1話目ひとつめ、ふたつめ
2話目ひとつめ、ふたつめ
3話目ひとつめ
4話目ひとつめ(今回分)
5話目ひとつめ
+ まだズミさんそんなに怒鳴ってない
「静かなものでしょう、ゲスト席。彼女がシェリーだってことが誰の目にも明らかだったら、今頃それはもう大騒ぎですよ。何せあのパレード以降、外でほとんど姿を見かけることがなかった彼女の、博士と二人きりでのお食事会なんですからね」
「……つまり、誰も彼女がシェリーであることに気付きさえしていない? そんな馬鹿な話が」
「気付いている方もいるとは思いますけどね。知らないフリをしているんじゃないでしょうか。声を掛けることを皆が躊躇っているように見えます。無理もありませんけれどね、あの有様では、怖くて」
怖い、とははまた随分な言い様だ。ポケモンバトルの場であるならともかく、ただつまらない笑顔を浮かべるだけの彼女に、恐怖を抱くなどということがあるはずがないのに。
そう思いながらズミは鼻で笑った。それはそれはと相手を揶揄する気持ちさえ込めてみせた。だが少年……いや青年としておこう。その青年はズミに憤るでも抗議するでもなく、ただ眉を下げたまま静かに笑うのみだった。まるで「貴方に見えていないものがあるのも無理からぬことだ」と、ズミの誤解と盲目とを慈悲深く許すように、微笑んでみせたのだ。
『ずっと痩せ続けている? 異常だ。何故誰も何も言わない?』
一昨日、怒り任せにプラターヌへと捲し立てた言葉の一部が、その瞬間ふわりとズミの脳裏に浮き上がってきた。だがその「言わない」というやる気のない所作に、躊躇いや恐れなるものが挟まるのであれば話は変わってくる。何も「言わなかった」のではなく「言えなかった」のだとしたら。彼女の異常性を敢えて指摘せず放任しているのではなく、もっと別の事情が、彼女の周りの人間から言葉を奪っているのだとしたら。
そうした具合に、正しいのはズミではなくこの青年の方なのではないかと、疑い始めたら止まらなくなってしまった。何かとんでもないことが起きている予感がした。その予感が正しいことを証明するかのような最悪のタイミングで、パイ生地はまたしても破けた。
「おーいズミさん。博士たち帰っちまいますよ。挨拶したいって言ってるんで、ちょっと来てくれませんかね」
先程の若いスタッフが戻ってきてズミを呼んだのは、そこからズミが持ち前の精神力でなんとか調子を取り戻し、いつものペースで芸術品を次から次へと造り上げ、調理と呼べそうなものが粗方ひと段落した頃のことだった。
もっともシェフは多忙な身、こちらから顔を出すだけの時間的余裕など、忙しさのピークを過ぎたところで本来ならあるはずもない。だがゲストが呼んでいるというのであれば、レストランの顔たるシェフとしては足を運んで然るべきだ。そういった具合に、彼女に会う正当な理由を得たズミは、冷たい水で手をやや乱暴に洗ってから、大きな歩幅で厨房を飛び出しゲストルームへと向かったのだ。
「やあ! 今日はどうもありがとう。有り体な言葉で申し訳ないけれど、どれもとても美味しかったよ」
白衣ではなくベージュのスプリングコートに身を包んだプラターヌは、すぐに見つかった。そしてその傍に佇む、今まさに帽子を目深に被ったばかりと思しき、小柄な女の子の姿も。
「シェリーを連れて来てよかった。彼女がお皿を空にするところを見たのは久しぶりだ。おかげでちょっと安心できたよ。やっぱり君の料理って凄いんだね」
ピリ、と何かが破ける音がした。今日ズミはパイ生地を誤って破くという失態を何度か犯したが、今ズミの鼓膜に届いたそれは、あの柔らかな生地に穴を開ける音とは、何かが決定的に違っていたのだった。
彼女へと駆け寄ろうとして踏み出した足が、ひどく重かった。自らの体の一部を何かに盗られてしまったような感覚に、ズミは驚きつつ下を見遣る。けれど足枷の類は付いていないし、ここへ来るまでに強く捻ってしまったという訳でもなかった。ズミは何もおかしくない。おかしくないにもかかわらず、ズミの足は彼の意思に反して、苛立ちさえ覚える程のゆっくりとした歩みでしか進まなかった。
「あの」
彼女を振り向かせるべく掛けた声は、自分のものとは思えない程に小さく細く、震えていた。
「……あ、あの」
何故だ。おかしい。おかしい!
ズミの一切は何らおかしくなどないはずなのに、何処にも異常などないはずなのに、どうして己が足も声もこのような情けない有様なのだろう。何故、この体は彼女を恐れているかのような挙動ばかりするのだろう。
『声を掛けることを皆が躊躇っているように見えます。無理もありませんけれどね、あの有様では、怖くて』
何故、あの青年の言葉がこんなにも強い実感として「分かってしまう」のだろう。
二度、声を掛けても彼女は振り返らなかった。三度目の声を絞り出すことを諦め、ズミは彼女の肩へと手を伸ばした。できるだけそっと、指の腹を肩のなだらかな部分に乗せるような形で触れれば、ようやく彼女は俯いていた顔を上げた。急に触れられたことにさえ一切の驚きを示さないまま、彼女はゆっくりと振り返り、こちらにその目を向けたのだ。
ズミを含め、この世のあらゆるもの一切を映していない壊れ切った目、鉛玉を埋め込んだような暗すぎる目を。
早く怒鳴っていただきたい