スケッチブックを膝に置き、彼を正面から見据えた。
「……」
「あ、どうぞ。お気になさらずいかりまんじゅうを召し上がって下さい」
「……私がそこまで鈍く出来ているように見えていたとは」
相変わらずの皮肉が飛んでくる。しかし咎める声は掛からない。
沈黙は肯定。それは彼に当て嵌まる不思議な等式だった。今回の沈黙もそれを示しているのだろうと察した私は鉛筆を構え、白いページにその芯を添える。
今日の彼は髪を一つに纏めている。最近は専ら、その若草色は無造作に肩へと流れていたので、私の目には些か新鮮に映る。
食べかけのいかりまんじゅうを机に置き、本を広げて目を伏せる、その顔色は以前より少しだけ健康的になった。
リン、と涼しい音に振り向けば、チリーンがゆらゆらと揺れている。空調の風に揺られているのかと思ったが、どうやらジュペッタが規則的に彼女をつついているらしい。
風鈴を模したその小さなポケモンに相応しい季節がやって来ようとしていた。
「ゲーチスさん、もうすぐ夏ですね」
「……それが何か?」
「あれから、一年が経ったんですよ」
その言葉に彼は顔を上げる。私は一年前を回想する。今日は旅立ちの日だった。
大切な人から託されたタマゴが孵った、その翌日。私はその命と共にヒオウギの町を飛び出した。世界は確かな輝きと複雑さを持って私の目に飛び込んできた。
私は鉛筆を止め、記憶の海を泳ぐ。その中には確かにあの瞬間もあった。死を覚悟したあの瞬間を、私は忘れていない。
緊張、戦慄、憤り、悲しみ。しかしそれら全てを飲み込んで、私は笑う。
今はただ、懐かしいと感じられた。私は、変わってしまっていた。
しかし、変わったのは私だけではなかった。それを私は知っていた。
アダンさんがこの場所にやって来て、写真をばら撒いて去っていったあの日、ゲーチスさんは一枚の写真を残して全てを処分した。
その写真には、彼と同じ紙の色をした青年が映っている。今も机の引き出しに入っているであろうその写真について、私は彼に問うことはしない。
問わずとも、彼の写真を捨てることができなかったその心情を、私は少しだけ理解できるような気がしたからだ。
「ゲーチスさん、右腕はもう治ったんですか?」
「……右腕?」
「最近は、あまり痛そうにしていませんから。治療が上手くいってよかったですね」
私も嬉しいです、と続けた。それは何気ない言葉だった。
しかし彼は本を乱暴に閉じ、あからさまに動揺する。首を傾げる私に、彼は大きな溜め息を吐いた。
「お前は自分が告げた言葉も覚えていないのか」
「私の言葉?」
彼のそんな皮肉めいた言い方は、私に、あの日のことを思い出させた。
彼の首に手を掛けたあの日。生きることが屈辱だと吐き捨てた彼に耐えきれず、組み敷いて、貴方にそんな権利はないのだと豪語したあの日。
『生きていてくれて、よかった』
『右腕がないことに悲しむ必要なんてなかったんです。だってゲーチスさんは生きているから』
『私、酷い人なんです。ゲーチスさんの右腕がないことに喜ぶ、どうしようもない人間なんです』
しかしそれらを思い出したからといって、彼が動揺する理由が判明する訳ではなかった。
尚も首を傾げ続ける私に、ジュペッタのダークさんがココアの入ったマグカップを差し出しながら告げる。
「前に説明した筈だが」
説明。それはあの、幻肢痛のことだろうか。
『失った手足が痛む現象のことだ。ゲーチス様はそれに苦しんでおられたが、しかし、直に収まるだろう』
以前、ダークさんが説明してくれたその言葉を私は覚えていたが、しかしそれでも腑に落ちないことが幾つかある。
なくなってしまった右腕の痛みを、どうやって治すのか。そもそも、ない筈の腕が痛むとはどういうことなのか。
痛みがなくなることはとても喜ばしいことである筈なのに、どうして彼はその指摘に動揺し、私に「自分の言葉も忘れたのか」といった痛烈な皮肉を投げたのか。
ゲーチスさんが苦しんでいた「幻肢痛」という難しい現象と、それに付随する彼の心境は、私の理解が及ぶ限界の、更に向こう側にあったのだろう。
そう判断した私は「現代の医学は謎が多いですね」と呟き、苦笑していた。
「ゲーチス様の幻肢痛は、その大半が心因性のものだった」
ダークさんが、そんな言葉を紡ぐまでは。
「心因性……心を変える薬があるんですか?」
「お前の言葉だ」
カラン、と透明感のある音を立てて、鉛筆が白い床に落ちる。
これから色を付けようとしていたその絵はモノクロのままに、私は瞬きをすることも忘れて息を止めた。
心因性。私の言葉。
もし、彼のない筈の右腕の痛みが、彼が強く感じていた屈辱によるものだとしたら。
右腕を失った自分を、自らが利用したポケモンに傷付けられる自分を、屈辱的に思う気持ちが、その痛みを生んでいたのだとしたら。
幻肢痛とは本来そうした幻の痛みのことで、それは心の在り方によって呆気なく消え去ってしまう可能性を孕んでいたのだとしたら。
『右腕がないことに悲しむ必要なんてなかったんです。だってゲーチスさんは生きているから』
あの言葉が、彼の心に響いていたのだとしたら。
白い床から何かがせり上がってくるのを感じていた。足を伝い、背中を上ってきたそれは相応の温もりを持っていて、私は、困惑した。
嘘だ、と思った。それは違う。そんな筈はない。
だって彼は私を殺そうとした。私は彼から全てを奪った。死を選んだ彼からその命すらも強引に奪った。
そんな欲張りな私に対して、今まで以上の屈辱を受けるならまだしも、そんな感情を抱くなんて、ありえない。
万が一、そんなことがあったとしても、それが彼の右腕の痛みを奪い取る程の温もりを持っているなんて、そんな筈はないのだ。だって、彼は。
「ゲーチスさんは、私のことが嫌いなんじゃなかったんですか?」
私はそう問いかけた。視界はぐらりと揺れて、私は溢れるものを両手で忙しなく拭った。
拭いきれなかった涙はスケッチブックに大きな染みを作った。彼の長い髪が涙に溶けて淡く滲んでいた。
私は本当に貴方の痛みを和らげられたのかしら。いつから私は許されていたのかしら。私は彼に報いられたのかしら。
そんな疑問を反芻しながら私は両手を忙しなく動かしている。溢れるものをひたすらに拭っている。長い沈黙はただ所在なく二人の間を漂っていた。
「私は、」
彼はそんな私に小さく呟く。
「嫌いな人間を傍に置いておける程、器の広い人間ではない」
その時私は確かに、氷の割れる音を聞いたのだ。
ぷつん、と糸が切れたかのように声をあげて泣き始めた私を、彼がどんな表情で見ていたのかは解らない。
いつものように呆れた顔をしていたのか、あるいは私への興味を失い、窓へと視線を逸らしていたのか、それともみっともない泣き方をする私を嗤っていたのか。
けれど僅かな靴音の後で、私の背中にそっと手が回された。それが彼の片翼だと私は知っていた。
「馬鹿な子だ」
聞き逃してしまう程の小さな、囁くような声音を、しかし私は聞き逃さない。聞き逃す筈がない。
2013.1.12
2015.1.15(修正)