昨日は大学時代の友人にお食事へ誘われたので珍しく出かけてきました

赤の他人と食事するとかほんま在り得へんわとか思っていたのですが、
「彼女はもう大学院を卒業し、関東地方で働き始めるため、この日を逃せばもう此処に戻ってくることがない(実家も中国地方にある)」
「一度、秋に食事へと誘われていたが、2人きりではなく5人での会合であったため恐ろしくなり断っている……にもかかわらずもう一度誘いが来た」
「優秀であった彼女が大学院への進学後、進路や人間関係で思い悩み、この界隈では理想とされる就職先を諦め、資格不要の職で内定を貰ったことを知っている」
「所謂「陽キャ」であり数多の友人に恵まれており食事相手には事欠かないであろうにもかかわらず、わざわざ学部卒で2年間会っていない私を相手として選んだ」
などの理由から、最低1回はお会いしなければならないのではないかという気になってしまい、私にしては随分と思い切ったことをしてきました。

学部生時代、優秀でお優しい教授様方が説いてくださった働き方というのは所詮理想論であり、現実はそんな輝かしく明るいものではない。
私はその事実に、社会人として現場に飛び込んでからようやく気付くことができましたが、彼女は大学院生として病院に顔を出し続ける中でじわじわとその確信に至ったようです。
彼女から聞くことができたのは、私が「理想を貫けるのは大学病院や県立病院など一握りの世界」だと思っていた、その「一握りの世界」にさえ生じている「歪み」の話でした。
私達は、尊敬していた教授様方が私達に説いてくれた「夢物語」を現実にできるだけの力を自分たちが持てなかったことを悔いながら、
彼等が私達に聞かせてくれた桃源郷めいた場所は何処にも存在しなかったという事実に大きな絶望と少しの安堵を覚えながら、
たまに彼女が最近観たという映画の話や私の新しい生活についての話などを交えたりもしつつ、サーモンとキノコの和風パスタを少しずつ、食べました。

彼女はもしかしたら、こういう、……ただ面白いだけの話ではなく、意見や考察を伴った話題を展開するために私を呼んでくれたのかもしれないと思いました。
私は、……食べ物を挟んだ対面式の会話で面白いことをどかどか言えるほど、コミュニケーション能力に長けた人間ではない。
そんなことは、学部生時代を共にした彼女なら分かり切っていたはずです。でも、彼女が私に求めたのはそういう面白い時間ではなかった。
彼女は私に意見と感想を求め、私は真剣に応えを示した。彼女には私の拙い意見を聞く準備があり、私も彼女に自らの意見を開示するだけの心構えがあった。
だからこそ、私は彼女との食事に2時間半を使うことができたのだと思います。

不思議な時間でした。食事が正しく「人との対話を続けるためのツール・媒体」として機能したという、私にとってはとても、とても珍しい経験でした。
でも皆さんにとってはこんなこと、きっと日常茶飯事なのですよね。
大多数の人というのはきっといつでもこんな風に、ご友人と、先輩や後輩と、時に尊敬する方や恋人や家族と、食事を楽しんでいるのですよね。
すごいなあ。

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