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スズの塔へと続くこの場所は、「鈴音の小道」と呼ばれている。
塔に舞い降りる伝説のポケモンを歓迎するかのように、四季に関係なく、この空間はいつも紅葉の赤で彩られていた。
ともすればジョウトの観光名所となりそうなこの場所に、しかし人足は少ない。
此処はエンジュシティのジムリーダーに勝利した者しか立ち入りを許されていない。此処へと続く建物で、寺の者が常にトレーナーの通行を監視しているのだ。
故に此処へ立ち入ることができるのは、人並み以上の実力を持つトレーナーか、あるいは彼のように、獣道を抜けてこっそりと侵入した者のどちらかであった。
「……」
静かだった。
風が赤い葉を揺らす音と、枯葉を踏みしだく音の他には何も聞こえない。
人の出入りが少ない場所には、ポケモンが住処を作っているものだと思っていたが、此処にはポケモンすらも遠ざける何かがあるらしい。
アポロは溜め息を吐こうとして、止めた。
独りになりたくてこの場所を選んだ筈だった。溜め息を吐いても心配されない場所にようやくやって来た筈だった。
しかし自分の息すらも飲み込んでしまう程に、この空間は異様だった。静かすぎる。アポロが抱いたそれは、神秘さを通り越したある種の畏れだった。
アポロは吐き出そうとした溜め息を喉の奥へと押しやり、立ち止まって、目を閉じる。
葉の擦れる音、枝から離れて地面に落ちる音。此処にあるのはそんな音のみであった。僅かに肌を掠る風が、かろうじて外にいることを印象付けていた。
屋内よりも静かな場所。無音よりもひそかな静寂。
心が攫われる気がした。此処に長居してはいけなかったのだ。彼のような、陽の当たる場所に立てない人間などは特に。
これならいっそ、部屋で1時間程の仮眠をし、次のミーティングに向けて頭をすっきりさせるべきだったと彼は悔いる。
今からでも遅くはない。アポロは来た道を引き返そうとして、しかし片足を不自然に浮かせたままの状態で硬直した。
パラリ、と。
この空間に似つかわしくない音が、葉の音に混じって彼の鼓膜を僅かに揺らした。
それは、彼が書類のチェックをする際の音に似ていた。何か紙のようなものを捲っている音だ。
気のせいか、とも思った。連日の激務により、とうとう幻聴を患うまでになったかと眩暈を覚えた。
パラリ。
また聞こえる。
アポロは音の聞こえる方へと足を進めた。それは本当に小さな音だったが、十数秒に1回程のペースで、同じ音が彼を呼んだ。
それは気紛れだったのかもしれない。自分が幻聴の類を患う身であることを否定したいが故の行動だったのかもしれない。
しかし今となってはどちらでもよかった。彼はその音に飲まれていた。
自分の足元で乾いた葉が割れる音がする。目的の音を掻き消してしまわないように、アポロはできるだけそっと歩いた。
そっと歩いた、……つもりだった。
「こんにちは」
スズの塔の近く、一際大きな木の下で、一人の女性が地面に寝転がっていた。
彼女はうつ伏せになり、肩から上だけを起こしていた。アポロに挨拶をした彼女は、しかし手元の本から一瞬たりとも視線を逸らさない。
パラリ、と、紙の捲れる音がする。
自分の探していた音の正体に辿り着いた彼は、しかしそれ以上に奇妙な彼女の存在に絶句した。
彼女は落ち葉に埋もれていた。
「埋もれていますよ」
「焼き芋みたいでしょう?」
「服が汚れますよ」
「汚くありませんよ。自分で掬ったんじゃなくて、たまたま私の背中に落ちてきた葉っぱたちですから」
そんな会話が、視線の交わらないままになされる。
微動だにしない彼女の背に、肩に、頭に、次々と葉が積もっていき、こんもりとした小山を形成していた。
あまりにも滑稽なその姿に、街中や公園で見かければ笑いの的になるであろうその光景に、しかしアポロは笑うことができなかった。
それは鈴音の小道の神聖な雰囲気がそうさせたのかもしれない。代わりに湧き上がったのは好奇心だった。
微動だにしない彼女が動いたその瞬間、絶妙なバランスで積まれた落ち葉の小山は、どんな音を立てて崩れるのだろう。
そうでなくとも、うず高く積まれた葉は、あと数枚詰まれるだけで、あるいは一陣の柔らかな風だけでも、その高さを失ってしまいそうに見えた。
何故だか、彼にはそれがとてつもなく惜しいことのような気がしたのだ。彼女の頭や背の紅い山が一斉に崩れる様を、彼は見たいと思ってしまった。
彼はゆっくりと歩みを進め、彼女の前に屈んだ。
「どうしたんですか?」
尚も視線を外さずにそう尋ねる、彼女の手元の分厚いそれを、アポロは奪い取った。
「あ、返して!」
彼女の反応は素早かった。両手を地につき、ぐいと上半身を起こす。
瞬間、ざあっと豪快な音を立てて崩れ落ちた赤い山に、アポロは思わず吹き出した。
静寂に包まれたこの空間において、乾いた葉が立てる大きな音は、彼から緊張と、自らの声を躊躇う隙を奪った。
箸が転げたように笑いだす彼の姿に、今度は彼女の方が絶句した。しかしそれは一瞬で、暫くすると、彼に釣られたように笑いだした。
「ああ、もう!折角いい感じで葉っぱのお布団が出来ていたのに、貴方のせいで台無しです」
「これは失敬。あまりにも可笑しな風体をしていたものですから」
「あれ?そんなに変でしたか?」
二人の笑いが収まりかけた頃に、彼女は大きく頭を振り、髪に付いていた残りの葉を乱暴に落とした。
立ち上がり、両手で衣服を払うようにすれば、灰色と白の高級そうなワンピースが現れる。
肩までのゆるいミディアムパーマの髪は、彼にとって馴染みの深すぎる色をしていた。
「……」
そして彼女はようやく、アポロを真っ直ぐに見上げる。
水色の目は、同じく水色を纏った彼を克明に映していた。
「あら、同じ色」
肩を竦め、楽しそうに微笑む。
水色の髪、水色の目。二人の色は驚く程にそっくりだった。
「もしかして、生き別れた私のお兄さんですか?」
「……生憎、焼き芋の妹を持った覚えはありません」
「楽しい妹でよかったでしょう?」
その問い掛けに彼は苦笑し、取り上げていた本を彼女に返した。
深緑の布表紙に、彼の知らない法律関係の単語を見つける。滑稽なようで意外にも聡明らしい。
しかし比重としてはやはり滑稽な方が勝っているらしく、彼女はわざとらしく声音を切り替えて、とんでもないことを言いだした。
「ああ、なんだか焼き芋が食べたくなりましたね。ねえお兄さん、私、無一文なんです」
「……」
「お兄さんは、焼き芋、お嫌いですか?」
何だか、奇妙なことになってしまったとアポロは思う。しかし、今更だ、とも思う。
そもそも、今日は全てが異様な方向に進んでいたのだ。
休息のための仮眠よりも、気分転換のための散歩を優先させたことも、その場所に、このような神秘的な雰囲気のする場所を選んだことも、
明らかに変人である彼女の元へと足を進めたことも、その変人の前で声をあげて笑いだしてしまったことも。
ましてや、期待に満ちた眼差しを向ける彼女に、笑って首を振ってしまった、だなんて。
「ですがお嬢さん、私の貸しは高くつきますよ」
「お嬢さんって響きも素敵だけれど、できればクリスって呼んでください」
それじゃあ行きましょう、と彼女は歩き出した。地味な色だがボリュームのあるワンピースがふわふわと風になびく。
あ、と小さく声をあげ、クリスと名乗った少女は振り返り、彼と同じ色をもってして尋ねる。
「貴方の名前は?」
2014.10.4