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 ねがいぼしを煮詰めた宇宙の色、深い深い紫の顔が、査定の機会を伺うようにこちらを見上げていた。

「貴方は選択を誤ったね。ダンデさんが投げたあのボールに、潔く収まっていればよかったのに。そうしていれば今、そんな気持ちになることもなかっただろうよ」

 モンスターボールに収まる程に小さくなってしまったその体躯は、この存在がポケットモンスターであることを真に示している。けれども凄まじい規模でのダイマックスを遂げたその姿は、ガラル各地で記し残されてきた伝説のブラックナイト、大昔の災厄、まさにそのものであった。ターフタウンの地上絵、ナックルシティの宝物庫、ラテラルタウンにあった遺跡、キルクスタウンの破れたタペストリー、私が旅で見た全ての記憶がその認識を肯定する。これが、これこそがブラックナイトであったのだと。私とホップがあの屋上で為したのは、まさに伝説の再演であったのだと。
 この役目は本当に私でなければいけなかったのか。大昔の災厄と呼ばれしブラックナイトを人の手の中に納めなければならないのだとして、その手の主が私である必要性は本当にあったのか。ホップの方が、ダンデさんの方が、あるいは他の誰かでもいい。私よりもずっと、適した誰かが。……などと、己の行動を振り返るのはいつだって全てが終わった後だ。先に悔いることの叶う利口な頭になれないまま、私は此処まで来てしまった。いつだって後悔は先に立たないのだ。

「貴方を、丁重に、貴方という存在に相応しいように扱って差し上げられる気がしないんだ。分かるだろう?」

 ムゲンダイナは答えない。ポケモンは人間の言葉を語らない。彼等が何を望んでいるのか私には分からない。彼等は自らの望みを言語化する術を持たない。その点において、彼等は私と同じだった。期待通り、指示通りに動くことしかできないという点において、私はこのボールの中に縛られた災厄にとてもよく似ていた。
 時刻は午前4時。東の空が明るむ気配さえまだ見えない頃だった。シュートシティにある立派なホテルを宛がわれた私は、立派な部屋の立派なベッドに腰掛けて、立派なドアがノックされる瞬間を今か今かと待っていた。常識的に考えて午前4時に部屋がノックされることなどそう滅多に起こるものではなかった。それでも一度「オン」になった警戒のスイッチは、ムゲンダイナを手にした昨夜からずっと「オフ」に切り替わることのないままだった。

 この現状を劇的に変えてくる者の訪れを、こんな時間にはまず来ないと分かりきっているはずの誰かの訪れを、私は一晩中待っていた。いつ来てもいいように身構えていた。警戒していた。すなわち、私は一睡もしていなかった。何の意味もない徹夜であった。
……もっとも、この警戒の心地がなくとも、私は眠れていなかったかもしれない。この部屋は無音ではなかった。私がこうして気紛れに喋り続けていたというのもあるけれど、それ以上に「風」が煩かった。ドアのノック音の代わりに、日付が変わる頃から急に強さを増した夜風が、それはもう頻繁に、窓をカタカタとノックし続けていたのだった。
 その間に、私とムゲンダイナとの関係性は、悪くこそならなかったけれど、良いものにも決してならなかった。ナックルスタジアムの屋上で昨夜、今から丁度6時間くらい前、何かの間違いで私の手の中にやって来てしまった災厄。その存在とこうして一夜を共にしたくらいで、打ち解けることなどできるはずもなかった。私がトレーナーになった始まりの日、ハロンタウンでの夜、一緒にベッドに寝転がってお喋りをして、腕に抱いて眠っただけであっという間に仲良くなれてしまった最愛の相棒、メッソン。彼のようには、いかないのだ。

「ガラルのエネルギー問題を解決するために、貴方は利用されようとしていた。それを救ったことについて後悔はしていないよ。貴方も命である以上、守られる権利、生きる権利を有している。貴方を救えてよかったと、心から思っている」

 命は、生かされるべきだ。命は、守られるべきだ。正しいことだと信じて戦い抜いた。寄せられる期待のままに力を奮った。その結果、その命が何故か私の手の中に在る。

「でも、私のところに来てしまったのは良くなかったね。これから私がどうなってしまうか、貴方にも分かっているんだろう。……そこには貴方もいるんだよ。貴方も、招待されてしまうんだよ」

 誰がこの部屋のドアをノックするのかは分からない。でも「何のための」ノックであるのかは分かりきっている。私はあのドアの向こうに立つ誰かに呼ばれる。呼び出し先はシュートスタジアムだ。私のファイナルトーナメントはあと一戦残っている。私は戦い、そして勝つ。ダンデさんが勝てなかった存在を私が手中に収めてしまったのだ。もう私は彼を、雲の上の、到底敵わない存在である、などとは思えない。私はきっと勝つ。勝ってしまう。
 現チャンピオンであるダンデさんとのポケモンバトルは、今回の騒動でなかったことにできる程、軽いものでは決してない。皆が、……大袈裟な表現ではなく本当に「皆」が、私と彼との戦いを待っているのだ。あの決戦を中止にすることはできない。ガラルの「皆」がそれを望まない。だからあの場に臨むことこそが正しいのだ。「皆」がそう期待しているのだから、応えるべきだ。勝つべきだ。
 いつも通り、自信を持って。これこそが正しいのだという確信のもとに。
 でも。

「貴方は本当にそれでいいのか? このままあのスタジアムでの一戦を、貴方の物語の終わりにしてしまっていいのか? 貴方は、貴方の運命が『チャレンジャーの切り札』なんてものに縫い留められてしまうことを許せるのか?」

 私は本当にそれでいいのか? このまま旅を終わらせてしまっていいのか? 私からは何も望んで動くことがないままに、この運命的な旅を「チャンピオンに勝利した最強のポケモントレーナー」なんてもので縫い留めてしまっていいのか?

「……貴方は、それで本当に後悔しないか?」

 私は、それで本当に後悔しないのか?

 ボールの中、宇宙の色がこちらを見ている。深い深い紫と、煌々と照る赤。本やテレビでしか見たことがないけれど、きっと宇宙はこの色をしている。ねがいぼしを食べ続けて覚醒を果たしたこの命に宇宙が宿っていたとして、何の不思議もない。宇宙に漂う綺麗な秩序のもとにムゲンダイナはこの色を取った。その秩序のからくりを、私如きが知ることはきっと永遠にないのだろう。

 私には過ぎた存在。私には扱いきれない無数の星々。ねがいぼしの化身は、宇宙を体内に飼うこの災厄は、けれども未だ私の元を去らない。
 私には過ぎた運命。私には扱いきれない重厚な役目。そこへ導く者によって叩かれるはずのドアは、私を最強の座へ縫い留めようとする者を向こう側に据えるそのドアは、けれども未だそのノック音を響かせない。
 ドアが音を立てないのは、まだその時が訪れていないからだ。ねがいぼしの化身が私の元を去らないのは、この災厄が私を見定めかねているからだ。今は猶予の時である。運命とやらに、面白い程に雁字搦めにされてしまった私へ与えられた、きっと、最後の猶予の時である。
 それなら。

「ねえ、こう考えてみないかい。守られる権利や生きる権利を有した貴方には、同時に、従うべきトレーナーを選ぶ権利だってあるのだと。貴方はその権利を使って、この私に従うか、私を切り捨てるか、選ぶべきだと」

 そうあるべきだ。そうであってほしい。だって貴方は、選べるのだから。そうだろう?

「選んで、いいんだよ」

 私は勢い良く立ち上がった。昨夜は一睡もしていないにもかかわらず、気分は非常に明るいものだった。体は少しばかりふらふらとする。休息を求める体と、休みたくない頭とが私の心を引っ張り合っている。神経の束がぷちぷちと千切れていくような感覚が、音の形で脳内に木霊している。その不思議な痛み、痛覚としてはまるで拾えないその幻の痛みがひどく心地よかった。こういうものをきっと人は「徹夜のテンション」と呼ぶのだろう。

「さあムゲンダイナ、ちょっと遊びに出かけてみないかい。貴方が見初めた私がどれほどつまらないものか、思う存分見定めていくといいよ!」

 一睡もしていないから、頭が弱くなっているのだ。冷静な判断を欠いているのだ。でなければこのようなこと、できるはずがないのだから。
 チャレンジャーである私はこのホテルで大人しく待機しているべきだ。風ではなく人の手によって、窓ではなくあのドアがノックされる瞬間を今か今かと待つべきだ。間違っても自らドアを開けて、この星の化身、災厄の象徴と共に飛び出していくようなことがあってはならない。分かっている。分かっている。それでも私の弱った頭は、随分とめでたい気分のもとにめでたい指令を繰り出して、私の手をドアノブへと導いていく。
 間違ったことをしている。正しくないことをしている。そのことにこんなにもわくわくしている私は、やはり頭がどうかしている。けれど、それでもいいと思えてしまった。一睡もできなかったというちょっとした「事故」が、これから為す愚行の起爆剤になってくれるのならば、それはとても都合がいいことで、歓迎すべきことだ。

「ガラルのポケモントレーナーは皆、いい人ばかりだよ。たまたまあの場にいたのが私だからって、こんな奴の手の中に固執する必要はないだろう。貴方は選ぶべきだ。貴方は、選んでいいんだ」

 ガチャリ。ドアが開く。午前4時のホテルの廊下はやさしい光に満ちていた。明るかったが、眩しくはなかった。周りに人のいないことを確認してから、私は右手でリュックサックを引っ掴み、左手にはムゲンダイナの入ったボールを握り締めたままの状態で、その左手の小指だけすっと伸ばして部屋の電気を消すスイッチを押した。闇が下りたことを確認してから、廊下に出た。部屋のドアを閉める寸前、強い風が外で吹き荒んだらしく、まるで拍手でもするかのように今までで一番強く窓をガタガタと鳴らしていった。
 ああ、ああ。私はなんてことを。なんてことを!

「きっとね、猶予が必要なんだ。貴方にも、そして私にも」

 その猶予がようやく手に入った。最初で最後のチャンスだ。ドアがノックされる前に、役割が与えられる前に部屋を出ることで生じた、たった一度きりの猶予。やっと手に入れた。私の勝ちだ。私達の、勝ちだ!
 深夜のささやかな脱走を、そんな風に正当化できる程度には気分がよかった。私は全力で廊下を走り、エレベーターではなく非常階段を使って一階まで下りた。コンコンと鳴る靴音が鼓膜を、心臓を、軽快に叩いていた。もう後には引けない。戻るつもりだって更々ない。

 静かなロビーを忍び足で歩き、正面のドアから外に出て、スキップで街を歩いた。あのような騒動が起こった直後ということもあってか、委員長の手により発展したこの街は不気味な程に静まり返っていた。
 今ならあるいは、と思って、私はムゲンダイナの入ったモンスターボールを宙に投げてみた。現れたねがいぼしの化身、災厄の象徴、けれどもたった一匹のポケモンに過ぎないその存在は、何かを探すように首をきょろきょろとさせた。明らかに人の目が自身に向くことを警戒する動きだ。自身の存在が「どういうもの」であるのかを完全に理解していなければ起こり得ない挙動であった。しばらくそうして街の静けさを確認して、ようやく、自らの姿が騒ぎを招く事態にはならなさそうだと察したのだろう、ムゲンダイナは大人しく、私の後ろに付いてきた。

「もっと閑静な場所があればいいのにね。貴方を恐れる人も、私を知る人もいない、そんな場所へ行けば、私達はもっと楽しくなれるだろうか」

 そんな「独り言」を吐き出しながら、明かりの消えたショッピング街を通り抜けて、広場を闊歩し、トンネルを潜って、10番道路へと向かう。小高い坂の向こうに広がっているであろう、冷たく綺麗な雪景色を思いながら、ねえ、と一人首を傾げて微笑んでみる。ムゲンダイナに話しかけている、とするには、まだ私と彼の信頼関係は弱いものであった。彼が私の話を聞いているという確信など持てるはずもない。だから、独り言であるとした方が気分として楽であったのだ。
 閑静な場所。ガラルでそれを叶えてくれそうな地域があるとするならば、それはワイルドエリアの砂丘地帯か、もしくはキルクスの入り江くらいのものだろう。けれど、少なくともこの街を歩いているよりはずっと自由な心地になれるのではないかと思った。

「……ああそれとも、いっそ私のことも貴方のことも知られていないような遠くへ行ってしまった方がいいかな? 私はカロス地方が気になっているんだ。ガラルに負けないくらい、美しい場所だと聞いているよ。街も、道路も、自然も、人の心も」

 などとうそぶいて振り返った私は少々、驚いた。すぐ後ろを付いてきているとばかり思っていたムゲンダイナは、10番道路に通じる街のトンネルを潜らず、シュートシティの入り口からじっとこちらを見ているばかりだったのだ。いくらムゲンダイナの体躯が大きいとはいえ、トンネルを通れない程ではないだろう。ではあの停止は意図的なものだ。ねがいぼしの化身様は、私には計り知れない何かしらの意図を持って、お立ち止まりになっているのだ。
 どうしたんだい、と尋ねようとした私の背中を、強い風が勢いよく叩いた。

「!」

 10番道路の冷たい空気を運んできたその強風は、まるで女の子が歌っているかのような高い音色を響かせてトンネルを走り抜けていった。とても強い風だった。背中に刺さる冷気の痛みが、トンネルを楽器のように楽しく吹かす高い音色が、そして、雪に混ざって飛んできた一枚の紙切れのスピードが、その風の険しさを目の覚めるような鮮明さで示していた。私は咄嗟に手を伸ばしてその紙切れを掴もうとしたけれど、風は私の反射の遅さを嘲笑うようにそれを浚っていった。悔しさに握り締めた拳は、けれどもトンネルの向こうで待機していたムゲンダイナがその紙切れを、口と思しきところで造作もなく上手にくわえたことにより、安堵とともに緩やかに解かれることとなった。

「ふふ、流石だね。まるでその紙切れの方から、貴方のところへ飛び込んでいったみたいだった」

 紙切れをくわえた状態でムゲンダイナはようやく動き出した。風が吹くことを、その紙切れを私が取り損ねることを、何もかも見通しているような挙動には畏れ入るばかりだ。このように、畏れ入るのは私の側であるはずなのに、ねがいぼしの化身は私にそれを、恭しく首を垂れるような挙動と共に差し出してきた。苦笑しつつお礼を告げて受け取り、確認すると、それはチケットのようであった。少し古風な字体で「ヨロイ島行き」と印刷されている。

「ヨロイ島……何処にあるんだろう」

 おそらくはとても遠い場所か、とても知名度の低い場所であるに違いない。それはつまり、私とムゲンダイナにとても都合がいい場所である、ということになりはしないか? このヨロイ島こそが、私達の猶予の舞台とするに相応しいところなのではないか? 私は偶然にも、ムゲンダイナの力を借りつつ、そうした舞台への切符を手にすることが叶ったのではないか?
 そこまで考えを巡らせてしまってはもう、向かわない道理などあるはずもなかった。

 ただ、問題は手段である。チケットなのだから駅へ向かえばどうにかなるだろうとは思ったけれど、それ以上のことは誰かに尋ねないと分からなさそうだ。つまりは、少なくとも駅員さんと顔を合わせなければならないということになる。この騒動の渦中にいた人間であると知られずに、上手く動けるだろうか。私がユウリであることを、災厄を連れていることを、隠し通せるだろうか。
 時刻は午前4時半を回っていた。東の空が明るみ始めていた。迷っている時間はもうなかった。10番道路を大急ぎで駆け下りて、駅員にこの切符を見せなければならない。乗り継ぎが必要であったとしても、改札さえ通ってしまえばどうとでもなる。どうとでもしてみせる。やっと手に入れた猶予だ。中途半端に踏み外すのでは、つまらない。

「上手くやるさ」

 あまりの興奮に心臓が張り裂けそうだった。誰に期待された訳でもないのに、誰の指示を受けている訳でもないのに、正しいかどうかも分からないのに、それでもこの体が動いているという事態、私にとっては異常すぎるこの事態に、私は不思議な程、わくわくしていた。

「さあ、一緒に行こう。そして一番近くで見ていたまえ。貴方を、この破滅的な冒険の道連れにして差し上げるよ!」

 雪の吹きすさぶ10番道路を、転がり落ちるように駆け出した。宇宙の色はぴったりと、私の後ろを付いてきた。

2020.6.19

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