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「ジョインアベニューのオープン、おめでとう」

彼女の自室へと通された私は、執事が運んできてくれたとてもいい香りのする紅茶に口を付ける。
きっとその真っ白なお皿に置かれたマカロンも、びっくりするくらい美味しいのだろう。けれど今の私にその味を楽しむだけの余裕は、きっとない。

トキちゃんの自室は驚く程にシンプルだった。
「可愛いものが好き」だと言っているにもかかわらず、彼女のための空間は驚く程に無機質で、可愛らしい要素を見つけることの方が難しかった。
唯一、部屋の中でボール遊びをするプラスルだけが、トキちゃんにとって「可愛い」と思える相手なのだろう。
駆け寄って来たその小さな身体を抱き上げ、至極幸せそうに笑ってみせる。この顔は、きっとプラスルでなければ引き出せないのだろうと思った。

「どうしても直接会ってお祝いの言葉を言いたかったの。本当は私がイッシュへ行きたかったのだけれど……」

「ううん、仕方ないよ。私ならいつだって飛んで来られるから、気にしないで」

「ふふ、そうね。貴方には世界一速いクロバットがいるんですものね」

クスクスと鈴を鳴らすように笑い、限りなく美しい手つきで紅茶の入ったカップを人差し指と親指だけですっと摘まみ、掲げる。
ああ、これが正しいカップの持ち方なのかと、思わずその仕草に見入ってしまう。
彼女の何もかもには引力がある。その美しい仕草も、あらゆる感情を閉じ込めた笑顔も、その凛とした声音も、何もかもが私の平静を奪い、緊張させる。

「この間言っていたことを撤回するわ。シア、私は貴方を心から誇りに思っている。本当よ」

この本音の読み取れない彼女から「本当よ」と念を押された時というのは、彼女の「これは本当のことだから、誤解しないでね」いうメッセージなのだと私は知っていた。
だからこそ、彼女のその言葉は確かな安堵と歓喜をもって私の心臓をやわらかく揺らしたのだ。
ああ、泣きたくなる。私はこの美しすぎる少女に軽蔑されることが怖かったのだと、認めた瞬間、ぞわりと寒いものが背中を這い上がる。

『……だから、もし貴方に軽蔑されることになったとしても、いいんだ』
私があの日、彼女に投げた言葉は嘘だったのだと、私はその嘘を私の中で真実にしてしまっていたのだと、その真実の仮面がようやく剥がれたのだと、気付く。

シアさん。覚えていてください。貴方には、積み重ねた嘘を真実にする力がある』

アクロマさんの言葉を思い出した。ああ、やはり彼は私以上に私のことを知っているのだと、複雑に渦巻く数多の感情の中に、確かな安堵を見つけ、私は落ち着くことができた。
私は嘘を真実へとすり替える癖がある。それは悪癖であるのかもしれなかった。けれど、それでもよかったのだ。
だって私は、自分の心に嘘を吐くことだって厭わないとあの時、覚悟を決めていたのだから。
それが、ここ数か月の間、手探りで必死に進んできた私を支えてくれた、私の、紛うことなき信念だったのだから。

「貴方がその欲張りな信念を折らない限り、シルフは全力で貴方の組織をサポートするわ」

「ありがとう、トキちゃん」

「ふふ、気にしないで。私にとっては造作もないことよ」

造作もない。息をするような自然さで零れた彼女の口癖に私は思わず笑った。
ああ、私は貴方がくれた力に相応しい人にようやくなることが叶ったのだと、私はようやく認めることができた。
そして彼女はそれ以上、プラズマ団のことやゲーチスさんのことについて言及しなかった。
代わりに私の髪に手を伸べて、クスクスと楽しそうに笑ってみせる。「随分とばっさり切ったのね」と笑った彼女は、いつもの自然さで私の心を言い当てる。

「綺麗な長い髪が見られなくなったのは残念だけど、貴方が世界に捧げた供物なのだと思えば、そのセミロングも愛おしいわ。……「それ」が貴方の覚悟なのね、シア

同日、私はホウエン地方に飛んでいた。
カナズミシティの大きなビルの前に降り立てば、社長のムクゲさん自ら外に出て私を出迎えてくれた。

「君のクロバットは本当に速いね。カントーからホウエンまで1時間で飛んでくるとは思わなかったよ」

「自慢のポケモンです」

そう告げれば、肩の辺りで漂うロトムが慌てたようにすり寄って来るので、「ロトムだって最高のパートナーだよ」と囁けば、ムクゲさんは声を上げて笑い出した。
仲がいいのだねとからかうように言われてしまい、私は顔を赤らめて困ったように肩を竦める。しかし彼は特に気に留めることなく私をビルの中へと通してくれた。

勧められたソファに座れば、あまりの柔らかさに身体がゆっくりと沈んでいく。
その低反発性に楽しさを見出しかけていたところで、ムクゲさんは私の目を真っ直ぐに見て口を開いた。

「ゲーチスさんが戻って来たということは、もう君は社長ではなくなるのかな?」

「はい。元々、仮の形として私がその枠に収まっていただけのことでしたから。
取引などの難しいことは、彼にも同行してもらって少しずつ引き継いでいく予定です。元々、プラズマ団は彼が率いていたので、それが自然な流れだと思っています。
……ただ、私はそのつもりなのですが、ゲーチスさんが渋っていて」

「ほう?」

「私に、形だけでもいいから今の状態のまま、代表を名乗っておけと言うんです」

そう告げれば、彼は納得したように頷いて笑った。
ああ、私には理解のできないことでも、彼は私の話を聞いただけでゲーチスさんの言葉の意図に気付いてしまうのだ。
それは、私の倍以上の時間を生きてきたことによる、知識と経験の差が生んだことなのだろうか。ムクゲさんが聡明なのか、それとも、私の無知が過ぎるのか、どちらだろう。

「彼の言い分は正しい。過去にイッシュを震撼させた男よりも、そのプラズマ団を解散に追い込んだ子供が代表を名乗った方が、人も集まる。当然のことだよ。
おそらく彼は、君の立場と若さを強みにしようとしているのだろう。それは君にしか持ち得ない強力な武器だ。これからも賢く使いなさい」

ゲーチスさんは、一から十まで丁寧に説明してくれるような人間ではない。
そんな彼が「形だけでも構わないからお前が代表を名乗りなさい」と私に指示したその意図を、自ら詳しく説明してくれる筈がなかった。
聞けば答えてくれたのかもしれないけれど、私はそれを選ばず、此処を訪れた。
彼が私に代表を任せてくれるという信頼の行為に疑問で応えるのは、とても失礼なことであるように思われたからだ。
ムクゲさんの元を訪れて正解だった。この人は彼の言葉の裏をこんなにも丁寧に紐解いてくれる。

……私の立場と幼さが、武器になる。彼のそんな言葉は私の心臓を大きく揺らした。

低い背が恨めしかった。私に微笑みかけて頭に手を乗せる人間が嫌いだった。
その所作が低い背丈のせいではなく、私が子供であるせいだと理解して、益々そんな生温い世界で生きることが嫌になっていた。
私はそうした、捻くれた人間だった。

けれど今は、この低い背がそれ程嫌いではない。子供であることも、嫌ではない。
子供であったから、こんなにも多くの人の協力を仰げた。子供であったから、理不尽に屈したくないなどという我が儘と欲張りを声高に唱えられた。
私が13歳であったから、私の声は世界に響いた。そう思うと、この低い背も、子供であることも、そう恨めしいものではなくなっていた。
この背丈も、この欲張りも、全て私の一部なのだと、私が私であったからこの変革は叶ったのだと、そう思い、微笑むことができたのだ。

「そうそう、以前君にお願いした件だが、当分は忘れてくれて構わないよ」

「え……?」

君にお願いした件、というのは、以前ここを訪れた時に、私とムクゲさんが交わした約束のことを指しているのだろう。
顔を寄せ、そっと耳打ちされたその依頼は、「息子とシルフのお嬢さんを会わせてほしい」というものだった。
ムクゲさんは、いずれデボンの後を継ぐダイゴさんのことを一人の父として案じていた。
9歳も年下でありながら彼よりもずっとしっかりしたお嬢さんの姿を見れば、彼も奮起するだろうと考えて、私にそうしたことを申し出たのだった。
それはダイゴさんとトキちゃんの双方と知り合いである私にしかできないことで、だからこそ私はその頼みを受け入れた筈だった。
しかしムクゲさんは今になって、それは当分忘れてくれて構わない、と言う。その意味がよく解らなかった私に、しかし彼は笑いながら説明をしてくれた。

「いや、そこまで焦る必要はまだないと思ってね。あのお嬢さんもまだ14歳だ。もう少し後の方が、都合がいいのだよ」

「都合……?」

「おや、君には少し早かったかな。今はこれ以上のことを話すことはできないが、いずれ教えてあげよう。……そうだな、君が20歳になったら、一緒に飲みにでも行こうじゃないか」

13歳である私にとって、20歳というのは途方もない未来の話で、そんなに長い時間が経ってしまえば私はこの約束を時間の波に置き捨ててしまうのではないかと思った。
その前に、私が彼の本音を見抜ける程に賢くなることができれば、彼の言葉の裏を読むことができたのかもしれない。
けれど今の私にはそれができない。ならば、私が踏み入ることのできる限界は此処なのだろう。そう判断した私は、それ以上の追及を止めた。

「……でも、いいんですか? そうなると私は貴方に何も返すことができないまま、貴方に力を借り続けていることになりますが」

「ああ、そんなことか。気にしないでくれたまえ。あの時は思わせぶりなことを偉そうに口にしたが、元々、こちらに利を求めるつもりなど毛頭なかったのだよ。
かといって、援助や契約を打ち切るつもりもない。成長する素質のあるところに投資するのは当然のことだ。これからも君を、君の率いる組織を、応援しているよ」

当然のように笑ってみせた彼は、私に握手を求めるように手を差し伸べた。
私はそんな彼に頭を下げることはせず、代わりに同じように手を伸べた。握り返された手はやはりあの日と同じように力強い。

2015.8.27

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