生身だけでも背の高い部類には入るであろうこの青年、セイボリーは、けれども踵の高い靴とシルクハットのせいでかなりの長身に見えた。そんな彼が指先に魔法の力を宿して得意気に笑う様は、彼の言葉を借りて言うならば……そう、実に「エレガント」だった。
私は無我夢中で彼の目を見上げていた。その水色にどうにかして私の姿を埋め込ませられやしないかと、恥ずかしいことだけれど、とにかく必死だった。手放してなるものかと、どうか逃げないでほしいと、躍起になっていたのだ。
「凄い、凄いよ! こんなに『エレガント』なものを見たのは初めてだ! 一体どんな仕組みで動いているんだい、是非教えてくれないか。私もできるようになりたい、君みたいに!」
舌を噛まなかったのが奇跡であると思える程の早口で私は捲し立てた。そうして彼の水色を見上げたまま、私は、過去の全てを「つまらない」としてしまえる程に劇的な時間の訪れを確信した。
私の異様な剣幕に圧倒された彼、私の想いが気紛れな好奇心などではなく、本気のものであることを察した彼は、きっと次の瞬間には、狼狽えながらも微笑んで「いいでしょう、特別にお教えしますよ」と快諾してくれる。もしくは嫌そうな顔をしながらも、年下である私の懇願を無下にできず「しょうがないですねえ」と苦笑してくれる。とにかくそうした、肯定的な行動を取ってくれるはずだ。私はそのように予測した。その予測がとんだ思い上がりであるということにさえ、一度の挫折も経験せずに旅を進めてきた私は気付けていなかったのだけれど。
さて彼、セイボリーは嬉しそうに、……そう、それはそれは嬉しそうに水色の目を細めた。私が投げた先程の言葉は、彼の矜持をめいっぱい満たし、彼を綺麗に微笑ませるに足るものであったらしい。その笑顔に私が安堵したのも束の間、彼の整った唇の隙間から、私の予想を裏切る言葉が、……そう、それはそれは劇的な言葉が、滑り落ちた。
「あなたにはできません」
その確固たる否定の文句を証明するかのように、私の右手を離れたモンスターボールは、宙を漂うこともくるくると踊ることもなく、コトンと駅のフロアタイルに落ちて転がり、彼の高い踵の靴へと当たって、止まった。本当に「私にはできなかった」のだ。そして彼は指先をひょいと動かすことでそのボールを宙に持ち上げ、見せつけるように再び私の眼前へと突き付けてきた。
愉快そうに細められた目は私に対する優越感に満ちていた。左の口角を大きく上げたその口元の笑みは私に一切の期待をしていなかった。彼の水色に射抜かれたこの瞬間、私の存在は、私の価値は、きっと路傍の小石よりも些末で矮小なものだった。彼の簡潔な言葉により、私の劣勢があまりにもはっきりと位置付けられてしまった。私は今この場において完全に、劣っていた。
「ワタクシだからできるのです。あなた程度の迷えるウールーに使いこなせるような、ライトなものではないんですよ。この人智を超えるエスパーパワーというのは、ね!」
彼は私の剣幕に一度は確かに圧倒されていた。私の懇願が気紛れに発されたものではなく、心からのものであることを理解していた。その上で彼は、否定したのだ。私にはできないと、私にはその力がないと、だから諦めろと。
ああ、と、ボールを取り落として手持ち無沙汰になった右の拳をかたく握り締めながら、私は思う。こんな心地を今まで一度でも味わったことがあっただろうか? こんなにも劇的で、こんなにも悔しく、こんなにも恥ずかしく、こんなにも楽しい思いを、したことが? その全ての心地に対して、息苦しい程の感動を覚えたことが一度でもあっただろうか?
ない。あるはずがない。これは未知のものだ。これは私の経験したことがないものだ。そしてこれが、これこそが、私の望んでいたものに違いないのだ。やっと見つけた。やっと叶った。……やっと。
コツン、と浮いたモンスターボールが私の額を小突いた。劣った私をからかう意図でぶつけてきたと思しきそれは、勿論、額に「当たった」という感覚を覚える程度のものでしかなく、痛みは全くなかった。けれども「当たった」というその事実、それが与える僅かな衝撃が、私の目から何かを零していく。つう、と頬を滑るそれが涙であることに、私も彼もすぐには気付くことができなかった。
おや、と思い意識的に瞬きをすれば、より大きな粒になって転がり落ちていった。泣いたのは随分と久しぶりだった。旅立ちの日、不安を覚えたらしいメッソンの号泣に引きずられる形で大泣きして以来、涙腺というものを使う機会は一度もなかった。ムゲンダイナを捕らえた時だって、安堵に涙を零すなどということはしなかったのに、どうしてこのようなところで、こんなものを?
この現状に私は少なからず動揺した。けれどもその動揺を表には出せなかった。何故なら目の前で彼が「ええっ!?」という驚愕の悲鳴と共に、シルクハットの周りに浮かせていたボールの全てをコロコロと落としてしまったからだ。
「ちょ、ちょっとお待ちなさいな! ホワイ!? 何故、今此処でそのような涙を! そんなにこのエスパーパワーが使えないことがショックだったのです?」
「いや、そういう訳ではなかったはずなのだけれど」
何故だか分からないがこの青年、セイボリーは、私より先に悲鳴を上げ、私の動揺を大きく凌ぐ勢いで大混乱している。先程までの「エレガント」な、いっそ冷徹とまで思われたその様相から一転、焦りと当惑を露わにし、その整った眉をくたりと下げ、水色の目を大きく見開いて慌てふためく様子は私を少しばかり元気にさせた。私の男勝りな口調と同様に、彼のエレガントな立ち振る舞いや澄ました挙動というのはどうやら、彼の矜持を保つための装甲の一つであるようだった。
とはいえ、どのような形であれ、話し相手を混乱させるのは本意ではない。そのため、できるだけ早く泣き止みたい気持ちはあるのだが、止め方が分からない。感情の落としどころが見つかればどうにかなるのかもしれないけれど、そもそも何故、涙なんてものが出てきたのか自分でも全く、分かっていない。
私にはできない、と言われたことがショックだった? 出会ったばかりのこの青年に、魔法のような素晴らしい力でマウントを取られたことが屈辱的だった? いや、違う。そんなネガティブな感情だけでほろほろと泣ける程、私は健気な人間ではない。
一向に泣き止む気配を見せない私を前にして、彼は動揺し、狼狽えまくっている。申し訳ないことをしているなと思いながらも、これを止めるための手立てを未だ私は見つけられずにいる。そうこうしているうちに、頬を滑り落ちてきたそれが顎の先へと集まっていき、木の実が自然に木から落ちてくるような自然さで、たった一粒の雫になって、降った。思わず視線をそちらに落とし、その大きな水が駅のフロアタイルに小さな染みを作る瞬間を目に収めようとした。
彼が咄嗟に右手の指を「それ」に向けていなければ、間違いなくその水はタイルの上で弾けていた。
「な、泣くのはもうおよしなさい。お願いですから!」
「……」
つまらない私の目から溢れた液体であることを忘れるくらい、その水の玉が淡い光を放ちながら、私と彼との間に浮かんでくる様は本当に美しかった。彼の人差し指、その爪の先から数センチのところの距離で得意気に揺蕩うその一粒に、奇妙な嫉妬さえ覚えたくなる程であった。
けれどもこれではっきりした。たった今、私の目から零れたものに「仕掛け」を施す時間などあるはずもない。あの冷たい風が止んでいる今となっては、別の怪奇の存在を疑える予知も残されていない。つまり彼の指先が為しているこの不思議な浮遊は、巧妙に仕組まれた手品によるものでもなく、偶然が生んだポルターガイストめいたものでもなく、彼の意思により成り立つ、本物の。
「君の言葉に傷付けられた訳じゃない。できないことがあるという屈辱に愕然とさせられた訳でもない」
「で、では何ゆえにそのような」
「それが分からないんだ。君が見せてくれたそれが原因であることには違いないのだけれど。……ねえ、もっと見せてくれないかな。私にはどう足掻いてもできないものであるなら、せめて近くで楽しんでいたい」
本物の魔法。その再演を乞う私に、彼はひどく傷付いたような表情を向けた。相手にできないことを「見せつける」ようなその行為を、求められたからといって本当にしていいものかと、その水色の視線はあからさまな困惑と動揺に揺れていた。このまま彼の躊躇いが続けば、二人の間でふわふわと淡く光るこの水も、すぐに落下してフロアタイルの染みになっていくのだろう。それは残念なことだな、と思いながら瞬きをすれば、また新しく滑り落ちてきた。
ああっ、と悲鳴を上げたのはやはり私ではなく彼の方で、狼狽える彼のズボンのポケットから何かがひとりでに引き抜かれ、勢いよくこちらへ飛んできた。彼が身に着けているヒラヒラの布と同じ、黒い色のハンカチ。右手の指示に従う形で私の眼前にやってきたそれは、恐る恐るといった調子で私の頬に軽く触れてきた。誰かの涙を拭く、という行為はその操り手であるこの青年にとってあまり馴染みのないものであるらしく、そのハンカチはぽんぽんと、衣類の染み抜きをするかのように頬の上で踊るばかりだった。
その動きの愉快さに私は思わず笑ってしまう。そのハンカチを人差し指一本で使役する彼の方が、何故だか泣きそうな顔をしている。私が先程落とした一粒は、私と彼との間で実に行儀よくふわふわと佇んでいる。
「もう! あなたは不可解極まりない! 自分にできないことであると分かっていながら、それを延々と眺めて、悔しさを噛み締め続けることを望むなんて」
「ふふ、面倒をかけてごめんなさい。でも見ていたいと思ったのは本当なんだよ。ハンカチの愉快なダンスも楽しませてもらったし、君の慌てる姿が面白かったから、きっとこれも直に止まるはず、大丈夫だよ」
「……本当でしょうね? まったく、らしくもなく動揺してしまいましたよ。たったこれしきのテレキネシスで誰かに泣かれた経験など、今までついぞなかったものですから」
テレキネシス。
ガラルの旅では耳にすることのなかった単語だけれど、それの意味するところは知識として知っていた。成る程、彼が人差し指一本で為してきた、手品でも怪奇でもないその魔法には、そんな名前が付いているらしい。
「……聞いたことは、あるよ。超能力のようなもので、ものを浮かせたり人の心を読んだり近い未来を予知したりできる」
「理解がおありのようで助かります。すなわち、才覚を生まれながらにして持っていなければできない芸当なのですよ、こういうことは」
ですから、と付け足して、今度は彼がぐいと身を乗り出してきた。僅かに背中を曲げ、私の目をのぞき込むように顔を寄せつつ、右手の人差し指はハンカチの使役のためにピンと伸ばされたままであった。彼は更に、白い手袋を嵌めた左手を、二人の間を漂っていた小さな水の玉の下へ、手のひらを上に向ける形で差し出した。
私の目から零れたそれ、彼の魔法により宝石のようなまるく美しい形を取っているそれは、彼の無言の指示に従うようにして、ゆっくりと彼の左手に下りていく。そうしてまるい水は白い手袋に触れるや否や、ふわりと花が咲くようにとろけて、崩れて、小さな染みになって彼の手の中に引き取られた。私の、私でさえ分かっていない不明瞭な感情の結晶を、彼はその感情も含めて、見事に引き取っていった。私には、指一本たりとも触れることなく。
何に感極まったのか分からないままに零れ落ちたその一粒は、彼の手の中という、安心できる居場所を見つけて安堵しているようにさえ見えた。そうした、私の一粒が為す安堵とは裏腹に、やはり彼は悲壮感さえ感じさせる声音で、泣き出しそうな表情のままに捲し立てた。
「さっ、先程の発言は、ワタクシがこういう力を持つ稀有な人間であると知らしめるための、エレガントな言葉選びに徹したまでのことでして、その……決して、あの言葉であなたの価値を貶めたかった訳ではないのです! 分かっていただけますよね!」
美しい、と思った。苦しい、とも思った。美しすぎて、息苦しいのだ。彼の力が織りなす光景も、彼の粗削りを極めた真っ直ぐな気遣いも。その左手に引き取られてしまった、私のたった一粒さえ。
「……ええ、分かる。分かっている」
この青年は、私の矜持を自分がへし折ってしまったのではないかということを尋常ではないレベルで危惧している。彼自身がプライドの塊のような人間であることも相まってか、彼はそうした、相手の矜持を害する言動や行為にひどく敏感であるようだった。自身の矜持をなるべく高いところで維持しようと努めており、それを害する者への容赦はしなさそうではあったけれど、そのために他者を貶めたり他者の矜持を砕いたりすることは絶対にしたくないと考えているのだろう。
そんな、少々の我が儘と子供っぽさを孕んだ誠実性に、私はひどく優しい気持ちにさせられてしまった。涙が溢れる程の劇的な出会い、その相手がこの人であったという偶然に、感謝したくさえなってしまった。
大丈夫だ。本当に分かっているよ。気にしなくていいんだ。私の価値が貶められたなんて思っていないさ。そういう意味で泣いた訳じゃないんだ。不安にさせてしまってごめんなさい。
そうしたことを繰り返しながら、私は彼の泣きそうな表情が少しずつ安堵に和らぐ様を眺めていた。彼は自身の中に渦巻く後悔と不安と焦燥を処理するので手一杯だという顔をしながらも、ハンカチで私の頬をそっと撫でたり二人の間に佇む水の玉をそのまま浮かせておいたりといった、魔法……テレキネシスをやめることは決してしなかった。
ああ、もっと彼の憂いを取り払える言葉を言えたらいいのに。彼が見せてくれたテレキネシスに対する、息苦しくなる程の感動を、もっと適切な表現で伝えることができればいいのに。
そう考えていると、ふいにハンカチの、染み抜きを模したようなダンスの挙動がそっと止んだ。流石にアンコールは受け付けてもらえないかな、などと名残惜しくもそんな風に思っていたのだけれど、彼はどうやらこのタイミングでようやく、そのハンカチの押し当て方が少しおかしいことに気付いたらしい。コホン、とそれまでの愉快なハンカチの舞踏を誤魔化すように咳払いをしてから、人差し指でくいと宙を混ぜるようにすることでそれは再び動き出す。今度はぽんぽんと押し当てるのではなく、撫でるように私の頬へと、触れてきてくれた。
美しい、と思った。苦しい、とも思った。美しすぎて、息苦しいのだ。
「ここまで神秘的で綺麗なものに出会えたのは初めてだよ。私はずっと、こういう劇的なものに会える日を待っていたんだ。今日やっとその夢が叶った。君に、叶えてもらった」
「……」
「凄いね、本当に凄い。こんなに息苦しくなる程の感動に見舞われるなんて思っていなかった。あまりにも素敵で、言葉にできない。……だから泣いてしまったのかも。驚かせてしまって、ごめんなさい」
羽のように柔らかなその黒い生地が頬をそっと撫でていく感覚が心地良くて、目を閉じたままそのハンカチへと頬を預けてみた。触り心地をもっとよく味わいたいが故のほぼ無意識的な行動だったのだけれど、そうしてしばらく楽しんでから目を開けた先にいた彼の顔は、何かの激情を示すかのようにほんのりと赤く染まっていた。憤怒によるものか、それとも羞恥によるものか。
あるいはもっと別の、などと考えかけた私の頭に、今までで最も大きな彼の悲鳴がとどろいた。
「卑劣です!!」
「……えっ、何? 卑劣?」
「『さいみんじゅつ』の使い手なら予めそう言ってください! 事前告知がないとろくに防衛もできないじゃありませんか! ああっもう! 卑劣過ぎて眼鏡が曇ってしまう!」
火山が噴火するかのような怒涛の勢いで、彼、セイボリーは私への叱責と自身の狼狽を、やはり悲壮感漂う声音と泣き出しそうな表情はそのままに、今度は頬を赤らめるというオプションまで付けた上で饒舌に捲し立てた。曇ってしまう、などと言い終えた瞬間、完璧なタイミングで本当に眼鏡のレンズが白くなったので、私はつい、声を上げて笑ってしまった。彼の激情の理由を推察することなど、すっかり忘れてしまっていた。
2020.6.21