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彼は歌を歌う私を咎めない。
だからきっと、こうして歌っていてもいいのだろう。

私はプラスルを膝の上に乗せて、いつものメロディを口ずさんでいた。
それは私の友人から教えてもらった、海底遺跡に記されていたという歌だった。
「彼女」はその遺跡に刻まれた五線譜を海の底で読み取り、解読したというのだから恐ろしい話だ。
この歌に込められた神秘的な背景も相まって、私はこのメロディの虜になっていた。

「それは何の歌だ?」

そう尋ねるマツブサさんに、「私もよく知らないんです」と返す。
彼女は「花の歌」だと言っていたが、それは別の人が名付けた名前らしい。

私は歌を止めて、プラスルをぎゅっと抱き締めた。
赤い耳がひょこひょこと揺れる、その仕草がとても可愛くて私は微笑む。

可愛いものは、大好きだ。そこには人を無条件で笑顔にする要素が全て揃っている。だから私は、可愛いものが好きだ。
それを視界に入れている間は笑顔になれる。どんなに悲しいことがあっても、その淵から救い出してくれる。這い上がる力をくれる。
だが、私がこのプラスルを好きなのは、彼女が可愛いからではない。勿論、彼女は可愛いけれど、私は、可愛いからこの子を好きな訳では決してないのだ。
「可愛い」と「愛しい」は同義ではないことを、私は知り始めていたのだ。

「どうした、もう歌わないのか?」

「!」

私はあまりの驚きに息を飲んだ。
怪訝な顔をしたマツブサさんに、私は少しの沈黙を置いてから、いつものように笑顔を作った。

「マツブサさんもこの歌、好きなんですね」

「……ああ、嫌いではないな」

心臓が弾けてしまいそうな程に煩い。
……やはり、可愛いと愛しいは同義ではないのだろう。
だって、そうでなければ、そんなことを言ってくれるこの人への思いに説明がつかない。

私は再び口を開き、友人から譲り受けたその音の上で踊り始めた。
踊りながら、私は彼の言葉をそのメロディに埋め、反芻する。

『遠慮せず、1時間でも1日でもゆっくりしていくといい。』

その言葉は、幾度思い出してもおかしくて、私はくすりと笑ってしまう。
笑いのせいでメロディラインが僅かに乱れ、それと呼応するようにマツブサさんが顔を上げた。
気にしないで、というように手を振れば、彼は苦笑して書類に視線を戻した。

「一秒たりとも」だとか「コンマ一秒も臆することなく」だとか、彼はそうした、私が見過ごしてしまう程の小さな時間を大切にしている人だった。
几帳面が過ぎるその性格を、私はマツブサさんを形成するものだとしていた。
彼はきっと、「コンマ一秒」程の時間さえも取り零さないのだろう。「一秒」ですらも無駄にはしたくないのだろう。
そんな彼が私に対して「1時間」や「1日」といった、遥かに大きな時間の単位を使うことは、私にとてつもなく大きな衝撃を与えた。

彼は、時間に対して寛容になった。
その確かな変化のせいだろうか。彼の言葉がとても優しくなったのは。その目に温かさが宿るようになったのは。

けれど、と私は思う。
もし私が、彼と対立する形で出会わなければ、最初から、こうした姿の彼を見ることができたのかしら、と。
彼の思想を拒み、立ち向かうことをしなければ、彼は最初から優しかったのだろうか?

『想像力が足りないよ。』

私の逆鱗に触れた「彼女」の言葉を思い出し、苦笑する。
違う、きっとそうではない。それは違う、絶対に、違う。

もしも彼が最初から優しい目をしていたなら、きっと私は彼と出会うことはなかった。

想像力が足りないのなら、現実を真っ直ぐに見据える覚悟を抱いてみせる。
その強さを、私はこの長いバカンスで培ったのだ。

「マツブサさんは、もっとストイックな人だと思っていました」

机に積み上げられた書類の束が半分になった頃を見計らって、私は口を開く。
事実、きっと彼はストイックな人なのだろう。新生したマグマ団の活動に奔走し、ろくに休息を取っていない。
組織の長とは、そんなにも体力と神経を使うものなのだろうか。それを経験した事のない私には、その苦労を完全に理解してあげることはできなかった。
しかし、理解できないからこそ、愚かな行動を取ることができる。そして、それが彼の緊張の糸を緩めることだって確かにあるのだ。

私は、自分の矮小さを悔いたりしない。愚かだから、無知だから、経験に乏しいから、……だからこそ、できることがあると信じている。
私は「彼女」のようにはなれない。しかしだからこそ、私にしかできないことがある。

「今は違うのか?」

「はい。あの厳しさは、組織のトップに立つ者としてのものだったんですね」

彼は公私を使い分ける人なのだ。それは大人が身に付けた素晴らしい処世術だった。
そして、それを体得していない私には、自らの性格すら塗り替えるその鮮やかな処世術がとても羨ましいものに思えたのだ。

「一秒とか、コンマ一秒とか、そうした単語から察するに、もっと神経質な人なのかと思っていました。
でも、私に「1時間でも1日でも」って言ってくれる辺り、必ずしもそうじゃないんですよね」

「……」

「あの言葉、とても嬉しかったんです。それに便乗して、毎日、此処にお邪魔しちゃっています。……あ、本当に邪魔な時は言ってくださいね、消えますから」

またしてもべらべらと饒舌になる。しかし笑顔だけは絶やさない。
だって、本当に嬉しかったのだ。一度は敵対した彼が、こうして私を迎え入れてくれることが。何もせずにただ歌を歌っているだけの私を拒まずにいてくれることが。
それに甘んじ続けられるのは子供の特権だが、彼が一瞬でも不快な表情を見せたなら、直ぐにでもこの場を立ち去らなければならない。
それだって、私には造作もないことなのだけれど。

しかし彼は何処か意味有り気に微笑み、椅子から立ち上がって私の方へと歩み寄る。

「成る程、つまりキミは、「1秒」から「1日」への変化が公私の変化によるものだと、そう思っているのだね?」

「あれ、違いましたか?」

私は自分の予測が外れたことに驚き、しかし次の答えを思い付くことができずに首を捻る。
マツブサさんはソファに身体を沈めてから眼鏡を外し、ひざ掛けの部分を枕にするように横たわった。

「確かに、キミと敵対していた時に比べて、私の態度は変わっただろう。だがそれと、私が1日などという寛容な言葉を使うようになったのとはまた別の理由だ」

その言葉に私は考え込む。
グラードンを狙う必要がなくなったからだろうか?ホムラさんやカガリさんを心から信頼するようになったからだろうか?
とうとう目を閉じてしまった彼に、私は視線で縋ることができなくなり、しかし仮眠を取ろうとしている彼を起こすのはどうしても躊躇われて沈黙する。
すると、彼の方から徐にその口が開かれた。

「キミのせいだよ、トキちゃん」

「え……」

「誰だって、気に入った相手には一秒でも長く傍に居てほしいと思うものだろう?私はそれにあやかっただけのことだ」

私は沈黙した。ただ純粋な驚きが私の脳内を支配し、思考を奪った。

「折角来てくれたキミには申し訳ないが、少し仮眠を取らせてもらうよ。そういう気分なのでね」

彼はまたしても彼らしくないことを言い、その目を閉じて眠り始める。
私は動揺したまま、しかしそれを表に出すことはしたくなかったため、苦し紛れに小さく歌い出すことを選んだ。
彼が小さく微笑む気配がした。


2014.12.1

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