真っ赤な部屋の、真っ赤なソファに腰を下ろし、少女は小さな声で歌っていた。
彼女が歌う旋律はいつも決まっていた。ふわふわとした、掴みどころのないメロディだったが、もう何百回と口ずさんできたのだろう、その音程が狂うことはない。
その歌をBGMにして、部下からの提出書類を確認するのが、最近のマツブサのお気に入りだった。
『トキちゃんの来訪ならばいつでも歓迎しよう。』
「宇宙旅行」を終えて戻ってきた彼女に、マツブサはそう言った。
心の中に渦巻く数多の感情を押し殺して、彼は敢えてそんな言葉を掛けたのだ。
しかしその言葉は、思った以上に少女の心に刺さったらしい。現にあれからというもの、少女がこの場所を毎日のように訪れたのだから。
彼女は特に何をするでもなかった。
プラスルにポフレをあげたり、ポロックを作ったり、それをつまみ食いしたり、ポケモン図鑑を眺めたりしているだけだった。
それらは全て、マツブサの部屋にある赤いソファの上で行われていた。
彼女はそのソファの座り心地が大変お気に召したらしく、腰掛けた時には必ず「ふわふわですね、いいなあ、マツブサさん」と笑いながら紡ぐのだ。
しかしそのソファが彼女に陣取られてしまっている今、マツブサがその「ふわふわ」を堪能することは不可能に近く、羨ましがられる要素など何処にもない筈なのだが。
マツブサは苦笑し、しかしそのソファを陣取る少女のことを許している。
それらの遊びは大抵、少女とポケモンの中で完結されていて、そこにマツブサが踏み入る余地は無いように感じられた。
それ故にマツブサは、その少女のことを気にすることなく、仕事に取り組むことができたのだ。
加えて、時折聞こえてくる彼女の歌声は嫌いではなかった。
マツブサはこの少女の来訪を許していただけではない。この少女の来訪を待っていたのだ。
「マツブサさん、甘いものは好きですか?」
そんな少女が、しかし時折そんな風に口を開く。その話題の大半は今のように突拍子もないものだったが、おそらく彼女の中では論理立てられたものなのだろう。
ただ、その思考の過程を声に出そうとしないだけで。
「嫌いではないが、いきなりどうしたのだね?」
「とっても美味しそうなポロックが出来たんです。はい、どうぞ」
彼女は小さなサイコロ状の物体を、マツブサの掌に落とした。可愛いものが好きだという彼女が好みそうな、淡いピンク色をしたポロックだ。
マツブサはそれを凝視した後で、お礼を言う前に首を傾げる。
「これは、キミのポケモンの為に作っていたのでは?」
「いいえ、ただ遊んでいただけですから。私のポケモン達には、もうポロックは飽きる程にあげてしまっているので」
成る程、どうやら夢中になってポロックを作っていたのは、何か目的があってのことではなかったらしい。
マツブサは頷き、とても小さなそれを口の中に放り込んだ。
木の実から作られたというそれはとても甘いが、白い砂糖を口に含んだ時のような淡い目眩も、チョコレートを食べた時のような複雑な舌触りもない。
「……成る程、これなら食べられそうだ」
「あれ、お嫌いでしたか?ごめんなさい」
困ったように笑って謝罪する少女に、マツブサは苦笑して首を振った。
「嫌いではないよ。普段は食べないので、身体が受け付けようとしないのだろう。だが、これはなかなかに美味だ。ありがとう」
そう伝えると、少女はその顔にぱっと花を咲かせるように微笑んだ。
その様子がおかしくて、マツブサはまた笑ってしまう。
彼女の笑顔はとても饒舌だった。
彼女は決して寡黙な人間ではなかったし、口数の少ないマツブサとの会話でも、3対7程の割合で喋っているのは彼女だった。
しかし、それ以上に彼女の笑顔は、饒舌な彼女の更に奥を映しているような気がしていたのだ。
彼女は饒舌だが、よく嘘を吐く。誤魔化す。隠し事をする。
その饒舌さは彼女を知るために優位に働く筈であったのに、それが彼女を益々不可解なものにしている。
しかし、とマツブサは思った。
時折見せるこの笑顔。安堵したように、喜びに満ち溢れているかのように、花を咲かせるように微笑むこの笑顔。
そこに嘘が介在する余地はなかった。それは彼女にしては珍しい、むき出しとなった本音であり、だからこそ、常に見ることは叶わない。
そして厄介なことに、その笑顔には、引力がある。
彼女は「もう一つあるんですよ」と笑い、青いケースから同じポロックを取り出す。
マツブサはそれを受け取り、躊躇いなく口に含んだ。
それを見てクスクスと笑い始めた彼女に、マツブサは怪訝な表情をする。
「どうした?」
とうとう堪え切れずに声をあげて笑った彼女がどうしても解せない。自分は何かおかしなことをしたのだろうか?
すると彼女は両手で口を抑え、笑い続けながら種明かしをしてくれた。
「あのね、マツブサさん。それはポケモンの可愛さを高めるためのお菓子なんです」
「……ああ、そう言っていたな。確かコンテストのために与えているのだったか」
まだピンと来ていないマツブサだが、その表情は次の少女の発言で崩れることになる。
「マツブサさんが可愛くならないかなって、思ったんですが、人には効果がないみたいですね」
「な!」
そういうことだったのか。
マツブサはあまりの衝撃に絶句し、とてつもない後悔に襲われた。
そうだ、少し考えれば直ぐに分かることだったではないか。これはポケモンに与える為のお菓子だった筈だ。
それを彼女が自分に差し出す意味に、マツブサはもう少し早く勘付かなければならなかったのだ。
またしてもこの少女に不覚を取ってしまった。
自分より一回り以上幼い筈のこの少女は、とても悪戯好きで、嘘吐きで、可愛いものが大好きな人間だったのだ。
それでいて、ポケモントレーナーとしてはマツブサの遥か上を行く実力を持ち、ポケモンリーグのチャンピオンにまでなり、つい先日には、彼女曰く「宇宙旅行」までしてみせた。
自分達はこんな恐ろしい少女に目を付けられてしまったのか、と、マツブサはあの頃を思い出しては苦笑する。
そう、敵う筈がなかったのだ。
「……やれやれ。私はキミには敵わないらしい」
「まあ、そうですよ。私に掛かれば、この世界を救うことだって造作もないんですから」
彼女は腰に手を当てて得意気に微笑んだ。
マツブサはそんなお調子者の少女の頭を軽く叩いた。
「だが、それとこの悪戯を許せるのとはまた別の話だ」
「……あら、厳しいんですね」
「子供に躾をするのも大人の義務だからな」
彼女にぐいと顔を近付けてそう呟く。
すると何がおかしいのか、少女は先程のようにふわりと笑ってみせる。
今度は何だというのだね。そう尋ねた彼に、少女はその小さな手でマツブサの肩をそっと抱いた。
ふわりと、ポロックの甘い香りが鼻を掠めた。
「でも、マツブサさんがちょっとだけ元気になってよかった」
「……」
「たまには休んでくださいね。そのために私が居るんですから」
そしてようやくマツブサは、この少女が毎日のように、この何もない空間に足を運んでいた理由を理解する。
生真面目なマツブサの疲労を案じてのことだったのだ。
彼女はマツブサが働き過ぎないように、疲れ果ててしまわないようにと、適度にタイミングを見計らって、マツブサの邪魔をしていたのだ。
しかし嘘吐きな少女は、そんなマツブサの理解を即座に笑って否定する。
「あ、誤解しないでくださいね。私はマツブサさんの為に此処に来ているんじゃないんです。
私が、此処に来たいから来ているんです。大好きなマツブサさんに会いたいから来ているんです。それだけですよ」
そして、……これが一番不可解なことなのだが、その少女は、マツブサを慕い過ぎている。
2014.11.30