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次の日、私はもう一度、ヨシノシティの小さな喫茶店を訪れていた。
空色の髪に空色の目をした彼女は、私を見つけるなり喫茶店の奥から手を振り、陽だまりのように眩しい笑顔で挨拶をする。
しかし私が席に着くや否や、彼女はその水色の目をすっと細めて、まるで何か大きなものと対峙するかのような真摯な目つきで私を見据えるのだ。
その目があまりにも眩しくて息を飲む。ああ、仕事をする人の目は一様にこうした輝きを持っているのだと、私は改めて知ることとなった。

「ゲーチスさんの裁判まであと2か月しかないの。だからそれまでに、二つに分かれた組織を一つにして、彼が返ってくるための場所を作らないとね」

そんな彼女の口から紡がれた、あまりにも壮大な計画に私は怯んだ。
そんなことが本当にできるのだろうか。私のそんな懸念は彼女に伝わってしまったらしく、クリスさんは困ったように肩を竦めて微笑んだ。

「……そうだね、できないかもしれないね。それでも、そうしなきゃ世界は変わらない。彼を救えない。だからお願い、諦めないで」

その言葉に私は息を飲んだ。私の思いに彼女が手放しで賛同し、そしてあろうことか私を導いてくれているという事実にくらくらと眩暈がした。
だって今まではずっと「やめてしまえよ」とばかり言われてきたのだ。

私がゲーチスさんと関わることを告げた時に、良い顔をした人間は一人もいなかった。
トウコ先輩には泣かれてしまった。アダンさんやミクリさんは理解に苦しむような表情で私を見据えていた。ヒュウとは、あれから一度も話をしていない。
ゲーチスさんと、プラズマ団と関わることは間違っているのだと、彼等の言葉が、視線が、表情が訴えていた。
だからこそ、私の行動に手放しで賛成してくれる、クリスさんの言葉に縋らなければと思ったのだ。この機会を逃せばきっともう二度と、世界を変えるチャンスは訪れない。

「日記帳、持ってきてくれた?」

彼女の言葉に頷き、私は鞄の中から3冊のノートを取り出した。
これは、私が一昨年の春から、少しずつ書き溜めていたものだった。旅の途中でアクロマさんに送った手紙は、全てこのノートに書かれた旅の記録を参考に書いていたのだ。
勿論、日記を書かない日もあったし、忙しい時には書くことを忘れていた。そうかと思えば何かに憑かれたかのような勢いで、1日に数ページを書くこともあった。
このノートは私のレポートだった。これを開けばいつでも、その日のことを思い出せた。

私はこのノートを参考にしながら、クリスさんに、私の旅の話を始めた。

『明日、シアちゃんの旅の話を詳しく聞かせてほしいの』

昨日、別れ際にクリスさんはそう言った。その言葉の意図するところが解らなくて、私は首を傾げていた。
私の話が一体、何の役に立つのだろう。その疑問は顔に出てしまっていたようで、クリスさんは楽しそうに肩を竦めて笑った。

シアちゃんはイッシュを旅したんでしょう?あの広い土地の中で、沢山の人に出会って、沢山のことを経験したでしょう?
実はシアちゃんも気付いていない所で、物凄く大きな武器を手にしているかもしれない。大きすぎる力を、シアちゃんは見過ごしてしまっているかもしれない』

彼女が私に何を見ているのか、私の話の中から何を拾い上げようとしているのか、私にはまだよく解らなかった。
けれど、彼女が私と同じ願いを持っていることだけは解った。
『私達で、その不条理を覆すの』
だって、その言葉を紡いだ彼女の目が、あまりにも眩しく輝いていたから。
この人も私のように、世界のあらゆる側面を見てきたのだと、だからこその強い意志と思いがその目に宿っているのだと、確信することができたから。

だから、私は彼女に全てを話すため、私の冒険の記録が綴られた日記を持って来たのだ。

「それじゃあ、聞かせて? 私に、シアちゃんの冒険を」

その言葉が始まりの合図だった。私は驚く程饒舌に自分のことを話した。
ヒオウギを出てから、幾つもの町を巡り、ジムリーダーと戦い、プラズマ団と対峙して、海を渡り、空を飛び……。
ノートのページをゆっくりと捲り、言い忘れたことがないか確認しながら話した。その中で、私も少しずつ、旅の記録を鮮明に思い出し始めていた。
ああ、こんなこともあった。あの場所はこんなにも美しかった。このジムのこのポケモンにとても苦戦した。この町を訪れた頃にポケモンが進化した。
まだあの旅から1年ほどしか経っていない筈なのに、胸が軋んだ。あまりにも強い懐かしさは人の心を締め付けるらしい。

旅を終えてからのことも話した。ヒオウギシティの西側にある樹海、そこに建つ一軒家に毎日のように通ったこと。ホウエン地方の病院にお見舞いに行ったこと。
ホウエンに住むアダンさん、ダイゴさん、ミクリさんのこと。そこで出会った、一つ年上の友達のこと。
彼女は、元気にしているかしら。あの時、彼女が連れ帰ったプラスルは、今でも彼女と仲良くしているのかしら。
ミクリさんは、アダンさんからジムリーダーを受け継ぐことができたのかしら。私に大切なことを教えてくれたダイゴさんは、今も石を探して走り回っているのかしら。

クリスさんはそれら全てに笑顔で相槌を打ち、時折、手帳にさらさらと何かをメモしていた。
その見開き2ページが彼女の字でびっしり埋め尽くされた頃に、私の話は終わった。
時計の長針は2度回っていて、運ばれてきたオレンジジュースの中にあった氷は完全に溶け、味が薄くなってしまっていた。

「私の話は、役に立ちますか?」

そう尋ねれば、彼女は手帳を畳んでふわりと微笑んだ。

「完璧だよ、シアちゃん」

完璧。
それは私の旅を修飾するには、あまりにも眩しくて不釣り合いな言葉であるように感じられた。
1年前の夏に、ヒオウギシティから始まった私の旅は、いつも忙しなかった。いつだって必死だった。
誰かが必ず苦しむようになっている世界を認識しながら、何もすることができず、ただ一人に寄り添うことだけを選んで、私の犯した罪を償うためだけに、懸命に生きてきた。
この1年はそうした時間だった。私の旅は、誰かを苦しめるものでしかないのだと、そう思っていた。けれど目の前の彼女は満面の笑みで、私のそうした思いを否定する。

「ポケウッドにジョインアベニュー、デボンコーポレーションのご子息に、シルフカンパニーのご令嬢まで。ビジネスに携わる人間が聞いたら、卒倒しそうな豪華な名前ばかりよ」

「そ、そうなんですか?」

「そうよ、きっとシアちゃんには皆を惹きつけて、共鳴させる力があるんだね」

……そんなことはない。私にそんな力はない。
ポケウッドにスカウトされたのも、ジョインアベニューの管理を任されたのも、ダイゴさんに出会ったのも、一人の女の子と友達になったのも、全部、偶然の産物に過ぎない。
たまたま、そこに私がいた。それ以上でも以下でもない気がした。けれど彼女はそんな偶然に、私の力が宿っていると断言する。

「さて、シアちゃんはゲーチスさんを連れ戻したい訳だけれど、そのためには、彼が戻って来る場所を作らなくちゃいけない。
プラズマ団員の皆が暮らせるようになるためには、空間だけじゃなくて、彼等が食べていけるだけの雇用を確保しないとね」

「でも、私達にそんなこと……」

「あら、あるじゃない。ジョインアベニュー、シアちゃんが管理を任されているんでしょう?」

とんでもないことを言い出した彼女に、私はさっと血の気が引いた。
私があの土地の管理を任されながらも、全く手を付けることができずにいたのは、私に経営の経験も知識も何もなかったからだ。
10代でそうしたことに手を付ける人もいることを私は知っていたけれど、それは私には縁の遠すぎる話だと思っていたのだ。
だからこそ、当たり前のように「あの場所を使う」と言われてしまい、私は驚き、狼狽した。

「ちょっと待ってください! 私はただのポケモントレーナーです。会社を立ち上げるための資金も、経営に必要な知識も、何も、」

「私があげる」

けれど、息をするようにさらりと紡がれたその言葉は、計り知れない重みをもって私の時を止める。

「資金も、知識も、人脈も、時間も、私の持っているものを全部、シアちゃんにあげる」

この人は、何を言っているのだろう。私は彼女の発言の何もかもを理解することができずに沈黙した。だって、私はこの人と昨日出会ったばかりなのだ。
確かにコトネさんを通じて正式な依頼こそしていたけれど、それは裁判に関することへの依頼であって、まさかこんなに大きなことになるなんて全く予測していなかった。
そして、それを当事者である私に促すだけならまだしも、遠いジョウトの地に住む彼女が、持てる全てをもって必死に取り組むのは、明らかに何かがおかしい気がした。
そうしなければならない理由など何処にもないのに、彼女は何もかもをこの件に捧げると、さらりと断言して笑ってみせるのだ。私にはそれがどうしても理解できなかった。

「どうして、そこまでしてくれるんですか?」

「ふふ、おかしなことを聞くのね。私がしたいと思ってしているだけなのに」

この人の思考は、私の理解を超越したところにあるのだろう。けれど彼女の「私がしたいと思ってしているだけ」という、その心にはあまりにも強く共鳴することができた。
私の強情さだって、元を正せば彼女が持つ温度と同じところへ還ってくるのだろうと確信していたからだ。
そんな彼女が、私の願いを一緒に叶えてくれようとしている。それはまさしく、奇跡の出会いであるように感じられた。

「私が、変えられない筈の世界を、変えられる筈がないって諦めていたこの世界を、少しだけでもいいから変えたいって、そう思っているからだよ。
私はそのために、シアちゃんを巻き込んでいるんだから、言い出しっぺの私が何もかもを駆使して戦うのは当然のことでしょう?」

「……クリスさん」

「私は、シアちゃんと一緒に戦うために、この仕事を続けてきたのかもしれないね」

そうした奇跡の出会いには「縁」という素敵な名前を付けることができるのだと、私が彼女に教わるのは、この日からもっと、ずっと後の話だ。

2015.7.20

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