22

曇天だ、ただひらすらに暗い。私の期待とは間逆の天候になってしまった。
そんなルネシティの空を睨み上げる。この町を囲むクレーター跡は、確かに空を丸く切り取っていた。しかし、違う。これではない。
透き通るような丸い青を見たかった。その空を写真に収めたかった。

『その空を綺麗に撮れたら、是非わたしにも見せてください』
アクロマさんにそう言われ、私は笑顔で頷いたのだ。いつだって私を支えてくれる優しい彼に、丸い空を見せてあげられなかったことが残念でならない。

泣き面に蜂とはこのことだろうか、バケツをひっくり返したような大雨だというのに、私はまたもや傘を持っていなかった。
学習能力のない自分に呆れる。傘を携帯するという習慣を、私はそろそろ身に付けるべきなのかもしれなかった。
昨日の比ではなく全身が濡れる。歩くのも億劫になる。
隣を漂っているロトムを、私は慌ててボールに仕舞った。視界の確保さえも危うくなってきた大雨の中では、はぐれても見つけられる自信がなかったからだ。

取り敢えず、ポケモンセンターで雨宿りをさせてもらおう。そう思った私は半ば意地になって歩みを進めた。
水溜まりを強く踏みつけた。そこに映る自分の顔は泣いているようにも見える。
雨音が肺の中まで入って来る。息が苦しくなる。身震いして、そして気付いた。

「寒い」

その戦慄はあの凄まじい冷気を呼び起こす。あの恐怖を呼び起こす。四肢が震える。私はその場にしゃがみ込んで動けなくなった。
違う。彼はそんなことはしない。そうするだけの力を最早彼は持っていないし、あの場でのイニシアティブは完全に私の側にあった。
彼は私を傷付けない。傷付けようともしない。だって彼は私にタオルを貸してくれた。好きにしなさいと言ってくれた。彼は。

私は震える手で自分の額をなぞる。傷跡はまだ残っている。
では、これは何だというのだろう。

割れた花瓶による切り傷は、浅いとはいえその跡をくっきりと額に刻んでいた。
これは裏切りではなかろうか。額に痛みが走ったあの時、私はふとそんなことを思ったのだ。煮え湯を飲まされたような心地になり、ただ、絶望したのだ。

変化は突然だった。右肩を抱いて小さく声を上げた彼に手を延ばした瞬間、勢いよく振り払われていた。
明確な拒絶、その目に宿る狂気。後退りした頃にはもう遅かった。彼の左手は花瓶を掴んでいた。
それはハジツゲタウンの近くに積もる火山灰を、ガラス職人の男性に交換してもらって手に入れた、小さな青いビードロの花瓶だった。
毎日通って手に入れたのがこんな小さな花瓶ですか、と呆れたように言われてしまった記憶はまだ新しい。
薄い硝子製のそれは割れて粉々になった。破片は蛍光灯の光によって眩しく光っていた。
彼は私を裏切ろうとしていたのだろうか。

……そして本当にそれを裏切りとするなら、それは彼のせいではない。
彼の傍を選んだ癖に、彼の全てを彼だと認められない私のせいだ。彼の狂気を、痛みを、苦しみを、絶望を、理解し受け止めることができない私のせいだ。

そう、きっと私のせいなのだ。それでも、私は寄り添うと誓った。

「!」

雨が止んだ。その代わりに大きな影が差し、わたしは弾かれるように顔を上げた。

「どうしました、レディ。ずぶ濡れじゃありませんか」

その低いバリトンに彼を重ねながら、しかし私に傘を差し出すその顔は、彼と似ても似つかない柔和な笑みを浮かべていた。
青いお洒落なコートを身に纏い、特徴的な白いスカーフのようなものを首元に付けている。黒い傘をこちらに差し出して微笑む彼を、私は何処かで見たことがある気がした。

「……おや、これはこれは」

しかしその既視感に、私よりも先に彼が気付く方が早かったらしい。
「久しぶりですね、シア」と紡いで笑う彼に名前を言い当てられ、そして気付いた。
去年の秋、ホドモエシティのポケモンワールドトーナメントで彼と戦ったことがあったのだ。
ホウエン地方からやって来たという、紳士的な口調の彼と、私は決勝で戦った。確か名前は、

「アダンさん」

「ええ、そうですとも。君のようなレディに名前を覚えて頂けるとは、いやはや、嬉しいですね」

彼はそんな冗談を言いながら、私の腕を掴んで立ち上がらせた。
アダンさんがホウエン地方でジムリーダーを務めていることは知っていたが、まさかこの町だったとは。
しかし、周囲を海に囲まれたこの町は、水タイプのエキスパートである彼がジムリーダーを務めるに相応しい場所だと思った。

「さて、雨に濡れるレディもなかなか美しいものではありますが、このままでは風邪を引いてしまいますよ。傘はどうしました」

「私、傘は携帯しない主義なんです」

おどけたようにそう言ったのは、おそらく、身体の震えを誤魔化す為だったのかもしれない。
しかし私よりも一回り以上年上である彼に、そんな文句は通用しなかったらしい。現に穏やかな声を降らせる、彼の目はその声音よりも鋭く、真摯だった。

「やれやれ、こんなに顔を真っ青にして、よくそんな冗談が言えますな」

「す、すみません」

「とにかく、一度ジムにおいでなさい。レディに出すような着替えはありませんが、タオルと温かい飲み物で歓迎しましょう」

如何です?と歌うように紡いだ彼の親切を、私は拒むべきだったのかもしれない。
いくら面識があるとはいえ、ずぶ濡れで他人の家にお邪魔するなんてこと、本当はしてはいけないことだったのだ。
それならまだ、公共の場であるポケモンセンターのロビーを水浸しにする方がよかったのかもしれない。けれど私はその手を取った。
今は一刻も早く、この寒さと恐怖から逃れたかったのだ。
そして、それらから逃れる手段として、あの人に似たバリトンを持つこの人の手を選んでしまったのは、きっと偶然ではないのだろう。

ルネシティのジムは、町の中央に位置していた。彼はジムの裏にある自宅へと私を案内してくれた。
家具の少ない落ち着いたその空間で、私はまたしても思わぬ人物と再会する。

「師匠。そちらの少女は?」

「あれ、シアじゃないか! どうしてルネに?」

リビングで寛いでいた二人の男性のうち、石を磨いている方の男性を私は知っていた。
彼こそ、ゲーチスさんの療養場所を確保するために、トウコ先輩が連絡を取った相手であり、ホウエン地方のチャンピオンでもある、ダイゴさんだ。
私は彼とも、ポケモンワールドトーナメントで戦ったことがあった。チャンピオン枠として出場した彼はとても強敵だったが、今のところは2勝1敗で勝ち越している。
アダンさんは「おや、ダイゴとも知り合いだったとは」と、微笑みながら私に大きなタオルを貸してくれた。

「ルネの空を見に来たんです。とても綺麗だって聞いたので」

「そうか、生憎の雨で残念だったね」

そう言ってから、彼はもう一人の男性に私を紹介してくれた。
緑の髪が特徴的な、整った顔立ちの男性は、先程から私をじっと見つめて首を傾げている。

「ミクリ、彼女はシアといって、イッシュの新しいチャンピオンなんだ」

「……ああ! 成る程。何処かで見たことがあると思っていたんだ」

ミクリと呼ばれた男性は納得したようにポンと手を打ってから私に向き直り、ずぶ濡れの私に向かって恭しくお辞儀をしてみせた。
背の高いスラリとした長身を綺麗に折る、その姿があまりにも優雅で私は息を飲む。

「レディ、そこへ座っていなさい。何か温かいものを入れましょう」

アダンさんの言葉が終わるより先に、ミクリさんは私の手をそっと引いてソファへと誘導した。
まるで自分が淑女か何かになったかのような扱いを受けている。慣れないことに私は少し緊張しながら、そのソファにそっと腰かけた。
思っていた以上に柔らかいそのソファに、私は思わず歓声を上げる。ダイゴさんとミクリさんは、そんな私の様子に顔を見合わせて吹き出した。

「ご、ごめんなさい!」

「いや、無理もないことだよ。ボクも初めて座った時は、君のように驚いていたからね」

「その後、調子に乗ってソファの上で跳ねまわり、スプリングを壊したのは何処のどなたですかな?」

キッチンの方からアダンさんの声が飛んでくる。ミクリさんがその言葉に吹き出す。
「……はい、ボクです」と親に叱られた子供のように、肩を竦めて笑うダイゴさんがおかしくて、私も笑った。
冷たかった指先は、徐々に温度を取り戻していた。

2012.12.28
2015.1.12(修正)

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