Case5:マリィ
「今日は青なんやね」
夕方のスパイクシティ、奥に佇む慎ましやかな一軒家。
少しだけ髪の濡れたユウリの訪問を歓迎しつつ、マリィはニットベレーの色を指摘する。
ユウリは微笑みながら「立ち寄ったワイルドエリアの湖周辺が、雨だったからね」とよく分からない理由を述べるばかりだった。
それは彼女が青い帽子を被る気分に「なった」というよりも、天候がそうした気分に「させた」という意味合いの方が強いように思われて、
天気がそう云ったのだから仕方ないさ、とでも言いたげな彼女の目が、マリィには理解できないながらも、とても面白く興味深いものとして映っていたのだ。
「昨日のバトル、見たよ。やっぱりユウリは圧倒的やったね」
「そうかな。ダンデさんがするバトルのような盛り上がりには及ばなさすぎるものだったと思うけれど……でもマリィにそう思ってもらえるのは嬉しいね、ありがとう」
そんな同年代の少女、新チャンピオンでありかつてのライバルでもあった彼女が、2日と開けずにネズの家を訪問しているという事実は、マリィにとっては些か嬉しいものであった。
ネズの家はすなわちマリィの家でもあるのだが、マリィ自身は都会の街へ出かけることが増えたため、外泊して帰る日も彼女にとっては珍しくなかったのだ。
その間の兄の孤独が、他の誰かによって埋められているのなら、そしてそれを兄が受け入れているのなら、それは兄にとってもマリィにとっても喜ばしいことだ。
そういう意味でマリィは、どういう意図があってなのかは分からないにせよ、頻繁にこの家を訪れてくれる彼女に感謝している。
リビングへとユウリを通して「適当にくつろいで」と声を掛けてから、スマホを取り出して兄へと連絡を入れる。
「ユウリが来たよ」と告げれば、彼は表にある舞台での練習を即座に切り上げ、10分と経たずにこの家へと戻ってくるのだ。
これまでにも、ネズの練習中にユウリが訪問してくることは何度かあった。マリィはその時、家にいることもあるし、いないこともあった。
ちなみに、こうして兄よりも先にユウリと二人きりになる機会を得られたのは、今日が二度目のことだ。
前回は確か、兄が来るまでの間、一緒に脳トレ問題を解いて遊んだ。ユウリは頭が圧倒的に固かった。恥ずかしさに顔を赤くしていた記憶はまだ新しい。
今日はどうしようかと考えたが、どうせ面白いことを考えたところで、すぐにその時間は兄に譲ることとなってしまうのだからと思い、このままのんびりと会話を続けることにした。
「決勝も盛り上がっとったけど、ビートとの2戦目が特に熱かったよ。
相性のいい技を出せるポケモンを選んで賢く立ち回ってきとったのに、最後のダイマックス勝負になった途端、エースのインテレオンを出して、力業に切り替えて……」
そう言いながらリビングに入ると、ユウリはソファに座っていた。
兄のお気に入りのソファ。兄が最高にリラックスした状態で愛読書を読む、そのためだけにわざわざ他地方から取り寄せた、目玉の飛び出るような高級品。
彼自身も、本を読むとき以外にはそのソファを使わない。マイクの次に大切にしているものと呼んでも差し支えないと思う。
今、それにユウリが当然のように座っている。兄が、彼女に座ることを許したのだと分かってしまう。マリィにはそれが愉快でたまらない。嬉しくてたまらない。
「私のインテレオンはフェアリータイプに有効打を持たないから、ずっと場で活躍させておくことは難しいんだ。
だからビートがブリムオンを出すタイミングまで待機してもらっていたんだよ。彼には少し、もどかしい思いをさせてしまったかもしれないけれどね」
そうした喜びを噛み締めつつ、マリィは話を聞く。
高級なソファに体を沈め、凛々しい表情でこちらを真っ直ぐに見る彼女を見ていると、
見慣れた兄のお気に入りが、まさに彼女のための玉座であるようにさえ思われてくるのが、また面白くて小さく笑ってしまう。
……それにしても、相変わらず、よく考えてバトルをする人だとマリィは思う。
頭の切れる子で、知識量は同年代のジムチャレンジャーの中でも群を抜いていて、センスだって引けを取らない程度には持ち合わせていて、
それらの武器を駆使して、ポケモン達の実力を信じて迷いの一切ない指示の出し方をして、そうして最後には必ず勝つのだ。
「インテレオンもユウリも、ビートも、楽しそうやった。ダイストリームの後の雨、あたしも浴びたかったなあ」
「おや、面白いことを言うね。私とインテレオンにとっては喜びの雨だけれど、君にとっては重く冷たいばかりで、あまり嬉しいものではないだろうに」
「でも雨が一番「ユウリと戦っとる!」って思える天気やから、あたし、嫌いじゃないよ」
強い、強い、ただただ強い。それがチャンピオンであり、それがユウリだ。
マリィにとってはそうであった。そしてきっと、他のガラルのトレーナーも同じように彼女を見ているはずであった。
だからこそマリィは、そんなユウリがこの寂れたスパイクタウンに、シュートシティよりも高頻度で足を運んでいるという事実に少し驚いている。
更には彼女がネズに、マリィの兄に会うために此処を訪れたときに、覇気のなさすぎる弱々しい表情を示すことも、大きな気掛かりとなっている。
「次のトーナメントに出るときには、招待制度を使ってあたしを反対ブロックに呼んでよ。そうしたらあたし、あんたと戦うために絶対に決勝まで勝ち上がるけん!」
「え? ……ふふ、そうだね。あまり乗り気ではなかったのだけれど、マリィがそう言ってくれるなら断る理由なんてない。喜んで参加し、君を招待しよう。負けないよ」
嬉しそうに細められた、ユウリのその瞳は紅茶の色をしている。
兄が好むストレートの紅茶ではなく、蜂蜜をたっぷり溶かしたような、ゆらゆらと中で揺れている妙な液体。そうしたものを思わせる、可変性のある重たい目だ。
兄がかつて、この目を「毒めいている」と形容したことをマリィは覚えていた。
マリィにはこの目がそこまでおぞましいものには思えなかったけれど、妙な迫力と引力のある色だという認識には頷けてしまう。
そして不思議なことだがその目は、この家でユウリと顔を合わせる時が一番、重たく深く暗くなっているような気がするのだ。
「もしかしてユウリ、アニキのこと、嫌い? アニキに嫌々会いに行っとる訳じゃないんよね?」
その紅茶が重たく淀む理由をそう予想してマリィは尋ねてみたが、ユウリは何の迷いもなく「まさか!」と、いつものよく通る大きな声でその懸念を完全に否定した。
「私は嫌いな人物のもとへ足繁く通える程に人の良い人間ではないよ。ネズさんのことは大好きだし、慕っているし、尊敬している。怖いくらいにね。
だから私が一方的に、彼の都合も聞かずに押しかけているんだよ。彼は私の蛮行を許してくれているだけだ。……でも、嫌々だなんて、どうしてそんな風に思ったんだい?」
「……あたしの気のせいかも知れんけど、ユウリの目は此処に来る時が一番、辛そうに見えるから」
そう指摘するや否や、紅茶色の目が大きく見開かれた。
その瞳は、ジムチャレンジャーとして各地を回っていた頃の、ただひたすらに眩しく美しい色に戻っていて、マリィは少しばかり懐かしくなってしまったのだった。
どろどろとその瞳を歪ませていた蜂蜜は視神経の奥深くに沈み込み、脳へと吸い込まれて消えてしまったのかもしれない。
「君の慧眼には畏れ入ったよ」
慧眼の権化であるような彼女にそう言われて、嬉しくならないはずがない。
けれどもそれは同時に、人に「見抜かれること」に対して誰よりも気を遣っているはずの彼女が、この家ではその意識を欠いているということにも繋がる。
普段の彼女なら、マリィにこのような読みをさせたりなどしないだろう。マリィが「分かってしまう」ことが異常なのだ。
そんな彼女を異常にした犯人がたった今、玄関のドアを開けようとしている。
兄に負けず劣らず耳が良いマリィはそのことに気付いている。ユウリには勿論、気付く術がない。
そしてマリィは、兄の帰宅に気付かないふりをしている。慧眼の牙を折られた異常なユウリは、そんなマリィの拙い演技さえ見抜くことができない。
「その通りだよ、私はここにいるとき、一番辛い気持ちになる。ただ同時に、一番幸せな気持ちにもなれてしまうんだ。
辛いことを辛いと言えるこの場所に、それを受け止めてくれるこの時間に、私はひどくみっともない甘え方で寄り掛かってしまっているのだろうね」
「……そっか、よかった。じゃあアニキと一緒やね」
言葉足らずな安堵の息をマリィが悔いるのと、ユウリが苦笑しつつ「やはりネズさん、私と一緒にいる時間を苦痛だと思っているのだね」と返してくるのとが同時だった。
違うよ、と否定しつつ、さてこれは兄の了承を得ずに告げていいものだろうかと躊躇いつつ、けれどもこの二人なら大丈夫だろうとマリィは瞬時に確信して、口を開く。
「アニキもユウリに甘えとるってこと」
「それは……どうだろう。だって私は、許してもらっているばかりで」
「だから、違うってば」
キィ、と表の扉が開く音が聞こえる。先程まで扉に手を掛けた状態で大人しく聴いていたのだろうに、今になって急に焦ったのだ。
ユウリの言葉だけしっかり拾っておきながら、こちらには何も言わせないなんて狡い。そんな風に思ったマリィは、にっと笑って容赦なく続きを紡ぐ。
途中で割って入られることのないようになるべく早口で。発言も音の一部であるとして尊重する姿勢を崩さない兄が、途中で言葉を遮ることは決してないという確信の下に。
「ユウリがこれまで当たり前のように「許してもらっている」ことって、アニキにとって初めてのことばっかり。家族以外の誰にも、許してなかったことばっかり。
家に上げたり、紅茶でもてなしたり、お気に入りのソファに座らせたり、一緒に好きな本を読んだり、試合を観るためにライブのスケジュールを強引に調整したり……。
そういうの、これまで一度もしたことなんかなかった。全部、全部、ユウリが喜んでくれるって分かっとるからできたこと。ユウリには知っといてほしかった」
ほら、全部言えた。満足そうに笑いながらマリィは振り返る。
普段から顔色の悪いその顔を更に青ざめさせた兄が、呆れているような困っているような憤っているような、よく分からない絶妙な表情でこちらを見ている。
さあ、この時間を彼に返さなければならない。少し惜しい気もするけれど、構わない。
マリィにとっては友人を専有するよりも、兄が喜ばしい時間を過ごせることの方が重要であるし、
この友人は「トーナメントにマリィを招待する」という言葉を必ず果たすと確信しており、あの素晴らしい舞台で近いうちに再会できることは約束されたも同然であるからだ。
その、信頼の形をした甘えをこの少女に対して抱えているという点において、ネズとマリィはやはりとても良く似ていたのだろう。
「ねえアニキ、よかったね。もう本当に、大丈夫やね」
2019.12.21