「あんたは本当に欲張りなのね」
白いビキニ姿のトウコ先輩は、私の頭を乱暴に撫でた。
ミナモシティの浜辺には数多くの観光客が訪れている。イッシュからやって来た私達も、大きなパラソルを借りてきて、砂浜に突き刺していた。
黒い水着を履いたNさんは、肩に提げていたクーラーボックスを、そのパラソルの影に下ろす。中にはヒウンアイスが8つ入っていた。
イッシュから此処まで奇跡的に溶解を免れたアイスを、お礼を言って受け取り、口へと運ぶ。
「トウコ先輩は謙虚ですよね」
私は隣で同じようにヒウンアイスを食べる彼女にそう告げる。
彼女は多くを求めない、欲張らない。「私の世界は私とNとを中心に回っているのよ」と断言した彼女は、何かを求めて忙しなく動き回ることもない。
身の丈に合わないものを求めすぎて挫折することも、傷付くこともない。彼女の世界は本当に美しく保たれていた。
それが彼女なりの、この理不尽な世界での生き方なのだろう。その世界を見限った彼女は、せめて自分の大切なものだけはもう二度と手放すまいと誓っているのだ。
けれど、私は違う。私はどこまでも欲張りだった。
この少しおかしな世界、誰かが必ず苦しまなければならないようになっている世界に、素直に屈することがどうしてもできなかった。
かといって、彼女のように自ら世界を見限ることも、世界を変えようと足掻くこともできなかった。私は身の丈に合わない多くのものを求めすぎていた。私は無力だった。
だからせめて、私が苦しめた世界に対する責任くらいは自分で取らなければならないと思ったのだ。
そうして私は、あの人に手を伸ばし続けている。けれどそれは、トウコ先輩が愛したNさんのような存在にだけ向けられたものでは決してない。
あの人のことを愛している訳ではないのに、あの人が私にとっての「かけがえのない存在」ではないはずなのに、
それでも私は「かけがえのない存在」への想いに引けを取らない切実さで、必死に手を伸べて、寄り添い続けている。
私は彼女のように、理不尽な世界に目を閉じることがどうしてもできなかった。
私が旅をして広がった世界は、私に沢山の事を教えてくれた。私はそのどれもを捨てることができなかった。私に理不尽を突き付けたこの世界でさえも。
私が欲張りであり続ける理由は、おそらくそこにあるのだろう。
「あはは、私が謙虚な訳がないじゃない。私はただ、あんたよりもずっと器用な生き方をしているだけよ」
「私、不器用ですか?」
「ええ、でも大丈夫よ。あんたがその不器用さに困り果てる時が来たとしても、私が助けてあげるわ。……もっとも、私の出番はないのかもしれないわね」
彼女はそう言って、私の背中を強く押した。
パラソルの日陰からはみ出した私は、溶けかけたヒウンアイスを口に運ぼうとして、しかしそれは叶わなかった。遠くの砂浜に太陽の色を見たからだ。
「アクロマさん、こんにちは!」
「こんにちはシアさん、今日も元気そうで何よりです。……おや、その水着はプルリルですか?」
彼は駆け寄った私の頭をいつものように撫でてから、私の着ていた青い水着に視線を落としてそう言った。
プルリルを模したこのワンピースタイプの水着は、セイガイハシティで売られている、イッシュ限定のものだ。
私は頷き、くるりとその場で回転してみせる。トウコ先輩のようにビキニを着こなす自信はないけれど、これならそこまでおかしくはない筈だ。
「変じゃありませんか?」
「ええ、似合っていますよ。しかしシアさん、貴方は泳げるのですか?」
「少なくとも、トウコ先輩よりは上手ですよ」
声を潜めて彼に告げる。彼女は泳げないのだ。
完璧な彼女のそんな欠点を、私と彼との秘密にする。ぱちりと至近距離で顔を見合わせ、私達は小さく笑った。
彼は私の手をそっと取り、トウコ先輩が寝転がっているパラソルの下へと歩き始める。
「シアさん、間違っていなかったでしょう?」
その言葉に私は思わず足を止める。振り向いて微笑んだ彼の太陽の目には、驚きに瞬きを忘れる私が映っている。
私は彼がかつて紡いだ魔法の言葉を思い出していた。
『今、わたしが貴方にできることがないのでしたら、せめて貴方の拠り所であれるようにしておきましょう。
ですからシアさん、もう迷わなくていいんですよ。貴方は間違っていません。仮に間違っていたとしても、わたしが支えます』
不思議な優しさを持っていたあの言葉は、春という一つの季節を越えて真実になっていた。
「覚えていてください。貴方は貴方が思っている以上に、多くの人に大事に思われているのですよ」
「!」
「シアさん、私はそんな貴方の拠り所になれたでしょうか?」
迷う筈がなかった。私は大きく頷いた。彼は心から安心したように笑った。
彼がくれた言葉の全てを、そこに込められた不思議な魔法の全てを、私は覚えている。忘れる筈がない。
きっと、私がこんなにも欲張りで在れるのは、欲張りな自分を許せているのは、そんな私を私以上に知ってくれている人がいるからだ。
誰よりも私を知っている、私の大切な人が、「間違っていない」と私の背中を押してくれたからだ。
嵐のように過ぎ去った春という季節は、私に大きな覚悟と小さな贖罪をくれた。
その覚悟があったからこそ、私はあの人に左手を差し出せたのであり、その贖罪があったからこそ、私はあの人に報いられたのだと確信することができたのだ。
「トウコさん、わたしにもヒウンアイスを頂けますか?」
「あら残念、私が全部食べちゃったわ」
「トウコ先輩、分かり易い嘘を吐かないでください」
クーラーボックスに6つも残っていたヒウンアイスを、この短期間でどうやって平らげたというのか。あまりにも無理がある。
しかしアクロマさんは、そんな彼女の嘘を問い詰めることはしなかった。「ではこちらを貰いましょう」と笑って、私の手からヒウンアイスを取り上げる。
彼が食べたかったのは、そんな食べかけのヒウンアイスではなかった筈だ。私は彼に「溶けていませんか? 大丈夫ですか?」と問いかける。
すると何故か、トウコ先輩が突如として笑い始めた。
「アクロマさん、本当に大丈夫? 私、あんたのことが心配になってきたわ」
「何のことですか、トウコさん。ヒウンアイスはこの通り、とても美味しく頂いていますよ」
彼は楽しそうに返答しながらヒウンアイスを口に運び、もう片方の手で私の頭を撫でる。
ふわりと苺の紅茶の香りが鼻をくすぐった。あの時間が何より愛しかった。そしてその愛しさは、時と場所を変えたこの海辺でも変わらない。
笑いを堪えながら、クーラーボックスからヒウンアイスを取り出した彼女は(やはり、食べてしまったというのは嘘だったのだ)、私の背後を見てその顔を盛大にしかめる。
「うわ、この陽気な夏の初日に、あんたの顔だけは見たくなかったわ」
私が振り返ると、そこにはダークさんが立っていた。その隣で、ジュペッタとチリーンが楽しそうに宙を舞っている。
一つの季節を経て、この二匹は随分と仲良しになったらしい。
「ダークさん、どうしたんですか?」
「……30分だけ、外出許可を貰ってきたそうだ。お前と、約束をしたのだろう?」
約束。とくんと心臓が揺れた。
『ゲーチスさん、夏になったら海に行きましょう』
あの言葉を、彼は覚えていてくれたのだ。私は何かを言おうとして、しかしそれよりも先に足が動いた。
サンダルを脱ぎ捨てて、私は駆け出した。遠くでアブソルのダークさんと一緒に歩いてくる長身を、私の目はしっかりと捉えていた。
冷たい海の中ではなく、燃えるような砂浜の上を歩きたかった。彼を組み敷き懇願するのではなく、隣を笑って歩きたかった。
夢見た未来がすぐ傍にある。交わした約束が果たされようとしている。もう私は躊躇わない。
「ゲーチスさん!」
私は大きく手を振った。彼は呆れたように溜め息を吐き、一瞬だけ微笑む。
2013.1.12
2015.1.15(修正)
Thank you for reading their story!
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「サイコロを振らない」