6、主人公になった悪役について
残るはあと2人ですが、まずはグズマさんの話からさせていただきます。
主人公と悪役は、第三章の64話目以降はずっと一緒にいますが、それ以前は数える程しか会っていません。
数える程しか会っていなかったにもかかわらず、互いが互いにとってかけがえがなかったのです。……なんだかBWのNと主人公に似ていますね。
以下、それぞれの話数を示しつつ、彼等の時間を振り返ってみたいと思います。
1回目:6話
「私は、私にしかできないことが欲しい!」とミヅキが明言した回です。ぶっ壊れている相手に対して、彼女は張り合うかのように自らの歪な個性を笑顔で開示しました。
お揃い、大好き、といった言葉は彼女にとって挨拶にも等しい言葉でしたが、彼とのお揃いも、彼への大好きも「特別」であることも、此処で一度、はっきりと示しています。
2回目:38-39話
ハイナ砂漠で迷子になっていたミヅキを、グズマさんが偶然にも見つけてしまいました。暗がりということもあり、彼女は少し油断して自分の脆いところを見せます。
こちらはミヅキのための回というよりは、グズマさんのための回でした。彼の異常性、彼の家庭環境に関する言及を、一度しておく必要があるように思えたのです。
3回目:45-46-47話
「私も死んだら大切にされるかしら?」「貴方は宝石を食べられる人間でよかったですね」「私も貴方もいつか、輝けるといいですね」「貴方のこと、大好きでした!」
これらは全て、ミヅキがグズマさんにだけ紡ぎ得た言葉です。自らの中枢とも言えるところを開示した彼女が、それでも自らの信念を曲げなかった、間違った決意の回です。
「あいつは壊れない。あいつの心は折れない。あいつは一人にならない。あいつは、何もかもを犠牲にして笑うことなどしなくてもいい」
このグズマの祈りが、以降、この上なく残酷な形で蹂躙されることになります。
4回目:13-14話
一度目の蹂躙。アローラで出会ったキャプテンや島キングに自らの「大切なもの」を託し、何も言わず姿を消し続けてきた彼女が、唯一、彼にだけは本当のことを告げます。
此処で彼女が働いた「裏切り」には二種類あります。一つはグズマの「あいつは壊れない」という祈りへの裏切り。もう一つは彼女がかつて笑顔で語った「お揃い」への裏切りです。
頼むから壊れてくれるな。頼むから「お揃い」を捨ててくれるな。そう願いながら、祈りながら、……けれど、彼は手を伸べることが叶いませんでした。
5回目:22話
二度目の蹂躙。「しびれごな」の効果が切れたグズマさんが単身、エーテルパラダイスに乗り込んできて、氷の中で眠るミヅキを見つけてしまう回です。
ここでも彼は手を伸ばすことに失敗しています。すぐ傍にいるのに触れられないという「もどかしさ」を、どのような動作や台詞で表現しようかと、随分、悩みました。
6回目:30話
三度目の蹂躙。またしても彼女に触れられない「もどかしさ」を経る……というのも重要なのですが、実はもう一つ外せないポイントがあります。
「ルザミーネさん、もういいんですよ。貴方にはもう、代わりなんか要らないんですよ」……という彼女の諦めの声を、リーリエだけでなくグズマさんも聞いている、という点です。
「私も貴方もいつか、輝けるといいですね」という彼女の言葉、グズマさんにとってかけがえがなかったその、誓いの言葉。
それさえも蹂躙されてしまった心地……というものを、想像していただけると嬉しいです。
7回目:40話
四度目の蹂躙。チャンピオンの間の写真をプルメリに見せられるところです。
けれどこの蹂躙を経て彼が「ふざけるな」と思えたからこそ、ミヅキの旅路の追体験を始めることが叶ったのですから、この回もこの物語には外せないところでした。
8回目:64話
彼の祈りがようやく届きました。
7回目と8回目の間にある「ミヅキの旅路の追体験」についても少し、触れさせていただきます。
ミヅキ不在のままに書き連ねてきたこの島巡りですが、この役目をグズマさんに担っていただいた意味、というのが幾つかありました。
「キャプテンや島キングといった面々が彼女をどのように見ており、彼女にどのような感情を持っていたのかを、第三者の視点から明らかにすること」
「過去のミヅキが抱いていた排斥への恐れ、それを払拭するために纏い続けていた笑顔と博愛、そうした全てが不必要なものであったと、グズマに確信させること」
「ミヅキを少なからず案じている彼等の祈り、願い、後悔を背負って歩くことで、大人になりきれていなかったグズマさんにちょっとだけ、変化をもたらすこと」
「不在の間、ミヅキについてあれこれと考え続けることで、彼の「その手を掴んでやる」という決意を大きく膨らませ、その気概と勇気を確固たるものとすること」
どれも、64話でミヅキを「殴る」のではなく「抱き締める」ということをさせるために、必要なことでした。どれが欠けても、きっとあの64話は在り得ませんでした。
……勿論、他の誰でもないグズマさんが、他の誰でもないミヅキの島巡りを追体験することによって得たものを、あのザオボーさんが見透かしていない筈がありません。
故にそうした何もかもを心得た上での、「ああ、やはり君だ。君でなければいけない!」(57話)であったのだと思います。
それでもやはり最善手に拘るザオボーさんは、交換ノートを使って「出てきてください」などとらしくない懇願までやってのけたのですが、
結果的にその最後の遣り取りが、ウルトラスペースを出てきてからのミヅキを支えるに至ってしまった……というのは、流石の彼も予想していなかったことでしょう。
7、悪役になった主人公について、その1(概要と、グズマさんとの比較)
さあお待ちかね、ミヅキの登場です(笑)誰も待っていなかったとしても、書きます!
悪役であった筈のグズマさんを主人公にしてしまった、とんでもなく破天荒な悪役を書くことができて、個人的にはとても、とても楽しかったです。
女性主人公の人格を設定するのはこれで8回目ですが、今までで最もぶっ飛んだものになってしまった、という自覚は残念ながらあります。
「駄目だこいつはふざけていやがる!」ということは重々承知しておりました。解っていながら、貫かせていただきました。そういう意味で一番おかしかったのはきっと、私です。
この2か月半の間、ミヅキに関するコメントを沢山、本当に沢山、頂きました。とても、とても嬉しかったです。
けれどそうした歓喜以上に、ミヅキへの「共感」のコメントをこんなにも沢山お寄せいただけたことに、ただただ、驚いていました。
自らが宝石でないことを認めたくない。人に覚えてもらいたいがためにわざと歪なことをする。誰かを嫌うことがとても恐ろしい、輝いていたい……。
正直、理解を求めるのもおこがましいくらい、惨たらしい描写だったと思います。
笑顔と博愛という、それ単体ではどう足掻いても惨くはなりえない二つの要素を、けれど極端に極めすぎた結果、異常と呼ばれざるを得なくなってしまったミヅキ。
魔法使いに、勇者に、騎士に、お姫様になりたくて、けれどそのどれも叶わなくて、だから排斥されないようにと笑い続けて、大好きと媚びを売って、歪な努力を重ねて……。
炎に手を入れたり、大好きな人のために眠ったり、日記をビリビリと破き捨ててその上で尚「大好きだよ」と笑ったり、挙句の果てにウルトラスペースに逃げ込んだりして……。
身勝手な恐怖に怯えていた女の子でした。夢見心地な女の子でした。
忘れられた、というだけの些細な過去、けれど11歳の子供にとっては大きすぎたトラウマを抱えながら、笑顔と博愛を武器に取ることを選んだ、女の子でした。
そんな彼女の生き方に心を寄せてくださり、本当にありがとうございます。
……さて、このミヅキに、ともすれば同化に近いような共鳴の仕方をしたグズマさんですが、彼と彼女は悉く似ているようで、実は致命的なところが異なっています。
それについて少しだけ、お話ししようと思います。
グズマさんもミヅキも、家庭環境が劣悪だったという訳ではありませんでした。
けれどグズマさんは自らの野望を、力を、認めてもらえませんでした。ミヅキは誰にも見送られることなくカントーを発つという屈辱的な経験をしました。
彼も彼女も、「このままでは息ができなくなる」と思いました。彼等は幼い心でどうすればいいか必死に考えました。
グズマさんは暴力に縋り、ミヅキは笑顔と博愛に縋りました。小さな心ではそうした解決策しか思いつくことができませんでした。
二人の歪んだ足掻きを、認知を、誰も修正してくれませんでした。踏み込もうとしてくれる大人は沢山いたにもかかわらず、グズマは拒み、ミヅキは逃げました。
そうして彼等は、極めなくともいい孤独を極めるに至ったのです。
……ここまでが二人の共通点であり、彼等が悉く共鳴するに至ったその下地です。
そんな彼等の違いは何処にあるのかと問われれば、おそらく互いの世界で「揺らいだもの」が異なっていた、というのが一番大きいかもしれません。
グズマさんが求めたのは「力」です。自らの実力を認めてもらうこと、強さを知らしめることが何よりも重要でした。
彼の「価値」は「承認」の形をしていました。だから彼はルザミーネさんに認めてもらえるだけで満足できたのです。ぎこちなくも、まっとうに生きることができたのです。
一方、ミヅキが求めたのは「幸福」です。大好きだと、幸せだと、そうした言葉は全て彼女自身のためのものでした。
彼女は自らが幸せであることを、自らが輝けていることを、自らにも他者にも知らしめなければいけませんでした。
厄介だったのは、彼女にとっての「価値」が、どう足掻いても手に入らないようなものであったことです。
彼女の「価値」はどんな形をも取りませんでした。まるで水銀のように、救い上げても指の隙間からつるりと逃げていくような、虚しい不定の姿しか呈していませんでした。
誰がどれだけ彼女に宝石を見たとしても、どれだけ承認されても、歓迎されても、そこに「彼女自身の納得と同意」がなければ何の意味もありません。
彼女は「今の私は幸福であるのか」を、判断することができていません。
彼女が自信をもって紡げていた「幸せ」の尺度は、彼女がクチバシティの船着き場でその存在を忘れ去られてしまった途端、泡のようにパチンと弾け飛んでしまいました。
だからこそ、この少女には誰の言葉も届かなかったのです。
どんなに温かい言葉をかけられても、どんなに頼られても、憧れられても愛されても、彼女は、それが本当に幸福なことであったのかどうか、まるで解っていなかったのです。
交換ノート編でザオボーさんの言葉が彼女に届いたのは、彼女が「幸福」や「宝石」を求めなくなったからです。
喉の渇きを訴えるように乞い続けてきた「幸福」だとかいうものを、彼女はこの時、すっかり忘れていました。ただ夢中で、彼の文字を読んでいました。
求めることをやめた瞬間、彼女はようやくそこに「幸福」を見ることが叶ったのです。
彼女の受けた屈辱が、彼女の幸福ではなくもっと別の、例えばグズマさんと同じような「力」に関するものであったなら、物語はもっと短くなっていたことでしょう。
勿論、強さを貪欲に求め続けることにはまた別のリスクが伴いますが、少なくとも、チャンピオンの間にあのような黒雲が渦巻くことはなかったのではないかな、と考えています。
自らの「幸福」が揺らいだ時、11歳の少女はどのように生きようとするのか。
この問いに対する私なりの答えが「マーキュリーロード」です。
子供は往々にして、自らが輝いていること、またそんな自らを支えてくれる人がすぐ近くにいることに、なかなか、気が付かないものですよね。
そうした愚かな、けれど懸命に生きていた彼女を、どうか許していただければと思います。
彼等の違いについて言及してくださったリイさんに、今一度、心からの感謝を申し上げます。ありがとうございます。
2017.2.14