20

翌日、私は検査を終えて退院するシアを迎えに、朝一番で病室へと足を踏み入れた。
かなり大きな音を立ててドアを開けた筈だが、彼女はその音にも気付かずに、何かを真剣に見ているようだった。

シア?」

私は彼女の名前を呼びながら歩み寄り、彼女が見ているものに気付いたその瞬間、それを凄まじい勢いで取り上げてしまった。
勢い余ってそれは宙を舞い、病院の床に音を立てて落下した。バサリという厚紙の擦れる音が鼓膜を震わせた。私にはそれが死刑宣告の声に聞こえたのだ。
けれどシアは目を丸くするだけだった。その目に映している感情が、それを取り上げた私に対する驚きであると気付き、慌てて笑顔を作った。

「……なんだ、スケッチブックだったのね。朝日の逆光で、あんたが刃物を持っているように見えたのよ」

「こ、これがナイフに見えたんですか?」

どう考えても無理があるその理由の供述を、しかしシアはそれ以上訝しむことはしなかった。
彼女は再びそのスケッチブックを拾い、ページを捲り始めた。あの病室から見える海の景色が、水彩色鉛筆によって丁寧に描かれていた。

「私の鞄の中に、ビニール袋に包まれて入っていたんです。余程、大切なものだったんでしょうか?」

「大切なものかどうかは知らないけど、あんたはそれを私にもNにも見せてくれたわよ。1年くらい前から描き始めたみたいだけど、随分、上達したわよね」

「……同じ景色を何度も書いていますが、これは何処から見た海なのか、トウコ先輩は知っていますか?」

私は一瞬の逡巡の後に「誤魔化す」という選択をした。
シアがスケッチブックを手にしていた時、もう駄目だ、と思ったのだ。全てを思い出してしまうと思っていた。
けれどそうではなかった。幸いにも、シアは何も思い出さない。だからこそこれ以上、このスケッチブックに関する情報をシアにあげたくはなかったのだ。

「さあ? 海の見える町なんて、世界中に幾つもあるから」

そうですよね、と苦笑したシアを、私は退院の手続きをするからと言って少しだけ急かした。
シアはそのスケッチブックを畳み、鞄の中へと仕舞った。
どうか思い出しませんようにと、私は祈り続けていた。

その後、コトネの家に帰宅してからも、何事もなく平穏な時間が流れ続けていた。
総合病院の医師から、しばらくは3日に一回、通院するように言われていたため、シアをジョウトのこの家へと留めるには十分な理由が揃っていた。
「今は弟の入院にお母さんが付き添っていて、シルバーと二人じゃ寂しいから、皆がいてくれた方が楽しい」と、コトネも告げてくれた。
シアは少しの躊躇いの後で「御厄介になります」と頭を下げた。私はそのことにひどく安堵していた。
今、彼女をイッシュに返すことはどうしてもできなかったからだ。

シアがイッシュの自宅に戻れば、きっとマスコミが押し掛けるだろう。記憶のないシアにあれこれと追及の手を緩めず問い詰めるだろう。
暴走する世間の恐ろしさを私はよく知っていた。だからこそ、その渦中にシアを放り込みたくはなかった。

イッシュから遠く離れたこの地方では、ゲーチスやアクロマが出頭した事件など、放送されない。
私達が告げなければ、シアは二人の情報を得ることは先ずない。
消えてしまった1年と半年の記憶を、シアは連れていた3匹のポケモンと戯れることで取り戻そうとしているようだった。
そしてその試みは、少しずつ実を結びつつあった。

ヒオウギシティの高台でミジュマルを受け取ったこと、初めてのジム戦のこと、ズバットを下水道で捕まえたこと、ポケウッドの関係者にスカウトされたこと。
断片的なその記憶を、彼女はとても嬉しそうに報告してくれた。

「流石、頭の出来がいい子は思い出すのも早いのね」

そんな冗談を返して笑いながら私は焦っていた。どうか思い出しませんように。私のその願いは変わらなかった。
もし、今ここで彼女が全てを思い出したとして、彼女を支えられる人間はいないのだ。私では、代わりになどなれないのだ。
だから私は、祈り続けるしかなかった。
もし、彼女が全てを思い出す時が来たとすれば、その傍にいなければならないのは私ではなかった。
だから私は祈りつつ、「彼」を待つしかなかったのだ。

そうして2日が経過した頃、驚くべきことが起きてしまった。
私はその時、シアやNと共に外へと出ていた。理由はシアが「ポケモンバトルをしたい」と言い出したからだ。
何か思い出すかもしれないから、と言って笑った彼女への協力を拒むための言葉がどうしても思いつかなかった。

「あんたは私とポケモンバトルをしたことなんかないから、何のきっかけにもならないかもしれないわよ」

そう返しながら、シアと数メートル離れて距離を取る。
ポケモントレーナーとして決して弱くはないシアと戦うためのポケモン、と考えていた私は、決して選んではいけないポケモンを出してしまったのだ。
投げてから「しまった」と思った。しかしもう手遅れだった。現れたサザンドラにシアは目を見開き、固まってしまった。

「……や、やっぱり別の子にするわ。こいつは強すぎるもの」

「待って!」

シアの制止に私は青ざめた。彼女はサザンドラに駆け寄り、その身体にそっと触れた。
お願い、お願いと私は唱え続けていた。思い出しませんように。思い出しませんように。せめて「彼」が戻って来るまでは、何も思い出しませんように。
しばらくの沈黙の後で、シアはこんな質問をした。

トウコ先輩は、紅茶を飲みますか?」

その時の私には、その質問が何を意味しているのか解らなかった。
このサザンドラに直結する記憶、それは間違いなくゲーチスの方だと思っていた。だからこそ「紅茶」という、アクロマの方を連想させるその単語に私は驚き、当惑した。
かつてシアとアクロマが、ゲーチスのサザンドラの背に乗って茶葉を買いに出かけたことを、私は知らなかったのだ。
故に私は、その質問の重要性に気付くことができないまま、私の答えを用意して、紡いだ。

「飲まないわよ、そんな気取った堅苦しいもの」

「そう、ですか……」

シアは少しだけ残念そうに微笑み、再びバトルの位置へと駆け戻った。
私は少し迷ってからサザンドラを仕舞い、代わりにドレディアを繰り出した。
シアはそのタイプ相性を脳内で計算したのか、ダイケンキを繰り出そうとしていたボールを引っ込め、代わりにクロバットを入ったボールを弱めのサイドスローで投げた。
肩の具合はもういいのかしらと、私は派手な出血をした3日前のあの日を思い出す。

「もう肩は痛くないの?」

「はい、大丈夫です!」

その返事が、いつものシアと重なった。
当たり前だ。一年半の記憶を失っているとはいえ、此処にいるのはシア以外の何者でもないのだから。
それでも私はその重なりに驚き、そんな自分に苦笑する。
これでいいのかもしれない。この、なんの曇りもない彼女の笑顔が保たれるなら、彼女が全てを思い出すまで、嘘を重ね続けるのもいいのかもしれない。
そんな風に思い始めていた。それ程に、憂いのない彼女の笑顔は素敵で、眩しかったのだ。

さて、ポケモンバトルをするからには容赦はしない。現役から一線を退いたとはいえ、まだ後輩であるシアに勝利を譲る訳にはいかない。
たとえその相手が、相性的に不利な「最速」のクロバットであったとしても。
私は中央に立ったNの「スタート!」の声を聞き終えるや否や、ドレディアに指示を出そうとした。
しかしそれは叶わなかった。彼女の背後に、あまりにも見慣れ過ぎた人影を3つ、見たからだ。

「!」

その内の一人が、シアの肩を強く掴む。驚きに目を見開き、反射的に振り向いたシアは、その目に3つの影を映した。
ダークトリニティが、彼女を見つけてしまったのだ。

「探したぞ」

2015.2.18

© 2024 雨袱紗