あの水辺に欠けた月筏は今度こそ完璧な形で此処にあった(飛び交う石を撃ち落とし)

 Crazy Cold Caseでのユウリが読みたい本も飲みたい紅茶もそこに入れたいものも今日被るニットベレーの色も、自分では何一つ選ぶことができなかったという抜け殻みたいな状態だったのは、このセイボリーシリーズで言うところの「配慮」のせいだったのかもしれないな、と思えてきました。
 そんなものは「とんだ的外れ」だとしてばっさり切り捨てられ「いつだって全力で」「本気で向き合ってください」とまで懇願された彼女が、「君のためだけではなく私のためにも全力で、真剣な心持ちでいる」と約束までした彼女が、今日や昨日の更新分みたいになってしまうことは最早必至だったのかな、とも。

 「配慮」を捨て、セイボリーという絶対的な「愛着」を得た彼女は、そのおかげで飲みたい紅茶も食べたいお菓子もすんなりと選べるようにまでなってしまった彼女は、けれどもその代償としてチャンピオンとしての適性をどんどん失っていきます。「チャンピオンとしてどうすべきか」ではなく「私がどうしたいか」を軸に動くことを覚えていくのですから当然のことです。本土にあまり立ち寄らなくなる、観客在りきのストリートバトルを避ける、陰口に対して分かりやすい憤りを示す、見せつけるようにセイボリーの手を取って歩く、などが、彼女の考える「不適正」に該当しますね。
 おそらくCrazy Cold Caseの彼女であれば、人前で特定の誰かに対する思い入れのようなものを露わにすることでさえ「不適正」として禁じたでしょう。そもそもネズさんの強い断言がなければ、彼女はその思い入れというものさえ持つことを禁じていたのですから、不適正なことなど起こるはずがなかったのですけれども……。

 けれどもそういう生き方は非常に「つまらない」ものです。怪物呼ばわりした女性が口にしていましたが「ロボットみたいでつまらない」とはまさしくCrazy Cold Case状態の彼女を指していました。そうしてそのつまらなさを極めた挙句、彼女はその不適正をチャンピオンとしてだけではなく「生きること自体」にも向け、陽気な××まで書いてしまったのですから、つまらない、というのは彼女にとって冗談抜きに「致命的」であったのでしょうね。
 これはCrazy Cold Caseにもセイボリーシリーズにも言えることで、彼女は自らがチャンピオンに不適正であることを随分と卑屈に思っており、その清々しい卑屈はあのさようなら台詞にも表れているのですが(それでは皆様、明日から、良い一日をお過ごしください)その不適正を開き直って「私はこうだ」と知らしめた方が、好意的に受け入れられてしまう場合もあるようです。皮肉なこった!

 ユウリは合理を好みますがその基盤は「誠実であること」に根差しているようです。適正に拘るのも、より多くの人の望みに叶う自分で在りたいと願っているから。Crazy Cold Caseでのチャンピオンになりたてだった頃の彼女というのは、どちらの選択がより「皆さんの希望に沿うか」という、統計学的な分析により自らの動きを決めようとしているだけの存在だったのです。
 ただ今書いている分では、セイボリーというとんでもない奴と交わしたとんでもない約束により、彼女は「合理」を一足飛びにして彼への想いを認めるに至っています。統計学的に見れば、自らを慕ってくださる千を超えるファンよりもセイボリーというたった一人を重要視して動くことは明らかに不適正。でも彼女はそうします。そうすることができるようになったんです。約束したから。それが彼女の「誠意」に置き換わってしまったから。
 Crazy Cold Caseでは随分な遠回りを、ネズさんを巻き込んでしてしまったユウリですが、自ら「不適正」であることを選べた場合このような未来もあったはずだ、という可能性を、シールドにしか登場しないセイボリーの物語の中で書くことができ、とても満足しています。

 ……いやちゃうんや、こういうことは明日の更新が終わってから書くべきであってね?(フライングにも程)

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