Crazy Cold Case

FileA:アンコールの操り糸

14歳のチャンピオン。
たとえばジョウト地方やイッシュ地方の人間がこの単語を耳にすれば、どう感じるのだろう。
驚くのかもしれない。恐れるのかもしれない。ただ偉いことだと称賛するのかもしれない。
けれどもそれらの全てがこのガラル地方においては通用しない。14歳のチャンピオンなど、此処では全く珍しいものではないのだ。
その若さで? 無名のポケモントレーナーだったのに? などという野次は野暮というものである。
ガラルの人間、特に大人たちは、そんな14歳よりもずっと異質でずっと英雄めいていた「先代」を知っているからだ。
彼等にとっては14歳の新チャンピオンなど、カレーの隠し味にもなり得ない、クダラナイ存在でしかないようなのだった。

先代チャンピオン、ダンデは、わずか10歳の時にチャンピオンカップ優勝、以来数年間無敗を貫いてきた。
ガラルのポケモントレーナー全員が強くなることを心から望んでおり、そのための取り組みには一切手を抜かなかった。
何か地方で問題が起きれば、リザードンと赴き事態の鎮圧にかかる。ガラルの経済を担っていたローズが表社会から姿を消してしまった今、その役目さえ引き継ごうとしている。

非の打ち所がない人間であった。それほどの人間でなければチャンピオンになどなり得ないのだと誰もが納得していた。
彼をチャンピオンとして「認めない」人間など、ガラルにはただの一人も存在しないのではないかとさえ思われた。
その強さとカリスマ性はまさにエリートである。英雄である。伝説である。そしておそらくは、怪物でさえある。

そういう意味でこの男、ネズは、チャンピオンという存在を多少なりとも「畏れて」いた。
そしてまた、そういう意味でのみ彼は、今の、ほとほとチャンピオンらしくないこの少女のことが嫌いではなかった。

「君のやるべきことは此処にはありませんよ。さっさとシュートシティにでも向かったらどうです」

「つれないことを言うね、ネズさん。新しいチャンピオンがこうして毎日、貴方に会いに来ているんだよ。ようこそって、待っていたよって、歓迎してくれてもいいんじゃないのかな」

2人分の紅茶をテーブルに置く。慣れた手つきで少女はそのうちの一つを手に取る。ネズは彼女の隣に座る。ソファのスプリングが僅かにきしむ音がする。
目を閉じて紅茶の香りを楽しむ。「あったかい」という、幼さの残る小さな声がネズの左耳をくすぐる。
けれどもその声に少しだけ驚いたネズがそちらへと顔を向ければ、彼女はいつもの表情でこちらを挑戦的に見上げるのみである。
だからもう彼は、どうすることもできない。

スパイクタウンの最奥、薄暗いステージの更に奥にひっそりとネズの家はある。
ジムリーダーの座を妹であるマリィに譲り、さて自身はどうするべきかと考えていた矢先の、絶え間ない新チャンピオンの訪問に、ネズは始めこそ驚き、心配していた。
ジムリーダーとして新しい未来へと進み続けている妹よりもずっと重い役目を背負いながらも、妹よりもずっと緩慢な速度でしか前へと進もうとしない彼女を案じていた。
けれども今では慣れたものである。そうした心労を日々重ねていくつもりは更々なかった。
彼女は子供らしく、此処で駄々を捏ねていたいだけなのだと分かっているからだ。

14歳の新チャンピオンは、毎日、同じようにネズの自室で寛いでいる。
スマホロトムを呼び出してポケモン図鑑を眺めつつ、たまにボールからポケモンを出して遊び、そうして眠くなったらソファを勝手に占領して眠ってしまう。
チャンピオンなんて面倒だなあ、どうにかして辞退できないものだろうか、なんて、ともすればガラルの文化を冒涜しているとさえ思えてしまうその言葉を、
ただ否定せず、激昂せず、叱責せず、ああそうですかと頷いて聞いてくれる人間が傍に在りさえすれば、彼女はすっかり満足できてしまうのだ。

「ネズさん。……チャンピオンというのは、四六時中、チャンピオンで在らなければいけないのかい?
ガラルで流行するジムチャレンジとは、まだ10代の子供を捕まえてチャンピオンに祭り上げ、その子の行動や将来を「そこ」へと縛り付けることだった、とでも?」

「あのね、おれに訊いたところで分かるはずもないことだと思いますよ、それは」

「はは、そりゃあそうだ! 貴方はチャンピオンになったことがないのだものね。いや、実に賢い選択だと思うよ。
チャンピオンになんてなるものじゃない。これは英雄でも何でもない。こんな重たいものを背負って正気でいられたダンデさんはまさに、怪物だったのだろうね。
……きっと彼はようやく人間に戻れたんだ。その点においては、私は、彼から怪物めいた呪いを奪い取れたことを喜ばしく思っているよ。彼は今、とても生き生きしているから」

その点に関してはネズも気付いていた。
チャンピオンの座をこの少女に譲り渡し、ローズの役目を引き継いで忙しく走り回るダンデは、けれどもその役目の重さに反してとても楽しそうであった。

ローズも、ダンデも、このガラル地方の発展と活性化になくてはならない存在であった。
けれどもチャンピオンの頃よりも生き生きとしている彼を見ていると、あの、ありのままの姿だと信じていた「無敗のチャンピオン、ダンデ」は彼の「現象」に過ぎず、
その「本質」は、彼の本当にしたかったことや彼の本当の想いというのは、もっと別のところにあったのではないかと思えてくる。
あの、ガラルのポケモントレーナー全ての理想であり憧れであり強さの象徴であった彼は、彼が「そう在るべき」だとして作り上げた偶像に過ぎなかったのでは、とも、考えてしまう。

……ただ、そうしたチャンピオン時代の彼が「現象」に過ぎなかったとしても、今のダンデこそが彼の本質の表れであったのだとしても、
ガラルのポケモントレーナーの発展と活性化のために、チャンピオンとしての理想の姿、偶像をその身に宿すことに成功した、その努力と気力は素晴らしいものがある。
それこそ「無敗のチャンピオン、ダンデ」にしかできないことであったと、ネズは確信している。
今、こうしてその偶像を纏うことができていない新チャンピオンが、ネズの傍で笑っているという事実が、殊更にその確信を顕著なものへと変えていく。

「ねえ、ユウリ。君一人に何もかもを押し付けるなどということはしませんよ。おれ達のような大人が君達のような子供を支えるのは当然のことでしょう」

そうして、少しでもネズがこの少女に憐れみを見せようとすれば、彼女はそれを敏感に感じ取り、凛々しい笑顔を称えてやわらかな牙を向けるのだ。
「本当に?」とネズに詰め寄る、その紅茶色の瞳は濁っている。蜂蜜をどろどろに溶かした紅茶のような、そうした毒めいた叱責の色がそこにはある。
「本当にそれが当然だと思っているのかい」と、粘ついた声音がネズの鼓膜をくすぐる。縋るような、責めるようなその粘性は、少しネズには重過ぎる。

「今やガラルに住む人全てが、私を見れば「チャンピオンのユウリ」「新チャンピオン」「ダンデに勝利した次世代の英雄」と声を上げるんだ。
そんな私に一体誰が手を伸べてくれるというんだい。誰かの手を借りるには、私は高いところへ上がりすぎてしまっているよ。だから皆、私を誉めはやすだけなのだろう」

「そんなことはありませんよ。皆さん、君の力になりたいと思っているはずだ」

「じゃあ訊くけれど、貴方達は10歳のダンデさんにもそう思ったのかい? そして実際に、彼へ何かをしてあげたのかい? 本当の意味で、彼の支えになれたことはあったのかい?
ただ新しいチャンピオンの誕生に沸き立ち、歓声と共に彼を持ち上げただけだったのでは? 一度でも、10歳の子供が背負った荷物の重さを推し量ったことがあったとでも?」

ネズは押し黙る。ユウリはその瞳に益々叱責の色を濃くする。
それでいい、とネズは思った。こんなことで君の気持ちが少しでも軽くなるのであれば、幾らでもおれを責めればいいと、彼は本気でそう思っていた。
此処で思う存分、駄々を捏ねればいいのだ。子供っぽく愚痴っていればいいのだ。
少なくともネズはそのような叱責に傷付きはしない。
いや、たとえ傷を負ったとしても、それで彼女の溜飲が下がるのであれば、そんなものは傷でもなんでもない、むしろ勲章にまでなり得るものであったことだろう。

けれどもそんな彼女がひとたび、シュートシティのトーナメントへ顔を出せば、
にわかにその顔立ちは「チャンピオン」と呼ぶべき素晴らしい凛々しさを称えたものへと化けることをネズは知っている。
そんな彼女に、観客がそれなりに沸き立っていることだって分かっている。
その盛り上がりが、先代のチャンピオンのそれには到底敵わないものであることもまた、分かってしまっている。

「ホップにはダンデさんがいるよね。マリィにはネズさん、貴方がいる。ビートにはポプラさんがいる。この状況を貴方はどう思う?」

「……さて、おれはどっちについての考えを言えばいいんでしょう。君のお友達が恵まれていることですかね、それとも君が、孤独なこと?」

尋ねられた問いについて確認の意味を込めて尋ね返す。
すると彼女はティーカップをテーブルの上へと戻しつつ「どちらでもないよ」と否定の言葉を紡いだ。

「私は「私がこんなにも孤独であるのに、皆が私を支え、導き、応援しているような気持ちになっていること」について、貴方の考えを聞こうとしているんだよ」

その言葉に「ふふっ」とネズは思わず笑ってしまった。
この反応は彼女にとって予想外であったらしく、紅茶色の瞳から蜂蜜の淀みがすっと消える。純朴な好奇心、そうした一瞬はこの少女だって、ほら、可愛らしい子供なのだ。

「いや、すみませんね。おれ以上に根暗で卑屈なことを君が言うものだから、ついおかしくなってしまったんですよ」

「……そうだねえ。そうとも、おかしな話だ。こんなおかしな私は知られるべきではない。私が孤独であることは、このまま誰も知らない方がいいのだろうね。
これは、ガラルの未来を担わんとするチャンピオンの心理にほとほと相応しくないものだから。きっとこうやって、昔のダンデさんも何かを押し殺してきたに違いないのだから」

この子は寂しいのだろうな、とネズは思った。
強さ故に孤独であり、誰もの支えの及ばないところへ走り抜けてしまった自身のことが、悲しくて寂しくて仕方がないのだろうなと思った。
いっそ泣いてしまえばいいのにと思った。私はそんな器じゃないんだと、お願いだからただの女の子だった頃に戻してと、涙ながらに訴えて弱さを見せればいいのにと思った。
強くなり過ぎたことが原因で孤独であるのだと自覚しているなら、いっそ弱さを周囲に知らしめてしまえばいいのにと、思った。

「だからネズさん、貴方だけだよ。貴方にだけ言うよ。すまないね、こんなことをして」

「おれにだけ、ねえ……」

「そうとも。貴方はこの私のみっともない秘密を、私がどうにかなってしまうまで、ずっとその薄い腹の中にたった一人で閉じ込めておかなければならないんだ。
そして私はそんなことに、仄暗い喜びを覚えているんだよ。どうだい、最低なことだろう」

にもかかわらず、ただの怠惰で我が儘なチャンピオンを演じているだけの彼女に、こんな自分にしか弱みを曝け出せない臆病な彼女に、
ネズは今日も、小さなもどかしさを募らせて、虚しくなるばかりだ。

2019.11.29


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