こんにちは、雪村さん。こちらでは少しお久しぶりかな? またこうしてお話できてとても嬉しく思います。
い、いかん。まだ先週の喜びの余韻が……顔がニヤニヤしてしまいますねフフフラダリ
いつも沢山お話してくださりありがとうございます。
返信が遅くなったりそのまま寝落ちてしまったりと無礼も沢山働いているかと思うのですが、続けてくださりとても有難いです。
まだ今後、大きな選択を迫られる機会というのが幾つか起こりそうで、その全てに関してやはり私は心を乱すことになるのだとは思います。
その全てに対して「あっこいつまたやばいことになってるな、励まさないと」と思われる必要は全くないので、のんびりと見守っていただければ幸いです。
最近は、頻繁にいろんなお話を雪村さんとすることができていたので、交流がない日であっても、
いつでも雪村さんに見ていただけているような、いつでも支えていただけているような、そうした有難い気分になっていました。
うええいアクロマさんかっこいいやったー!!(落ち着け)
い、いやでもお相手さんだってかっこいいはずや! 雪村さん! かっこいいんですよお相手さんも! ただ提示できる愛の種類が異なっているだけの話でね!
それに関連して「愛している」について少しだけ。
この言葉については大変悩ましいところではあり、私も何をもって愛なのか断定しかねるところが沢山あるのですが、
【彼より先にいなくなりたい】【貢がせてる感が凄い】【譲歩しない】などの理由で「愛していない」と結論付けるのは早すぎる、とだけは自信を持って書かせていただきますね。
実はつい先日、非常に幸運なことに、愛に付いて議論する機会を頂戴いたしましたので、愛することに関する議論のストックが今、私の中には沢山あるのですよフフフラダリ
折角のサイトの場で書けるお返事ですから、少し長めに書かせていただきますね。くどいなあと感じられましたら流し読みで、お願いいたします。
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雪村さんがご言及くださったSchedule of moonflowerですが、こちらは私が愛についてはっきりと明記した数少ない作品の一つです。
(【プラターヌ博士が嫌いになれない原因です】には爆笑させていただきました。そうですよね当サイトでは一番マシなタヌですものね、私もそう思います!)
「愛すると、長く生きたいと思えるようになるんですか?」「愛すると、先に死にたいと思えるようになるんですか?」「私もそんな風になれますか?」(十二話)
前回の連載でも書かせていただいていましたが、私は、これこそが愛であると考えていました。
「愛」と「命」は良くも悪くも濃い繋がりがあるように感じています。
長く生きようとすることも、先に死のうとすることも(これは木犀にも該当しますね)、私は等しく愛であると考えます。
その判断は各人に委ねられて然るべきだと思っていますが、私は「かけがえのない相手の命に触れること」が愛の最低条件であるような気がしてならないのです。
一方、「躑躅」という連載に記した愛は、書いた本人にあまり自覚がなかったのですがこれとは随分異なるタイプの愛であったようです。
「貴方が私の中に生まれてきてくれた時からずっと、貴方のことが大好き」「子供が生まれたら、きっと貴方の時間はなくなる」
「私は今までずっと私のために生きてきたけれど、これからはこの子のために生きるの。この子に何もかもを奪われてしまうこと、全てを捧げて生きていくこと、とても楽しみなのよ」
「貴方の全てを捧げる価値がその子供にあるかどうか、まだ分からないのに?」
「いいえ、価値なら既にあるわ。この子が「生まれてきてくれる」という、かけがえのない価値が」(17話)
これはどうやら「見返りを求めない、無償の愛」であるようです。
これから生まれてくる子供に全てを食いつぶされてしまうかもしれなくても、それでもこの母親の愛は変わらない。それでもこの母親は我が子を変わらず愛し続ける。
このように、愛した結果の如何は問わず、「ただそこにあるだけでかけがえのない想い」こそが愛だと、そのように愛を考えることだってできるようです。
このように「愛とは?」というのが全く分からない状態で書いた今回の「Crazy Cold Case」ですが、
ネズさんには「選択することこそが君にとっての愛だ」などとぶっ飛んだことを明言していただいています。
彼は、選択不能性という厄介な課題を抱えるユウリに対して「愛」という、確信を持てない概念を差し出しそれを拠り所とするよう促していますが、
実はこのぶっ飛んだやり方、とてもその……「お手軽」です。
愛という「なんだかよく分からないもの」について、「それはこうだ」と定義付けを自ら行うことにより、その定義に沿った想いであれば愛だから何も迷わなくていいんだ、とする、
この「定義化された、可視化に足る愛」によって今回のユウリは救われるに至っています。
ただこれは、愛というものが「相手を救ってくれるものだ」という確信が双方の間になければ成り立たないので、
(相手が、愛を「自分を破滅に導くおそろしいもの」だと考えていたなら、この定義付けにより益々相手を苦しめることになるでしょうから)
定義付けの前にしっかりと信頼関係を構築しておかねばならないのが大変なところですね。
実は木犀にも似たような描写があります。
「あれが少女の愛だったというのなら、それを受け入れよう。わたしは愛されていたのだと、そう思うことにしよう。
そう思い、微笑むことができるくらいには、男は「彼女」を愛していたのだ」(26話)
今はもういないシェリーが為した「愛の定義」に則り、ならばきっとわたしも君を愛していたといって差し支えないだろうな、と判断したフラダリさん。
この二人は生きていた間もそうですが、シェリーがいなくなってからこの真理に辿り着いたということもあり、
愛というものの成立に必ずしも「命」は必要ではないのではないか、と考えることもできてしまいます。
さて、LINEのやり取りでも引用したことがあるのですが、
「ただそこにあるだけでかけがえのないもの」というものを、愛という言葉ではなく「希望」という言葉で表現したことがありました。
「貴方にとっての希望とは何ですか」
「何をせずとも、何も言わずとも、ただそこに在るだけで価値のあるものよ」
「……その場合の価値とは、何ですか」
「あたしが、あたしのままでよかったと思わせてくれるような喜びのことよ」
ポケモンではない連載の話なので概要だけ簡単に説明いたしますが、
この「希望とは何ですか」と問うている青年の側は、この問いを受けて、女の子との別れ際に彼女のことを「希望だ」とします。
そしてその「希望」である彼女に対して、「ただ、生きながらえてくれればそれで構いません」「希望とは、ただそこに在るだけで価値のあるものだから」と、告げます。
この遣り取りと、前述の「Schedule of moonflower」この2つが私にとっての愛ないし希望を、もっともよく表していると言えるような気がしています。
私にとって、愛ないし希望というのは、相手に多くを求めない形が美しいとは思っていますが、それでもどうやら完全なる無償化はしきれないようです。
(言ってしまえば「躑躅」のクリスさんのようには、どうあがいてもなり切れない、ということです)
私の考える愛や希望においては、やはりどうしても「生きること」だけは望んでしまう形を取らざるを得ませんでした。
(すなわち「木犀」においても、フラダリさんやシェリーのそれではなく、シアが0.9話で呟いていた「それでも、生きていてほしかった」が一番近い想いだ、ということになります)
この「命への傲慢」を孕んだ愛とか希望とかいうものについて、私は自身のこの解釈をそれなりに気に入っています。
命ありきで愛を語る、この傲慢を含めて、私らしいなあと思っています。
この「私らしさ」をもって、私は自らの愛がこのような傲慢性と共に在ることを受け入れ肯定しようと考えています。
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やばいなこれ、めちゃめちゃ長くなってしまった……(今更!)
このサイトにある拙作はいずれも私の手で書いたものです。つまりこの、沢山ある愛の形も全て私が考えたものには違いありません。
ただ「愛を書いている」という意識がないものにさえ、読んでくださる方の側から「愛」を見てくださる、というようなパターンもございました。その最たる例が躑躅17話ですね。
参考資料がめちゃめちゃ長くなってしまいましたが、ようやく、ようやく雪村さんの「愛していない」を否定するときがやってまいりました。
「それが愛であるか否か」を決めるのは無償化の程度でも美醜でもありません。
「貴方が、かけがえがないと思える相手に寄せる想いの形」だけが、貴方にとっての愛を定義付ける権利を持っている、と私は考えます。
愛というものはどうやら、多様性に富んでいるようです。描写した側が意識していないところに愛を見てくださる方も、いらっしゃいます。
何を愛とするのかが人によってあまりにもこのように異なるからこそ、他者の深淵を覗く、のと同じような感覚で、
愛に関するエンターテイメントは沢山生み出され続けているのかもしれませんね。
でも、雪村さんとお相手さんの愛は、Schedule of moonflowerや躑躅や木犀のように、不特定多数の方に開示すべきものではありません。
私と先生の間にも言えたことではありますが、二者の間に通ずる愛というのは、その二者の間での同意さえあればどのような形であっても成り立たせていいんじゃないかなと、考えます。
我が儘に見えたとしても、先にいなくなりたいと思ったとしても、ちょっとばかしお相手さんに買ってもらうものが多かったとしても、
それらに関して二者の間での同意があり、それらの想いを受け止めるだけの度量が互いにあったなら、それは第三者には到底否定しようのない、お二人だけの繊細な愛の形です。
肯定してしまって、差し支えないものであると思います。
だからこそ、雪村さんも書かれていましたが、その愛が結ばれるべき二者の間では積極的な【話し合い】が必要で、
その場を【会議】という形で設けると約束しているというお話には、本当に感動いたしました。
ほらぁ雪村さん、双方の愛のすり合わせに必要なことが結婚前からしっかり分かっておられるからほらぁ!
以上、本当に長々と書かせていただきましたが、参考程度にしていただければ嬉しく思います。
私の考えとしては「【彼より先にいなくなりたい】【貢がせてる感が凄い】【譲歩しない】などの理由で「愛していない」と結論付けるのは早すぎる」が全てです。
たったこれだけの想いにもっともらしい根拠を持たせたくて、とんでもなく長々と連ねてしまいました。うーん要約力が足りないよ!
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FGOの広告、どのようなものかと調べたのですがこれはまた……綺麗ですね……!
タンバシティのエリアは7月6日の分に入っているとのことですが、残念ながら家では新聞を取っていないので、実家に連絡して確認を仰ぐほかにないようですね。
い、いやこの日だけ購入してもええんやけれども!
あーっ二世様も出るかもしれないのですね、そうかそういうことか……いいな……二世様が訪れてくださるなんていいな……いいなぁ!(錯乱中)
いやぁ楽しみが増えてしまいました。いつもありがとうございます。というかその前に私は早く書籍を! 読み終えなきゃなんですよね!
でもセイボリーのせいで(セイボリーのせいにするな)またしても読了が遠のきそうです。
しばらくは24、セイボリーについて叫びまくることになるかと思いますが、まあそのうん、笑って流していただければ幸いです。
では、長くなってしまいましたが此処までのご読了、ありがとうございました。
今後ともこちらでも、あちらでも、お喋りできると嬉しく思います。またお会いしましょう!
(追記)
ぬいぐるみではなく、ユキハミでもないのですが、粘土樹脂? のようなものでちょうかっこいいインテレオンがカップラーメンの3分を測っているお写真をついったで確認しました。
ポケモンファンの皆さんのアート力は本当に、素晴らしいの一言に尽きますね……!
ユキハミ、大勢の方がぬいぐるみを作っておられてびっくりしました。ひぇみんなかわいい……SUKI……。