「クリスさん、お願いがあるんです」
夕方にやって来た彼女は徐に帽子を抜ぎ、お団子にしていた髪を勢いよく解いた。
その髪は彼女の膝丈まですらりと伸びていて、事務所の照明を反射してキラキラと輝いているようにさえ見えた。
なんて綺麗な髪なんだろう。しかしクリスがそう思った瞬間、少女はその小さな両手を強く握り締め、クリスを真っ直ぐに見上げてとんでもない懇願を呟く。
「髪を、切ってください」
今にもその海の目は泣き出しそうな程に大きく揺れていて、そこに恐怖と不安の色を読み取るのは容易いことだった。
しかし、それ以上に大きな覚悟の表情が、彼女の顔には焼き付いていたのだ。
髪は女の命であるという言葉をクリスは全く信じていなかったが、それでもこんなに綺麗で立派な髪を切ってしまうのには些か抵抗があった。
けれど、こんなにも必死な少女の懇願を、「できないよ」と切り捨ててしまうことはどうしてもできなかった。
やがて長い、長すぎる沈黙の後で、クリスは「本当にいいの?」と尋ねることも「私でよかったの?」と確認することもせず、ただいつものように笑って、頷いた。
解っている。この少女が相応の覚悟をもって此処を訪れたことも、何かしらの理由があって、プロの美容師のところではなくクリスを訪ねたことも、解っている。
だから敢えて、その覚悟と選択を確認するようなことはしなかった。確認せずにそのまま受け入れることが、少女を尊重することになる気がしたのだ。
「いいよ」
「……本当に?」
「ええ、お友達のお願いだもの。叶えてあげなくちゃね」
友達、という言葉に少女は驚いたような表情を見せたけれど、直ぐにふわりと嬉しそうな笑みを浮かべてくれた。
それじゃあ、2階のリビングで切ろうか。そう言って少女を案内してから、クリスは戸棚を開けてヘアカットの道具を一通り引き出す。
……実は、彼女が誰かの髪を切るのはこれが初めてではない。妹や弟の髪を切るのは大抵、彼女の役目だった。
美容師の資格こそないものの、それなりに見栄えのするカットができる筈だとクリス自身も自負していた。だからこそ、彼女の懇願を受け入れたのだ。
それに、きっとこの少女はカットの出来などに拘泥しないのだろう。
彼女は、ただ見栄えのためにその長い髪を切ろうとしているのではない。クリスはそう確信していた。
雨合羽を少女に着せ、床に新聞紙を敷いた。その上に椅子を置き、少女を座らせる。
クリスが手を添えた彼女の肩があまりにも強張っていて、かなり緊張していることが解った。
もしかしたらこの少女は、髪を切ることが怖いのかもしれない。
この長すぎる髪も、見た目のために伸ばしていたのではなくて、切ることが怖いからずっと伸ばし続けていたにすぎなかったのかもしれない。
確認するべきかどうか迷っていたクリスだが、先に少女の方から口を開いた。
「痛く、ありませんか?」
その声はこちらが聞いていて可哀想になる程に震えていて、ああ、やっぱりそうかとクリスは思いながら彼女の頭をそっと撫でる。
いつもは聡明で真面目で努力家で、どんな力にも屈さない強さを持った子ではあるけれど、やはり彼女はまだ13歳の女の子なのだ。
理屈を抜きにして怖いものというのは確かにあって、それが彼女の場合、「髪を切る」ということなのだと、クリスはようやく気付き、笑った。
「シアちゃん、爪を切る時、痛みを感じる?」
「……いいえ」
「それと同じよ。爪や髪には神経が通っていないから、切られても痛みは感じないわ。だから大丈夫」
小さな子に言い聞かせるようなこの言い方を、この少女が好んでいないことは解っていた。
けれどクリスは敢えてそう紡ぐことで、彼女から恐怖以外の別の感情を引き出すことを狙った。
案の定、言い聞かせるような言葉を聞いた少女は、眉を少しだけ下げて苦笑した。その顔色が少しだけよくなったような気がして、安心する。
長い髪に櫛を当てれば、あまりにも滑らかに通っていった。
霧吹きで適当に水分を含ませながら、ハサミが揃っているかを確認して、もう一度彼女に話し掛ける。
「シアちゃんはセミロングが似合うと思うの。鎖骨が隠れるくらいの長さになるんだけど、他にリクエストがあれば受け付けるよ」
「いえ、それくらいで大丈夫です。……あと、その、変な悲鳴を上げたりするかもしれませんが、気にせず切ってください」
「あらあら、そんなに怖いのに、どうして、」
クリスはその言葉を寸でのところで止めた。そんなことを尋ねるのはあまりにも野暮であることに気付いたからだ。
きっと、これは彼女の「覚悟」の示し方なのだ。
どのような心境の変化があったのか解らないけれど、それでも彼女は何かに迷った末、一つの結論を出し、そして、その決意の印として髪を切ろうとしている。
此処から先は自分が立ち入ってはいけない領域だ。仮に自分が確信することができたとしても、それを敢えて言及する必要はない。
『髪を、切ってください』
彼女の覚悟は、彼女が知っていればそれでいい。
クリスは髪を一房だけ掴み、背中の中ほどでばっさりと切り落とした。
ハサミの鈍い音が、静かなリビングに木霊する。大丈夫かなと少女の横顔に視線を落としたけれど、彼女は強く目を閉じているだけで何も言わなかった。
続けてもう二房ほど切り落とし、長さを整えていると、彼女の肩が小刻みに震え始めた。
あまりにも痛々しい嗚咽がクリスの心臓を揺らした。
『変えよう、シアちゃん。私達で、その不条理を覆すの』
『資金も、知識も、人脈も、時間も、私の持っているものを全部、シアちゃんにあげる』
『私は自分の野望のために、シアちゃんを利用しているの。私はとっても狡い人なのよ』
実を言うと、クリスはこれまで何度も、この小さな女の子を自らの理想に巻き込んだことを後悔していた。
クリスとこの少女の描く夢物語は確かに同じ形をしていたけれど、それは紛うことなき「夢物語」の形をしていたのであって、
その実現が不可能であることくらい、少女もクリスも解っていた筈だった。
にもかかわらず、クリスはこの少女に力を貸した。必ず実現するからと嘘を吐き、大勢の人間を巻き込んでその嘘を現実にした。
クリスは、舞い上がっていたのだ。自分と同じ理想を掲げた人物との邂逅に、高揚していた。
聡明で努力家で、教えたことを何でも吸収してしまうこの子が酷く愛おしかった。彼女となら何だってやれる気がしていた。
けれど、それは間違いだった。だってまだこの少女は13歳なのだ。彼女の肩はこんなにも華奢で、その小さな手が掬い取れるものはあまりにも小さい筈だったのだ。
この少女に無理をさせていた。彼女はその小さな背中に背負いきれないほどの大きなものを背負い過ぎていた。
それは他でもないこの少女の意志であったのだけれど、それでも自分は年長者として、この子に無理をさせ過ぎないような導き方をしなければいけなかったのではないか。
自分は、この少女の荷物をもっと奪い取らなければならなかったのではないか。あの隻眼の男性のように。
けれど、それでも私達は、戻れないところまで来てしまった。
だからこそ、この少女は覚悟のために髪を切るのだろう。
振り返らないように、迷わないように、決意を揺らがせないように、自分の身体の一部を切るという、彼女にとって恐ろしいことをやってのけてみせようと思ったのだろう。
その、あまりにも子供らしく、いじらしい決意の示し方に、しかしクリスは微笑むことができなかった。
代わりに、黙ってハサミを動かした。彼女の背中に焼き付いたあらゆる迷いを、恐怖を、不安を、殺ぎ落とすように、振り払うように切った。
「……はい、出来た!」
わざと明るい声を出して、クリスは少女に着せていた雨合羽を外した。
「ほら、立って」と促して少女を鏡の前へと誘導すれば、彼女の泣き腫らした目が大きく見開かれる。
肩より少し高いくらいのところで切り揃えた髪に、彼女は恐る恐る手を伸ばし、少し触れたかと思うと、何度も何度も撫でてみせた。
長い、長い沈黙の後で、クスクスと少女は笑い出す。
「あはは、こんな、簡単なことだったのに」
鏡を通してクリスを見上げ、そう呟いたその華奢な背中を、気付けば思い切り抱き締めていた。
ごめんなさいもありがとうも、今は何の意味も為さない気がした。紡ぐべき言葉は彼女の長い髪と共に、新聞紙の上へと落としていってしまったのだろう。
「きっとゲーチスさん、びっくりするね」
あの人の裁判の日は、明日に迫っていた。
2015.8.24