めも

(なんかそれっぽい窮地から監督生を救出した直後)

「怖かったでしょう」

 そう声を掛けると彼女は笑い始めた。腹を抱えて、背中を曲げて、鼻水を垂らしながら大口を開けて、目からぼろぼろと涙を落としながら、それでも至極楽しそうに笑い続けた。心底おかしい、といった表情だったので少し、ほんの少しばかり狼狽えてしまった。本当に動揺してしまったとき、己が眉は正しく下がってくれない。分かっていたが今、自分が酷い顔をしているという自覚があるだけに、どうにも悔しく思われてならなかった。

「あっはは、本当におかしい! 何を分かったような口を利いているんですか?」
「……監督生さん」
「貴方に私の恐怖なんか分かる訳ない。貴方に私の怖さを推し量ってもらうために貴方を信じた訳じゃない。こんな思いなんてしたことない癖に、寄り添う素振りだけされても気持ち悪いだけなんですよ!」

 相変わらずひどい暴言である。ちゃんと最後には助けてやったというのにこんな仕打ちはあんまりではないかとも思う。ただこちらに向けられる棘、いつもと変わらぬ鋭利さを孕んだそれらの言葉たちが、自分を弾くためでも自分から逃げるためでもなく、自分を受け入れるために発せられている言葉であると、何故だか確信が持ててしまう。だって彼女が笑っている。大口開けて腹を抱えて、鼻水も涙も曝け出して、何も隠し立てせずありのままに、泣いて、笑っている。異常なことだ。ひどくおかしく面白いことだ。だって彼女は、……自分の前でこんな風に笑ったり泣いたりするような人間ではなかった。

「僕を信じた?」

 だから、期待してしまった。自分の中の何かがこの人に決定的に許されていると確信できてしまったから、もう少し、もう少しと欲しがりたくなってしまったのだ。

「何故そんなことを? 貴方は僕のことを見限ったのではなかったのですか?」
「私が? 弱者にそんな権限、最初からありませんよ。私を見限ったのは貴方の方でしょう。私は、貴方であれ他の強者の誰であれ、信じて媚びを売ってすり寄ることでしか生き残れない矮小な生き物でしかないんです。だから私からは貴方を突き離せない。貴方はそれを分かった上で私をおもちゃにしていたんじゃなかったんですか?」
「……」
「でも、それでもよかったんですよ。貴方に最後まで騙されて、怖い思いをさせられて、最悪死んでしまうようなことになったとしても」
「何ですかそれは。こちらの想いは最初からあってもなくても構わなかったとでも言うおつもりで?」
「ええそうです。私は貴方の想いなんか望める立場じゃないから」

 でも、と彼女は付け足して笑う。自分の前では在り得なかったはずの笑顔である。こちらを拒絶している訳でも無視をされている訳でも諦められている訳でもないはずなのに、何故だかひどく恐ろしかった。今から自分はこの人に決定的なところを「持って行かれて」しまうという予感に肌が粟立った。あまりに急激で劇的な変化だったものだから……忘れていたのだ。
 自分は「これ」を手に入れるためにこれまで戦い続けてきたのだということを。

「でもリーチ先輩、私を使って遊んで遊んで遊び尽くして、最後にちょっと助けてやろうと思ってくれる程度には、私に情があったんですね」

 情なんてものじゃない、とすぐさま否定しようと思ったのにできなかった。彼女が制服の袖で目を隠し、深く深く俯いたからだ。

「嬉しいです」
「……嬉しい? 情などというものだけで?」
「ええ、十分です。私、嬉しいです。嬉しくて嬉しくて、もういつ死んでもいいと思えるくらい」

 くぐもった声で発せられる「死んでもいい」が鼓膜に届いた瞬間、ジェイドの膝がかくんと折れた。ぺたんと尻までアスファルトに崩し、瞬きさえ忘れて彼は呆然とした。軟体にでもなってしまったかのような腰抜け具合であった。

「貴方、僕のことずっと好きでいてくださったんですか?」
「……」
「だから僕を信じた? いつ殺されるともしれない恐怖の最中にあっても、僕が必ず貴方を助けに回ると信じて待ち続けていた? 貴方が助けを乞いたい相手は、本当はずっと僕だった?」

 彼女よりも低い位置にきてしまった口が、ひどく間抜けな言葉を紡いでしまうのをもう止めようがなかった。もう取り繕わなくなった表情と声音を、しかし彼女は馬鹿にしなかった。代わりに顔を上げて、少しだけ得意気に笑ったのだった。もう鼻水も、涙も、笑い声も止んでいた。頬に付いた傷がひどく痛々しいと感じた。

「ええ、だから随分と頑張りました。丈夫なおもちゃでいなきゃ、貴方に長く『遊んで』もらえませんからね。でもそのために命まで張る羽目になるとは思いませんでした。やっぱり……ふふ、怪物さんと生きるってろくなものじゃない!」

 僕のおもちゃでいることは、貴方にとって命を賭ける価値のあることだった?
 そう、問いただすことさえ忘れていた。ただ綺麗に笑う彼女を見上げながら、ジェイドは混乱する頭で少しずつ考えを詰めていった。
 死んでもいい。命を賭せる。つまりはそういうことだ。そういうことに違いなかった。でもいつから? いつから自分は手に入れていた? どうして今の今まで気付かなかった? 何故、僕よりもずっと寿命の短い相手に、僕よりもずっとか弱く無力な守るべき相手に、僕は「死んでもいい」などと言わせている? 何故僕はその言葉に噛み付けない? 何故僕はその言葉に足を折られた? 何故僕は、喜んでいる?

「でも、もういつ死んでもいいと思えたから、白状しておくことにします。貴方の手を取ろうと決めた入学式のあの日からずっと、貴方のこと大好きでしたよ」

 嬉しいです、と捕食者の大きな口が絞り出す前に、被食者の小さな口が続きを紡いだ。

「貴方の慈悲が貰えて、私、とっても幸せでした」

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