3-3:瞳の色を奪ってしまえ

「うん、知っている。ミツバさんが色々と教えてくれたし、君もそれとなく聞かせてくれたことがあったよね」

 セイボリーは穏やかに微笑みつつ、右のスポーツグローブと左の白い手袋を順に外した。あの道場を長く暮らしの拠点とさせてもらっている私にとって、彼の素手を見ることは最早珍しいことではなくなっていたはずなのだけれど、それでも、普段隠されている部分から物理的な装甲が剥がれ、白い指が現れる様というのはやはり何度見ても息が詰まる。男性らしい関節の膨らみがほとんど確認できないその真っ直ぐな形を、私はただ綺麗だと思う。

『優秀なあなたとは違って、もうワタクシにはあの場所しか残っていないのですから、ね!』
 以前、夜の最もくらいところから吐き捨てるように彼がそう零したことがあった。彼が何かしらの「烙印」を押され、逃げるように故郷を出てきたことを、私はあれより前からぼんやりと察していたけれど、あの夜の彼の言葉で確信に変わった。彼には家に戻れない事情があり、彼の持つ不思議な力こそがその理由の際たるものであるのだ。

「あなたはワタクシのこれを、まるで神の力であるかのように信奉してくださいますが」

 手袋のない白い指をさっと伸ばし、彼は指揮の対象を探すべくテーブルの上に視線を走らせた。食器や食べ物を浮かせるようなことは「ノン・エレガント」であるとして滅多に行わない彼は、それでもこのティータイムの場において丁度いいものを見つけたらしく、よく冷えたアールグレイのグラスをそっと指さした。

「……そういう血筋、の直系に生まれた者が、これだけしかできないというのは非常に良くないことなのです。致命的なまでに、ね」

 息を飲む私の前で、グラスの周りに生じた結露がその丸い側面を楽しそうに転がり、一つの大きな粒になっていく。彼が水をまとめる様子はこれまでにも何度か見てきたけれど、今回はただまとめるだけに終わらなかった。
 そのまま結露の大粒を宙に浮かせた彼は、右手だけでなく左手も水の前に掲げて指揮の構えを取った。右手と左手でぱちんと叩くようにすれば、その動きに従うようにして水が平らに押し潰され、円盤状になる。くいと左の指で引っ張るようにすれば、その平らに潰れた水から一筋だけぴょこんと捻り出されていく。右の指で撫でるようにすれば、捻り出されたそれは柔らかな丸みを帯びていく。小さな水泡のダンスは滑らかに、密やかに続いていく。

「ただ、こういった力は世にあまり知られていません。だからこそ先程のようなことが起こる。彼等の驚愕と恐怖はもっともなことです。……フッ、あなたの言葉を借りるなら『彼等の言っていることは概ね正しい』ということになるでしょうか」

 同じ動きを私は陶芸の現場で見たことがあった。彼のそれは職人が繊細な壺を手掛ける姿に瓜二つであるように思われた。ただ彼は指で操る動作こそしてみせるものの、それには決して触れていないし、そもそも彼の手掛ける対象は土ではなく水である。ひとところで形を作ることなど本来なら在り得ないはずの流体である。淡い水色の光を纏い、透明であるはずの水が彼の目と同じものに着色されていく様を、同じように再現できる職人など、世界中、何処を探してもいるはずがない。

「テレキネシスを知らない人間からは怪物扱い。サイキッカーを知り尽くしている人間からは落ちこぼれ扱い。普通であることも特別であることもワタクシには難しい。きっとあなたにも難しい。そういう意味で確かに、異能の力を持つワタクシと強すぎるあなたは『お揃い』であると言えるでしょう」

 サイコパワーを知らない人間になりきること。サイキッカーとしての才を極めること。どちらも彼にとっては難しい。……いや、難しい、とは柔らかな言葉選びに徹した結果の産物で、事実としてはそんなこと、どう足掻いても不可能なのだろう。彼は自らに宿る力と一生付き合っていかなければならない。彼がテレポートやテレパシーを使えるようになる日はきっと永遠に来ない。
 私だって同じだ。ただのポケモントレーナーに戻ること。チャンピオンとしての最適解を渡り歩くこと。どちらも私にとっては「難しい」。つまりはどう足掻いても叶わないことに違いなかった。勝つことしか知らない私はもう一生負けられない。ガラル貢献精神を持つことを拒んだ私が、ダンデさんと同じレベルでガラルからの承認を得ることはきっと永遠に在り得ない。

 出会った当初は違ったところばかりであるようにばかり思われていた私達は、けれどもその実、かなりの数の「お揃い」を有している。それを今、脳内で羅列し一つずつ振り返るつもりはないけれど、今回のこれだって、私達が歩幅を揃えて歩くための一要素に過ぎないのだろうと思えた。そうしてそのたった一要素をこんなにも喜ばしく思ってしまう私は、やはり最初から尋常ではなかったのだろうとも思ったのだ。

「半端者であることは偶に、ごく偶に寂しい」
「……」
「でも最近はそうした孤独を味わう暇さえありませんでした。あなたのせいで。あなたがずっと、約束を守ってくださったせいで、ね!」

 約束、が何を意味しているのか。それは彼が笑いながら至極嬉しそうに告げてきたその言葉ではなく、彼の指揮により出来上がってしまった水細工があまりにも克明に示している。
 小さな花だった。5枚の、先だけ少し尖った花弁がまるで生きているかのように開きかけていた。今日、彼が尋ねてきたあのアザレアの形ではない。コスモスでもサンダーソニアでもタンポポでもない。これはあの花だ。あの花だ。あの夜に彼が散らせた花だ。あの夜に月筏へと化けた花だ。私達が交わしたあの約束、その架け橋となった、未だ名前を知れない花だ。覚えている。彼の思い入れの深さと全く同じ深度で、私もそれを覚えている。その花がよりにもよって水色に、私の愛した色に染まり、咲いている。

「欲しい」

 絞り出すようにそう告げた。彼はひどく穏やかに微笑みながら「ええ、お好きになさいな」と快諾してくれた。
 結露の花が私の眼前へと漂ってくる。私は身を乗り出し、大口を開けてそれを舌の上に乗せる。「えっ」という彼の短い悲鳴を無視して、私は口を閉じて、喉を押さえるように右手で首をぐいと掴む。水量にして2ccにも満たないであろうその水細工、淡い水色、彼の瞳の色に着色されたその花を喉へと送り込む。花が喉を落ちていく様を、喉に当てた手の平で感じ取り微笑む。そして再び彼を、見る。

 結露という、明らかに飲用ではないものを飲み込んだ私を、けれども彼は叱らなかった。叱る余裕を失う程の驚きであったことは容易に推測できた。その長い指が作る淡い水色の光、この世の何よりも美しいあれが私の中へ取り込まれていく様を、手の平に伝わってきた喉の動きと共に思い出して、目を細めた。なんだか泣いてしまいそうだと思った。彼は益々ぎょっとした顔をした。どうやら私は本当に少し、ほんの少しだけ泣いたらしかった。彼がハンカチを取り出す前に袖口で乱暴に拭ってから、誤魔化すように言葉を吐き出した。

「皆さんには、もう、好きに言わせておけばいい」

 その指に「指揮」してもらえるもの、彼のテレキネシスの加護を受けるもの、それらが纏う淡い水色の光が、出会った頃からずっと大好きだった。一目惚れ、というものを、人相手でもポケモン相手でもなく、まさか光の色などというものにすることになるとは思っていなかった。

 好きだ。君のそれが好きだ。だからこんなにも嬉しいんだ。君の水色になれたみたいに思われて、もう、どうしようもないんだ。

「こんな私にも、チャンピオンとしてサインを求めてくれる可愛いファンがいるように、君の力を心から尊敬している仲間だっているはずだ。私を含めて道場の皆は、君のそれをいたく気に入っているよ。君に浮かせてもらうためにわざと君を怒らせるようなことをする子だっているくらいだ。皆、君のそれを含めて君のことが好きなんだ。君は『好かれている』という事実を、もっと……誇ってもいいと思う」

 誤魔化すための常套手段、饒舌と早口を駆使して力強く笑ってから、ようやくスコーンへと手を付ける。半分に割って、ジャムを付けて、口へと運ぶ。未だ私の奇行の衝撃から抜け出せていない彼は、けれども私が食事を始めたことでようやく我に返ったようで、私と同じような割り方、同じくらいのジャムの量で、スコーンを口へと運んでいった。飲み込むタイミングまで揃えるものだから、私は思わず笑ってしまった。
 彼は随分と緊張しているらしい。先程の私の奇行が原因ではなく、このような場所で私と二人で食事をすること自体に、並々ならぬ何かを感じているようだった。そういうところは私よりもずっと幼い子供のようだ、と思い、何故だか少しだけ嬉しくなってしまう。

「より多くの人から評価を得られるように生きていかれるなら、きっとそれが一番いいんだろうとは思うよ。そういう意味において、そう生きられていない私達は確かに『不適正』だ。でもそれが一体何だっていうの?」
「……あなたは『不適正』を恐れようとは思わないのですか?」
「ええ、ちっとも」

 そのような子供っぽい不安と緊張を露わにする彼のため、全力で虚勢を張ることなど、水色を飲み下した後の私にはあまりにも容易い。彼の言葉より、彼の水色より、私に力を与えてくれるものなどありはしない。

「ガラルのエンターテイメント至上主義には正直、ちょっとうんざりしているんだ。彼等はチャンピオンの私に、彼等が盛り上がって楽しくなれてしまえるような、都合の良い偶像を見たいだけなんだよ。君の才を怪物呼ばわりしたり、嫌な視線を飛ばしてきたりする奴らだって同じだ。君という不思議な相手を、自身に都合の良いように分類していい気分になりたいだけ。そんなものに振り回される必要なんて何処にもない」
「……」
「皆さんは、本当の私達を見ようとしている訳じゃない。私達のことは、私達を本当に大事に想ってくれている人だけが知っていればいい」

 アールグレイの紅茶に手を伸べる。彼が結露をほとんど浚っていったおかげで持ちやすかった。けれども一口飲んだところで先程のマスターが歩み寄ってきて「今日の記念に持って帰ってくれないか」と笑いつつ、二枚のコースターをすっとテーブルの上に滑らせてきた。木製の、薄くて軽い、滑らかな肌触りのシンプルなコースターだった。使用された跡が全く見当たらず、新品のように見える。「このカフェの備品では?」と驚きつつ尋ねたのだけれど、マスター曰く「桁を一つ多く注文してしまってね、引き取り手を探しているんだ」とのことだった。
 周りに視線を移すと、帰り際の女性客グループが同じものを自らの鞄の中に仕舞っている様子を確認できた。来店者へと無差別に為されているサービスであると分かり、安心した私は「ありがとう、大切にします」と笑顔で告げた。セイボリーもそれを両手で持ちつつ「ありがとうございます、ミスター亭主」などと、実に彼らしい呼び方で感謝の言葉を口にした。

 ミスター亭主、がカフェの奥へと立ち去ってからも、私達はしばらく口を開くことができなかった。紅茶の続きを飲み、残りのスコーンを咀嚼し、喉へと通した。彼も全く同じタイミングで、全く同じ量を同じように飲み、そして食べた。視線を合わせたところで、どちらからともなくふわっと笑うばかりであった。
 思いも寄らず手に入れてしまった「お揃い」。これをより特別なものにできる手段を私達は有している。その「手段」はきっと、今も彼のポケットに入っている。でも私から言い出すことはどうにも躊躇われた。気恥ずかしさ、というヤツがそうしたのだ。きっと彼もそうであるに違いなかった。その頬が僅かに赤らんでいたからだ。

「ねえユウリ、ワタクシにもできるでしょうか。あなたのように、不適正を恐れずにいること。ワタクシを好ましく思ってくださる方を信じて、ありのままを許すことが」
「できるとも、セイボリー」

 こんな風に、真剣な心持ちになって想いの丈を開示することは最早照れを伴うものではなくなっていたというのに、そんな些末なことには妙な羞恥を覚えてしまうのだから、本当に、私達というのは質が悪い。

「不安なら私と同じようにするといいよ、そのスコーンの食べ進みや紅茶を飲むタイミングを揃えたのと同じように。何でもいい、一緒にやろう。仮にそれで失敗が起きたとしても、転んだ先にはちゃんと私がいる。これからも、寂しい思いなんてさせないよ」
「……」
「今後も飛んでくるかもしれない「石」に関しては、何も心配しなくていい。君を本当に大事に想う誰かさんが、それはもう全力で、一つ残らず撃ち落としてくれるだろうからね」

 君のことを知っている。君のことを本当に大切に想うからこそ、君のことを知り得ている。今だけはそう驕らせてほしい。彼の憂いを取り払うために、そして私の恐れを忘れるために、そうさせてほしい。もしまだ私にその資格がないというのならそれでも構わない。そう在れるよう、これから努めるだけの話だ。

「……では、その、早速ですが一緒にしてほしいことがあります」

 さて、顔を僅かに赤らめつつそう切り出した勇敢な彼に「何かな」などと尋ねながらも、私は次に彼が何を取り出すのかを察している。ポケットから引き抜かれた油性ペンは、駅の構内で女の子にサインを求められた際、使ったものだ。そして、この揃いのコースターを特別なものにするための「手段」となるに違いないものだ。
 彼は迷うことなくキャップを引き抜く。浮かせるのではなくちゃんと手に構えてすらすらと、コースターの隅に小さく何かを書く。ペンと一緒にこちらへ差し出されたコースターには、リーグカードで見たのとほとんど変わらない彼の文字で、ほかならぬ彼の名前が書かれている。

『なかなかにエレガントなサインですね。是非ワタクシの分も頂きたく思うのですが?』
『君のサインと交換であればいいよ』
 彼はサインを先んじて差し出してきた。ならば私にそれを拒む理由などもう残されていない。
 ペンを取り、手元のコースターに小さく名前を書いた。ただ少し文字を崩して遊びを持たせただけの、ユーモアもエレガントも欠いたつまらないサインになってしまったことを私は僅かに恥じた。けれどもそれを受け取った彼が本当に嬉しそうにやわらかな笑みを見せたものだから、私は頭の中で立てかけていた「サインを改良する予定」を速やかに放棄して、すっかり満足してしまったのだった。

「ご協力感謝します。今日は本当に、素晴らしい日ですね」
「……嫌なことを言われたり、悪目立ちしたり、思いも寄らないところから「石」が飛んできたりして、君にとってはあまりいい日じゃなかったように思えたのだけれど、違ったの?」
「フッ、あはは! やっぱりあなた、分かっていなかったんですね。今日は特別な日ですよ、間違いなく」

 楽しそうに左の口角だけくいと上げたセイボリーには、もうすっかりいつもの調子に戻っている。そのことを純粋に喜びたいけれど、嫌な予感がそれを邪魔する。本気で「嫌」だと思っている訳ではないはずなのだけれど、その単語の他に、この居心地の悪さを表現する言葉が見つからないのだ。自身の心理を脳内に叙述しあぐねている私の前で、彼は案の定、とんでもないことを捲し立てた。

「あなたがワタクシのことを『自分のもの』と口にした今日というこの日、このタイミングであなたに名前を差し出せたなら、ワタクシは正真正銘『あなたのもの』になるんです。お分かりいただけますか?」
「えっ、あ……」
「当然ですがあなたにだって同じことが言えます。あなたがそれをワタクシに明け渡した時点で、もうあなたは正真正銘『ワタクシのもの』です。その丈夫そうなコースターを叩き割りでもしない限りは、ね!」

 あれを聞かれていたのだ。彼を怪物呼ばわりした女性に投げた「自分のもの」という驕った発言は、この人の耳にまで届いてしまっていたのだ。恥ずかしさと失態に顔を赤くしたり青くしたりしながら、私は思わず、自分の手元にやって来たコースターを見遣った。勿論、叩き割ることなどできるはずがなかった。

「……」

 シンプルな木製のそれに刻まれた彼の名前に指で触れた。その彼らしい文字をなぞるこの動作を、私は今後数えきれない程に繰り返すことになるのだろうと思った。私がそれを使っているところを、門下生の皆さんやミツバさんや師匠に見つかり、それはセイボリーのものではないのか、と尋ねられる未来を想像した。顔を赤くしながら、これはセイボリーに貰ったサインだから、私のもので間違いないんだ、などと丁寧に説明してしまう未来を思った。そしてその度に、この人が「私のもの」となることに喜びを示した、先程のやわらかい笑顔を否応なしに思い出してしまうのだろうと確信した。
 なんてことを。……セイボリー、君は本当に、なんてことをしてくれたんだ!

「やっぱり、返して」
「残念ですが道具スワップは受け付けていないんですよ」
「じゃあその、恥ずかしい言葉だけでいいから、取り消して」
「できかねます」

 楽しそうだ。彼は実に楽しそうだ。そんな彼を見るのは嬉しい。彼が笑ってくれるのであればきっとそれが一番いい。でも、この状況は如何なものだろう。致命的ではあるまいか。決定的ではあるまいか。
 互いの名前を交換し合い、互いの所有となれていることを喜ぶ二人という致命的なこの図式には、もう「兄弟子と妹弟子」を当て嵌める余地など一ミリも残されていない。もうそんなものではあり得ない。これは最早、否定しようもなく。

「言っておきますがねユウリ、先に仕掛けたのはあなたですよ。あなたがあんなものを飲むから」
「君の水色のこと? あれは不可抗力だよ、無理な話だったんだ。世界一美しい染料が飲み下せる形でそこに在るのに、手を伸ばさず行儀よくしているだなんて、そんなこと」

 あ、この言い方はよくない。これではきっと見抜かれてしまう。いや彼の、更に赤くなってあらかさまな狼狽を示す表情からして、もうとっくにバレている。私が飲み下したかったのは結露でも花でも水細工でもなく、彼の水色そのものであったということ。それを正真正銘、私の色にしてしまいたいと思ってしまっていたこと。
 彼は言葉を失った状態で口だけをぱくぱくと動かしている。「あの結露を」「そんな風に」「あなたは見ていた」「どうして」そうした言葉を無音のまま作っている。私は「実はね」と静かに笑い、姿勢を正し、あの花の沈んだお腹に両手を当てつつ告解する。

「私はずっと、これに染まりたかったんだよ。だって一目惚れだったんだもの」

2020.7.7

© 2024 雨袱紗