えない何かはただ静かにそれを許していました。
泣きながら、時に笑いながら、ものすごい筆圧でノートに言葉を書き込み続ける少女のことを、夕方の図書館にいた数少ない生徒や教師はどのように見ていたのでしょう。
不気味に思ったかもしれません。彼女を知る人が見れば、いつものことだと思ったかもしれません。
……もし、彼女をとてもよく理解している人がそこにいたなら、何かを察して微笑んだことでしょう。
いずれにせよ、それら全ては今の少女にとってどうでもよいことでした。
彼女は今この時、自らの世界の全てを見えない何かに捧げていましたから、それ程に大切な存在だったものですから、それ以外の一切合切は何も分からなかったのです。
『やっと会えた。ずっと会いたかった』
重すぎる諦念により、物語は随分と錆び付いてしまっていて、再びそれを動かすことは困難を極めそうでした。
それでも、風は再び吹きました。見えない何かは確かにそこにいました。少女にとってはそれだけで十分でした。
『私も、会いたかったよ。またお話、してくれる?』